第2話 美術館

 改札を出てすぐ前に広い横断歩道がある。多くの人が行き交っている。信号が青になった。歩き出す。

「ここはさすがに人が多いですね」

「都内まで来たからずいぶん違うね」

「今日はどこに行くんですか?」

 ワモリさんはぼくの横を歩きながら訊いた。

「美術館を一つと、科学博物館と、あと、時間があれば美術館をもう一個回ってみようかと思ってる」

「美術館ですか」

「ぼくが好きな人の企画展があるからね」

「この帽子は画家っぽいイメージですか」

 通りを渡り公園に入ってからワモリさんは立ち止まり、自分の衣装を確認した。タイトスカートは深い緑のタータンチェック。その下に黒のタイツ。上着と帽子はスカートに合わせたトーン。

「君にはいろいろな絵を見てほしいよ」

「絵ですか」

「写真じゃなくて、人が描いた絵。それも美術館で」

「わかりました」

 広場を手前に、交番のところの四つ角を左に曲がった。しばらく歩いてやや奥まったところに、これから見る美術館があった。企画展のタイトルがイメージイラストとともに壁に描かれている。やっているとは調べて知っていたけれど、実際に来てこれを見るとほっとする。

 長谷川鉄二回顧展。

 先年亡くなったイラストレーターの作品を集めた企画展。全国で行われていて、都内の開催はこことなる。

 今日はここかな、と思い、その美術館を背景にワモリさんを撮影した。


 入場するとまずは白黒のイラストの展示だった。

「ここはモノトーンの絵なんですね」

「新聞や雑誌の広告に使われた絵だね。どこかで見た記憶があるけど、これも長谷川先生とは知らなかったよ」

「どうして白黒なんですか」

「紙のメディアでは、白黒印刷の方がコストがはるかに安かったからね」

「紙ですか」

「それに、見てごらん。白か黒、そのどちらかの色だけで描いてあるでしょう」

「え? でもこの人の顔のグラデーションのところは…」

「点描だね。手でペンを持って一個一個打ってるんだ。遠目に見て絶妙な濃淡になるように」

「グレースケールを点の密度に換算しているんですね」

「結果的にね。ただ、点を自分で打っているから、『絵』としてより効果的になるよう、十分考えてあるよ」

「考えて?」

「インクジェットプリンターがインクをプロットする間隔を計算するのとは少し処理が違うということ」

「違うんですか」

「というか人にはプリンタードライバーはインストールされてないから」


 次の部屋に入った。

「ここはカラーですね」

「全部、本の表紙と、ポスターだ」

「すごい」

「すごいだろう」

 僕らは塔のような高い台の側面を埋める本の表紙にしばし見入った。

「ほら、この飛行機や軍艦の本」

「分かりますよ。実物の写真と同じように描かれていますね」

「そうだよ。昔の戦争の場面を描いているからね。実際にあった兵器が描かれている」

「そうすると歴史の本なんですか?」

「歴史の本もあるし、兵器そのものに関する本もあるし、パイロットの手記とかもある。何冊も読んだけど面白い本が多かったよ」

「紙の本でですか。歴史を感じますね」

「さらに言えば、背表紙が水色の本は相当前に出版社がなくなって、電子書籍が中心の今ではもうほとんどが手に入らない」

「では芸術としてだけではなく、歴史的な価値もこの本には」

「ぼくにとっては非常に重要な価値がある。ただ、文庫本が人類の歴史にとってどれほど重要かは分からないけどね」


「ここからまた絵の写真を撮っていいみたいだね」

 しばらく印刷物の展示室を見て、次の原画の展示室に入った。ありがたいことに、撮影可能と示されている。

「これは写真なんですか?」

「油絵だよ。色合いがすごく人工的だろう」

「ああ、色の分布が普通の写真と違いますね」

「もちろん描かれているものの形は写実的だけど、全体の構図や、使ってる色合いは、先生が意図したものだ」

「もしかしてそれが『創造』ですか」

「その通り。それに、元はただの白い布地だからね。絵描きが何をどう描くか考え、描き始めないとなにもない」

 独特の力強いタッチで描かれた油彩画を一枚ずつ見ながらぼくらは進んだ。

「油絵の隣の色のない絵は何ですか?」

「下絵だね。キャンバスにいきなり描くんじゃないんだ。まずどんな絵にするかを、より描きやすい大きさで鉛筆などでぱぱっと描く」

「ああ、確かに似てる絵ですね。………あ、でも、あの赤で描いてある直線はどうなったんですか?」

 下絵に描かれた正方形のグリッド線を指してワモリさんは聞いた。

「下絵をキャンバスに転写するときのガイド線だよ」

「ガイド線?」

「下絵とキャンバスにガイド線を描いて、グリッドごとに絵を描き写していくんだ。ぼくも文化祭で模造紙のポスター作るとき、そうやって下絵から転写したことがあるよ。画家の人もやるんだね」

「どうしてそんなことを?」

「そうしないと絵の形が狂ってしまうから」

「見たまま描くのに形が変わってしまうことがあるんですか」

 ワモリさんがぼくの顔を不思議そうに見て訊いた。

「いやいやいや、人は物を正確に描くことはとても難しいから。君も子供が描いた人の絵が写真の人間と大きく違うことぐらい知ってるだろう?」

「んんん? 思い出しました! 『ぼくのパパ』みたいな絵はマンガの人で、写真の人とは違いますね」

「もしかしたら、なんか独特の認識をしてるみたいだけど、そういうこと」

「え? 私勘違いしてます?」

「いや、いや、そうは言ってないよ。絵が得意じゃない人や、小さい子供が人の絵を描くと、だいたいそうなっちゃう。丸い輪郭に、丸い目と線の口と、あと雑に線を引いて髪の毛」

「でもそれって、人を抽象化してるんでしょう」

「半分当たって、半分違う」

「半分?」

「描かれた絵は抽象的なパパ、やママだったりするけど、描いている本人は、目で見たパパやママを描いているんだ。少なくとも、ぼくが小さい頃はそうだった」

「目で見たまま描いているのに、抽象的に描けるんですね」

「いい意味で言ってるみたいに聞こえるけど、写真のように見たままの顔を描くことは練習しないと難しいんだ。顔の形を画像ファイルのように記憶しているわけじゃないからね。顔と認識したとたんに脳は雑多な画像情報を捨てて、丸とか線とか、情報量の少ないものにしてしまう。だから、紙に描こうとすると、抽象的な顔になってしまうんだ」

「うーん………」

「ごめん、話が長かった。簡単に言うと、人は見たままのものを見たままの形で描くことが基本的にできないんだ」

「そうなんですか?」

「画像情報は、脳が処理するには重すぎる」

「人もデータが重いと処理に時間がかかるんですね」

「時間がかかるというより、脳が処理を放棄してしまう」

「タスクを放棄するんですか」

「そう表現するとすごいことを脳がしてるみたいに聞こえるね」

「いえ、すごいと思います。過負荷を自発的にタスクキルして乗り切るなんて」

「まあ、その辺、人の脳をどこまでコンピュータで例えるのが妥当かは難しいから、ぼくはあまり突っ込まないでおくよ」

「でも、ここの絵はどれも、写真みたいに正確に描けてますよ」

「訓練を積んでいるからね」

「訓練ですか」

「人は画像を正確にずっと記憶することはできない。でも、練習すれば、画像のどこに気をつければ、丸と丸と線、みたいな絵ではなく、より本物に近い絵、写真みたいな絵が描けるかが分かってくる。そうやって訓練を積むことで、目の前の景色に、心の中で創造したイメージを足して、ここにあるような絵を描くことができるんだ」

「ああ、分かってきました。グリッドで元の絵の座標を大まかに拾うんですね」

「そう。グリッドどうしを対比して、同じ位置のグリッドを選んで、グリッドの中の狭いところを描き写す。それをグリッドの数だけやれば転写できる」

「そういうのが創意工夫なんですね」

「絵はそういう工夫、というか技法と、画家の才能と、両方でできてるんだよ」

 ぼくは長々と喋ってしまった。ワモリさんと絵について話せてよかった。これでワモリさんが絵のことをもっと理解してくれるとうれしい。

「あれ?」

 近くのカップルが一枚の絵を指差していた。

「ねえ、見て、遠くだと顔に見えるでしょう」

 それは飛行機が編隊で飛んでいる絵。操縦席のパイロットが朝日に照らされた顔でこちらを見ている。

「近くで見ると、ほら」

「ああ、すごい、本当だ!」

 気になったのでその人達が退いてから、僕らも絵に近づいた。

「あ!」

「どうしたんですか?」

「こっちを見ていると思った顔、肌色の絵の具で∨字型に筆で絵の具を置いただけだ。ほら、全員がそうだよ」

「え?」

「だから、遠くからだと顔に見えるのが、実は肌色を適当に塗っただけだったんだ」

「人に見えていたんですか」

「え?」

「え?」

「ああ、分かった。うん、そうなんだ。遠くからはっきり見えないと、肌色の部分に記憶で人の顔をインポーズして、こっちを見ているように錯覚してしまったんだ」

「そんなことがあるんですか」

「飛行機の形、人の体の形、光と色合いの関係。こういったものが僕らの脳から記憶を引き出して、顔の肌色に表情を脳内で合成させたんだね」

「ああ、人はそんなふうに絵を見てるんですか。説明されるまで分かりませんでした」

「ぼくも説明が正しいかは自信ないけど、たぶんそういうこと」

「私もまだまだ勉強が足りないなあ」

「分からないことが分かったら聞いてね。ぼくなりに説明してみるよ」

「はい」

 僕らは次の絵に移った。そして、ワモリさんにもっと絵のことを知ってもらおうと、いろいろなことを話した。

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