第10話 軽い女①

 入学式の頃には満開だった桜も散り始め、縦横無尽に空を舞っていたスギ花粉がヒノキ花粉にバトンタッチ。本格的に授業が始まると、この杏泉きょうせん高校が有名進学校であることを身をもって知ることになる。なんといっても中学校とではスピードが違う。先生も、生徒が優秀であることを前提に授業を進めているようだ。クラスメイトは友人であると同時にライバルであり、すでにクラスの何人かは通う予備校を決めたらしい。

 そんな四月中旬の暖かなある日のこと。場所はいつもの司書室兼文芸部室。

 葉月がついにおかしくなった。

「私さ、ストーカーにつきまとわれてるみたいなの」

「ははっ」

「笑いごとじゃないでしょ!」

「いや、今のは思い出し笑いだ。昼に津村が『イタリアン』って言ってしりとり負けたじゃん。『イタリア』でよかったのにな」

「タイミングに悪意がある! あと高校生にもなってしりとりしてんのかい!」

「葉月ちゃん、話が逸れてる……」

 伊吹の言葉に葉月は「そうそう」と話題を戻す。現在部室には一年生が三人だけ。部長の由利と副部長の浩史は部長会議なるものに出席している。

 杏泉高校は各部活の運営を主に生徒に任せているという特色がある。もちろん部費の保管など大切な部分は顧問の先生が行っているが、活動方針の取り決めや会計報告は生徒の仕事。来年度の部費の交渉までも生徒がするというのだから驚きだ。社会に出た時のことを考え、部活という小さな組織ではあるが、今から自分たちの手で運営することで色々なことを学ばせようというのだろう。

 そしてその運営にあたり、文化系の部の部長と副部長から構成される「文化部連合」という組織が存在する。定期的に会議の場をもち、イベントの告知や苦情があればその解決案を話し合っているらしい。秋の文化祭前にはもっと忙しくなるという。もちろん、運動部にも同じような組織がある。

 由利と浩史がそこに出ているため、一年生だけが部室にいる。美紗子は道場に顔を出すとのことで下校し、宋次郎は例によって来ていない。籍を置いているだけだという三年生の先輩にも一度は会っておくべきだとは思うのだが、部室に顔を出す気配もない。きっと受験勉強が忙しいのだろう。

 由利たちが会議を終えて部室に来るまで、小説のプロットを練ろうと思っていた矢先に、葉月のアレだ。空気の読めない奴である。

「なんかね、移動教室の時とか昼休みとか、誰かに見られてるみたいなのよね」

「自意識過剰だっての。だいたい、俺だって授業中に視線感じることあるぞ」

「は? 誰があんた見て得すんのよ」

 ひどい言いようだ。だが、視線を感じるのは事実で、そんなに見たいなら「見ます」って言ってくれればいいのにと思う。

 すると、伊吹が頬を染めて言った。

「ごめんなさい……。多分、それ、私だと……思う」

「伊吹さん? え? 俺見てたの?」

 ちょっとどころじゃなく嬉しいんですけど。

「あの、席の位置の関係でちょうど視界に入るの。それで、龍平くんって、授業中にたくさん発言するから、つい見ちゃうっていうか……」

 あ、そういうことか。言われてみれば伊吹は龍平の左の後ろの席で、普通に黒板を見ようとしても視界に入る。

「へー、龍平って授業中うるさいんだ」

「うるさいとは失礼な。俺は積極的に授業に参加してるんだよ。杏泉の授業は下手な予備校よりもレベル高いし」

 東京大学を目指す身である。勉強に妥協は許されないのだ。こちらは学費を払っているのだから、全力で授業を受けなければ損をするではないか。

「ま、それは正しいかもね。それで、私のストーカーのことなんだけど……」

 葉月によると、その視線は移動の時や昼休みなど、教室の外にいる時に感じるので、視線の主はクラスメイトではない。葉月を見ているだけで、接触してくるようなこともない。薄気味悪いが、なかなか犯人が特定できないとのこと。

「怖いね……。校内でストーカーなんて……」

 伊吹はすっかり信じきっているようだが、龍平には被害妄想に思えて仕方がない。それこそ、葉月を見て得する奴などいるはずがないのだから。

「だからさ、龍平もちょっと警戒してよ。怪しい人がいたら教えて」

 昼休みは一緒に弁当を食べることが多いから、自分と伊吹が警戒していれば早くに犯人を発見できるかもしれない。仮に本当にストーカーがいるとして、その目的は何なのだろうか。もし万が一の確率で葉月に好意を持っているのだとしたら、こそこそしないで名乗り出るべきである。男だろ。

「わかった。気をつけてみるよ。物好きな奴もいたもんだな」

「一言余計だってば。私だってこんなこと初めてで……」

「失礼します!」

 葉月の言葉を遮って、部室のドアが勢いよく開かれた。驚いてそこに目をやれば、入ってきたのは由利と同じリボンの色の二年生。ストレートの明るい茶髪を優雅に流し、どこか気品を感じさせる顔立ちである。その先輩は、三人を値踏みするように見ると、最後に葉月と目を合わせた。

「あの……文芸部に何かご用でしょうか」

 目の合った葉月が応対する。一年生であれば見学に来たのかもしれないと考えられるが、彼女は二年の先輩だ。文芸部の二年生で会っていない人はもういないはずだし、今から文芸部に入部希望だろうか。

「申し遅れました。私は水沢秋乃みずさわあきの。この度は、みなさんに用があって参りました」

 後輩相手にも礼儀正しい話し方。まだ秋乃が部室に入ってきて一分も経たないが、育ちの良さというものがうかがえる。

「私たち、ですか?」

「ええ。ぜひとも私の同好会にお招きしたいと思いまして」

 秋乃からでた「同好会」という単語。部よりも待遇は劣るが、学校から認められている小規模な組織たち。設立に必要な人数も少なく、同好会を作るのはそれほど難しいことではないと聞く。学校内にどれだけの同好会が存在するのか、おそらく先生たちでも把握している人は少ないだろう。

「いえ、私たちはもう文芸部に入ってますから……」

 そりゃそうだ。なんといってもここは文芸部室。秋乃は堂々とヘッドハンティングに来たのだ。お嬢様みたいな容姿をしておきながら、なんと大胆な。

「それは存じております。ですが、私たちの活動を知ったらきっと興味を持つはずです。特に君島葉月さんは」

 やけに自信満々だな。ライトノベルが好きで文芸部に入った葉月が、他の活動に興味を持つとは思えない。

 いや待てよ。まさかとは思うが。

「えっと、何の同好会なんですか?」

 葉月が訊く。秋乃は腰に手をあて、待ってましたとばかりに声を大にした。

「ライトノベル同好会です!」

「行くー!」

 目を輝かせて葉月は立ち上がる。ふらふらと秋乃にくっついていきそうになる葉月のポニーテールを龍平が掴む。

「待てい!」

「ぐえっ。ちょっと何すんのよ」

「知らない人についていっちゃいけないって教わっただろ」

「……あっぶねー。私としたことが基本的なことを忘れるところだったよ」

 着席。

「それで座っちゃうんだ……」

 伊吹は戸惑いながら小声で言った。

「もちろん、私たちの活動はきちんと説明させてもらいます。ここ、よろしいですか?」

 龍平たちが承諾する前に、秋乃は椅子に座ってしまった。二年生ということもあって追い返すわけにもいかず、とりあえずお茶を出した。「どうも」と秋乃は会釈をする。秋乃が飲んでいるのは紙コップに入ったお茶なのに、カップにそそがれた紅茶に見えてくる。もしかしたら、本当のお嬢様かもしれない。

 秋乃の説明する同好会の活動は単純なものだった。ライトノベル同好会という名前の通り、そこはライトノベルが好きな人が集まる場所で、部室がないから視聴覚室を借りて活動の場にしているらしい。

 主な活動はライトノベルについてお喋りすることと、自分たちが書いたライトノベルについて感想を言い合う批評会の二つ。

「全部で何人いるんですか?」

 すでに葉月はワクワクが止まらないといった感じだ。

「設立してまだ一年ほどでして、恥ずかしながら十人にも満たない状態です。男女比は半分ずつといったところでしょうか」

 少人数ということなら文芸部も同じようなものだ。ライトノベルに的を絞っているのだから、大所帯になることはない気がする。

「プロを目指している人はいるんですか?」

「もちろんです。私もその一人ですし」

「ホントですか!? どこか投稿したことありますか?」

「ええ。運よく一次選考を通過したことがあります」

「すごい! 尊敬しちゃいます!」

 龍平にはそのすごさがわからない。秋乃は一次選考を通ったと言っていたから、二次で落ちたのだろう。果たして、プロになるには何次までいけばいいのか。興奮した葉月が矢継ぎ早に秋乃に質問しているうちに、龍平は小さく隣の伊吹に訊いてみた。

「ねえ伊吹さん、ライトノベルの新人賞みたいなやつってそんなに獲るの難しいの?」

「私も詳しくないんだけど……、規模にもよると思う。出版社ごとに投稿してくる原稿の数が違うから」

「そっか。多いところってどれくらいなのかな。五百くらい?」

「ううん。五千くらいって聞いたことあるよ」

 桁が違った。マジかよ。そんなにいるんだ、作家になりたい人って。仮に複数人が受賞するとしても、何千という作品よりも面白い小説を書かないといけない。葉月が目指しているという夢は、実はとんでもなく高い壁の向こうにあるのかもしれない。

「そういえば、どうして葉月がライトノベル好きだって知ってたんですか?」

 さっき、秋乃は葉月を名指ししている。しかし秋乃とは初対面のはず。まさか部室に入ってきた瞬間に三人の中で誰が一番ライトノベルが好きか見抜いたというのだろうか。

「同好会の者が、電車でライトノベルを読む君島さんを見たとのことで、失礼ながら多少の調査をしました。調査といっても、休み時間などに監視する程度ですが」

「ストーカーって先輩のことだったんですか!」

「心外ですね。私は物陰から熱い視線を送っていただけです」

「それがまさにそれ!」

 こうしてストーカーの正体が判明した。変な趣味の男でなかったことに安心する一方で、変な先輩だったことへの不安が募る。

「とにかく、今日も数人集まっているでしょうから、是非見学に来てください」

「あ、はい。それじゃあ……」

 鞄を持って部室を出ていこうとする葉月。本当にこのままライトノベル同好会に入ってしまうのだろうか。だとしたら、文芸部を辞めることになる。自分としてはどうでもいいが、伊吹が寂しそうな表情をしている。

「おい待て、お前マジでそっち行くのか?」

「見学するだけだって。何? 龍平は私が文芸辞めるのが嫌なの?」

「違えよ。俺はただ……」

「待ちな」

 その時、部室に新たな訪問者があった。ドアのすぐ近くの壁に寄り掛かっているのは、眼帯と包帯という斬新なファッションに身を包んだ、謎の組織に所属するエージェントだった。

「舟木先輩!」

「…………」

 おや、無反応だ。

「ドントクライ先輩!」

「久し振りに部室に来てみれば……。やはりお前か、水沢」

 本名には応えてくれないのか。徹底していると同時に面倒だ。

 舟木宋次郎ことドントクライ先輩は、芝居がかった口調で秋乃を見据えた。

「くっ……ドントクライ。どうしてここに」

 秋乃は口の端を歪ませて、宋次郎の登場にうろたえる。もはや部外の人まで呼び名が浸透していても驚かない。

「文芸部員が部室に来て何が悪い。……まあ、ボスの命令に従ったまでだがな」

 宋次郎は懐から銀のボトルを取り出すと、一口飲んだ。ヘルシア緑茶だ、多分。

「ボス……? 一条由利の仕業ですね」

 ここでいう「ボス」というのは部長の由利のことのようだ。

「ああ。文化部連合の部長会議で二人が不在で、美紗子の奴も今日は来ない。一年生だけの時を狙ってお前が勧誘に来るのではないかとボスは踏んでたんだよ。そこで呼ばれたのが俺ってわけだ。まったく、人使いの荒い奴だぜ」

 由利は秋乃が来ることを予見していたのか。そこで普段は部室に来ない宋次郎を呼んでおいたと。龍平たちだけでは二年生の秋乃に強く出られないが、宋次郎は同じ二年生で、しかも顔見知りみたいだ。

「しかし、あなたが来ても同じことです。君島さんは自分の意思で私のライトノベル同好会の見学に来るのですから。それを止める権利はありません」

「確かにお前の言う通りだ。だが、葉月嬢は正式に文芸部に入部している。勧誘をするってんなら、せめて二年の誰かを通すべきじゃねえのか? こいつらはまだ入学したての新入生だ。どれだけ任意だって言っても、上級生から言われりゃ強制力が生まれちまうんだよ」

 おそらくは、ここにいる一年生三人は同じことを思っているはずだ。

 この人、まともなこと言うんだ。

「う……。でしたらドントクライ、文芸部二年のあなたの許可をここで取りましょう。君島さんを少しの間お借りします。いいですね?」

「いや困るね。それは許可できない」

 今にも葉月の腕を掴んで部室を出ていきそうな秋乃だったが、宋次郎は首を横に振った。

「なっ……。君島さんはライトノベル同好会に興味があるんです。どうしてあなたが拒否できるんですか」

 秋乃の言う通り、葉月を引き止めるだけの力はない。いつでも辞められる部活動だし、宋次郎は部長でも何でもない。

「……ちょうど今、俺の組織の中で女の諜報員が不足していてな。葉月嬢を推薦しようと思っているところだ」

「あなたも勧誘ですかっ!」

「というわけで葉月嬢、俺と一緒に働かないか?」

「え? 諜報員って、スパイみたいなやつですか?」

「そんなところだ」

「で、でも私なんかでいいんですか? 銃とか使えないですけど……」

「お前も迷うなよ!」

 実在しないからその組織。あるなら見てみたいくらいだ。

 宋次郎はおもむろに制服のポケットから煙草を取り出した。まさか吸うつもりではあるまいと思っていたら本当に吸い始めた。よく見たら無害な水蒸気が出るだけの電子タバコだ。結構値段が張るはずなのだが、しっかり自分のキャラクターを演じるために出費は惜しまないのだろう。

「ふっ……。冗談だ。俺の仕事は時間稼ぎだからな」

 水蒸気でできた煙を吐き出し、宋次郎が不敵に笑った。

「時間稼ぎ? まさかっ……」

「そのまさかだ秋乃! やはり現れたな」

 本命登場。我らが部長、一条由利がやってきた。すぐ後ろには副部長の浩史。

「由利の予想通りだったな。ドントクライを呼んでおいて正解だったよ」

「言っただろ浩史。秋乃はこういう奴だ。急に呼び出してすまなかったな、ドントクライ」

 報酬代わりに由利がガムを投げると、宋次郎は片手でキャッチ、し損ねた。眼帯のせいで遠近感が掴めていないのだろう。

「俺は帰るぜ。まったく、やれやれだぜ」

 何事もなかったようにガムを拾って、宋次郎はどこか満足げに帰っていった。きっと「やれやれだぜ」が言いたかったんだと思う。

 部長と副部長が戻ってきて、秋乃は文芸部員に囲まれる形になる。しかし決して悪いことをしているわけではないので、秋乃は態度を崩さない。

「さて秋乃よ。私がいない隙に葉月を拉致しようとはお前も地に落ちたな」

 いつものように上から目線で、由利は腕を組んで秋乃と対峙した。部室の空気がいつになく緊張したものになる。

「拉致とは聞こえの悪い。私は君島さんにぴったりの場所を紹介したまでです」

「まあ、拉致ではないと言い張るのならそれでいい。拉致など良識ある人間のやることではないからな」

 色々と言いたいことがあるが、ここは黙っておいてあげよう。

「……あなたが戻らないうちにここを去りたかったのですが、まさかドントクライを呼んでいるとは私も予想してませんでした」

「そろそろ来る頃だと思っていたさ。で、葉月をどうするつもりだ? もちろん最終的には葉月本人の意思ではあるが、あんなところにかわいい後輩を奪われるのは癪だ」

「私の作ったライトノベル同好会を悪く言うのはやめてもらいたいですね。それなりに人数もいて、楽しい同好会になろうとしているというのに」

 ライトノベル同好会は秋乃が作ったものなのか。

「ふん。お前は懲りずにあんなものを読み続けているというのか。時間の無駄だな」

「ライトノベルを侮辱するのは許しませんよ、由利」

 秋乃が静かに怒っている。龍平はライトノベルに愛着があるわけでもないので由利の発言に腹を立てることはないが、同好会を作ってしまうくらい好きな秋乃にとっては許せない発言だろう。

「由利先輩、言いすぎですよ」

 葉月も秋乃側に回る。

「別に私はライトノベルの存在を否定しているわけではない。小説のジャンルとしては認めているし、商業として成り立っているのもわかっている。……だがな、私は少し前、風呂に入っている時に気づいてしまったのだよ。真理にな」

 どこからともなく由利から威圧感が生まれてくる。美紗子が絡まれた時みたいに、またとんでもないことを言い出すつもりだろうか。だが、由利が自信満々に言うとそれっぽく聞こえてくるのもまた不思議である。

「真理……? ライトノベルのですか?」

「ああ。聞きたいか?」

「教えてもらいましょうか」

 由利の挑戦だか挑発だかを秋乃は受ける。葉月も由利が見つけたという真理に興味があるようだ。ちなみにさっきから伊吹が一言も発していないが、この空気に何を言っていいかわからず、龍平の後ろでおろおろしている。

「『読書は心の栄養』という言葉は知っているな」

「ええ、素晴らしい言葉だと思いますが、それが何か」

「心はどこにある?」

「場所を敢えて言うのなら、胸のあたりでしょうね」

「そう。心は胸にある。そして、読書をすることで心に栄養が与えられているのならば、それは胸に栄養が送られているのと同義ではないか」

 あれ、雲行きが怪しいぞ。

 由利は組んだ腕を持ちあげて、自分の豊かな胸を強調する。由利の胸が平均より大きいというのは誰もが認めるところで、龍平もつい目がいってしまうことがある。

「胸に栄養って……それとこれとは……」

「日本文学を多く読む私はこれだけの豊満な胸を持ち、ライトノベルばかり読んでいるお前は見ての通りの残念ボディ。つまり……」

 由利に言われて注目してみると、秋乃の胸は正直かなり薄かった。本人も気にしているのか、恥ずかしそうに腕で隠している。同時に葉月と伊吹も自分の胸を確認しているのは言うまでもない。

「ライトノベルは栄養価が低い!」

 ここに真理がもたらされた。

「ううっ……」

 うわ、秋乃が泣きそうだ。きっとライトノベルの方ではなく胸の方がダメージが大きかったのだろう。

 浩史が冷や汗を流しながら言った。

「なんてこった……。完全論破だ」

「いやそんなことないですよ! って、水沢先輩も葉月も伊吹さんも無言で自分の胸見てるし! 怖い、無言が怖い!」

「だって、そう言われると私より伊吹ちゃんの方が大きいし……」

 葉月も伊吹と比べたことがあるようだ。その伊吹は「わ、私だってそんなに……」と顔を赤くしながらも秋乃や葉月の胸と見比べている。

 何故か、浩史までもが自分の胸を触っていた。

「だとしたら俺もかなり大きくなるはずなんだが、どうよ龍平」

「恐ろしくどうでもいいです」

「ノリ悪いなあ。そうだ。俺、それとなく腹筋割れてきたんだけど、触ってみ」

「今度は腹筋っすか。……うわっ、めっちゃ硬い!」

 どうして文芸部にいるのか不思議なくらい硬かった。その硬さ、まるで瓶の蓋のごとし。

「あ、龍平くん。もうちょっと浩史先輩のお腹触っててもらっても、いい?」

 やけに熱っぽい視線で伊吹に見られていた。

「伊吹さんが謎のトランス状態に!」

 もちろん男の腹筋を長い間触っていても得はないので、龍平はすぐに手を離した。それにしてもなんて硬さだ。どんな筋トレをしているか訊いてみよう。

「お、覚えていなさい由利! 君島さん、いつでも見学にいらしてくださいね!」

「は、はい……」

「それと浩史、あなたもライトノベルを愛する者なら、いつまでもこんなところにいないで私のところに来なさい。いいですねっ」

「あ、いや、俺はほら、別にこっちでもいいし……」

 突然矛先を向けられた浩史はしどろもどろで返事をした。

 よほど胸のことがショックだったのか、秋乃は涙目で捨てゼリフを残して走り去っていった。由利は胸を強調したポーズのまま完全勝利の笑みである。浩史の腹筋もすごいが、由利の胸もすごい。街を歩いていたらグラビアアイドルとかにスカウトされてもおかしくないくらいだ。これが文学の力なのか。

「やっとうるさいのが行ったな。これでゆっくり部活ができるというものだ」

 由利は息をついて椅子に座り、お茶を飲み始めた。

「でも、ラノベの同好会があるなんて知らなかったです」

 葉月は入学前から文芸部への入部を決めていたみたいだから、他の部や同好会を見学するつもりがなかったのだろう。まあ、文芸部があるのにライトノベル同好会が別に存在するなんて普通は考えない。

「あいつが作った同好会だからな。まだ知名度は低い。新入部員も、電車でライトノベルを読んでいるような生徒に声をかけて勧誘したのだろう」

 大抵の人はブックカバーをつけて本を読んでいるだろうが、ライトノベルの場合は横から見るとイラストのページだけ色が違ったりするので、わかる人にはわかる。そういう生徒を見つけては尾行し、スカウトしていったのだろう。ストーカーまがいの行為はどうかと思うが、秋乃の同じ趣味を持つ仲間を増やしたいという気持ちもわからなくはない。

「あの、どうして文芸部と一緒にならないんですか? ライトノベルも小説だし、一緒になった方が部員も増えると思うんですけど……」

 当然のことを口にした伊吹だったが、その瞬間に部室の温度が下がる。由利から発せられる負のオーラのせいだ。揺れてもいないのに、机の上に置かれたお茶に波紋が起きる。

「どうせそのうちわかることか。浩史、説明してやれ」

 顎をくいっと。浩史は「はいよ」と咳払い。

「秋乃はもともと文芸部だったんだよ」

 浩史は一年前の話をした。

 当時、新入生として文芸部に入部した由利、浩史、美紗子、宋次郎、そして秋乃。誰もが小説や詩などの活字を愛する者として仲良くやっていけるはずだった。

 しかし、ライトノベルの存在をまったく知らなかった由利に、秋乃と浩史がライトノベルを薦めたあたりから段々とおかしくなっていく。

 秋乃はライトノベルしか読まず、他のジャンルにはほとんど触れないような人で、自身もライトノベル作家を目指していた。自分の趣味を他の人と共有したいというのは当たり前の希望ではあるが、由利にライトノベルが全然合わず、逆に古き良き日本文学を読んでみろと薦められる。すると今度は秋乃に日本文学が合わなかった。必然的に、二人の意見は対立するに至る。

「どっちも退くってことを知らなそうですもんね」

「本人を前にしてよく言えるな龍平。ま、否定はしないがな。俺や美紗子も仲裁に入ったんだが、結局はケンカ別れだ」

 ちなみに宋次郎はすでに我が道を進んでいたらしい。一年生の春の時点では眼帯をしておらず、代わりに片目だけカラーコンタクトを入れていたのだが、あっという間に先生に注意されて眼帯にしたとのこと。

 文芸部を去った秋乃は、自分の力で仲間を集め、ライトノベル同好会を設立。こうして、小説を扱った組織が二つできてしまうことになる。

「ふん。どうせあんな同好会、すぐに潰れるに決まっている」

「いやどうだろうな。ライトノベルも流行ってきてるんじゃないか? 新人賞の応募数だって、毎年増えてるみたいだし」

 浩史の声は届いているのかいないのか。由利と秋乃、どちらも少しずつ譲歩すれば、秋乃もこの部に残っていたかもしれない。

 由利がライトノベルを異常に毛嫌いしている理由がわかった。内容やイラストが入っていることが趣味に合わないということに加えて、秋乃と対立してしまっているからだ。

「それで葉月よ、どうするつもりだ?」

「一応、近いうちに見学には行ってみようかなって思います。ラノベって聞いて黙ってはいられませんし、秋乃先輩からも誘われちゃってますから」

 葉月が行かなかったら、そのうちまた秋乃が来るだろう。

「えっと、葉月ちゃん、文芸部……辞めちゃうの?」

 不安そうに伊吹。

「あ、いや、まだ決めたわけじゃないって。こっちはこっちでラノベ嫌いな由利先輩がいるからやりがいはあるし。……そういえば秋乃先輩、浩史先輩も誘ってましたよね」

「俺? まあ、同好会の設立当時から誘われてはいるんだけどな。ほら俺もライトノベル好きだし」

 秋乃や葉月をライトノベル度100とするなら、浩史は70といったところだろうか。由利にライトノベルを数冊紹介したのも浩史だし、秋乃が誘うのも必然的だ。でも浩史はこっちに残っている。

「どうして同好会の方に行かなかったんですか?」

 何気ない葉月の質問に、浩史はしれっと答えた。

「そりゃあ、俺は由利にぞっこんラブだからだよ」

「きゃーっ!」

 妙に高い声で叫んだのは葉月。だけだと思ったら伊吹の声も混じっていた。

「こ、浩史先輩って由利先輩のこと好きだったんですか!?」

「なんだ知らなかったのか。浩史は去年の夏頃から私のファンだぞ」

 そう言ってのけたのは由利である。目の前で告白を受けたというのに、顔は平然としている。それどころか本を読みながらで浩史の方を見もしない。照れているというわけではなさそうだ。

「え? え? 由利先輩は浩史先輩の気持ちを知ってて普通にしてるんですか?」

「そうだ。今までに何回告白されたかわからん」

「なんかもう挨拶みたいになってるよな」

 これは一体どんな関係なのだろう。男女間の友情というのは永遠のテーマと誰かが言っていたが、この二人の関係は友人なのだろうか。しかし恋人ではないとすると消去法で友情しか残らない。

 きっと美紗子も宋次郎もこのことを知っているはず。すでに文芸部では公認の仲ということか。

 さすが女子高生だけあって、葉月と伊吹の食いつきがすごい。ライトノベル同好会のことは隅の方に追いやられ、完全に恋バナモードに入っていた。

「浩史先輩は、由利先輩のどこが好きなんですか?」

「どこって言われてもなあ……。敢えていうなら胸だな」

「ふん。やはり私の体が目当てか。お前も所詮は男だな」

「あのな。お前に対して体に興味がないって言う方が失礼だろうが」

「ま、その通りだ。今の発言を許そう」

 なんつう会話するんだこの二人は。きゃーきゃーとはしゃぐ葉月の陰で、伊吹はどこか残念そうにしていた。「ノーマルなんだ……」と呟いていたが、龍平には何のことかさっぱりわからなかった。

 浩史は背も高くさわやかスポーツマンのような容姿をしているから、杏泉イケメンランキングの上位にも入り女子にモテるが、由利一筋のため彼女を作ったことがないらしい。おかげでホモ説が流れた時期もあったとか。

 その日は秋乃の襲来があったものの、最終的には浩史と由利の恋愛話で終わってしまった。

夕陽の差し込んできた部室を出て、家の近い浩史は自転車で下校。龍平たちはちょうど来たスクールバスで駅へ。龍平は葉月と同じ方向で、由利と伊吹は逆なので改札口で別れを告げる。

 電車に並んで座ると、葉月はまだ興奮冷めないといった感じだ。

「由利先輩、いつか浩史先輩と付き合うのかな」

「どうだろ。なんつうか、由利先輩が誰かと付き合うって姿が想像できないけど」

「確かに……。美紗子先輩が絡まれて助けた時に思ったんだけど、由利先輩ってラスボスっぽいよね」

「ちょー同感」

 葉月よりも先に電車を降りて、家に着いて夕食を食べ、今日の復習と明日の予習をすると夜の十時を回る。そこから寝るまでの間、葉月から借りたライトノベルを読むのが最近の日課になっている。

「お兄ちゃん、お風呂あいたよー。……何読んでるの?」

 ベッドで横になって読んでいると、この春から中学生になった妹がノックもせずに入ってきた。当然、家で読んでいるのでブックカバーはしていない。アレな表紙がばっちり妹の目に入ってしまった。

「あっ……! これはお前、葉月って奴が貸してきた本で……」

 その時すでに、妹はバタバタと階段を駆けおりてリビングにいる母のもとへ。

「お母さーん! お兄ちゃんが女の人の名前を出しつつ表紙に魔法の杖っぽいやつ持った女の子が描いてあるオタクっぽい本を250ページくらいまで読んでるー!」

「一瞬で把握しすぎだろ!」

 妹を追ってリビングに行くと、母は妹から細かく状況報告を受けていた。妹は母にべったりで、昔から何かあると母に言うのだ。とは言っても龍平は優秀な兄なので、怒られるようなことはないのだが。

「読書はいいことじゃない。ねえ龍ちゃん」

 家族には文芸部に入ったことを報告してある。高校に入っても勉強ばかりしそうだったから、部活を始めてくれてよかったと喜んでくれた。

「まあ……そうなんだけど……」

 理解のある母でよかった。世の中には「オタク的なもの」に強い嫌悪感を抱く人もいるというし、もし母がそうだったら、ライトノベルなんて即没収だ。「そんな友達と付き合っちゃいけません」とか言われそう。

「でもお母さん、こういうのってほら、犯罪とかに繋がるって……」

 逆に妹はそんなイメージのようだ。自分だって目の中がキラキラしている少女漫画とか読んでいるくせに、すっかり棚に上げてしまっている。

「大丈夫よ。龍ちゃんは頭がいいから、もし悪いことをしても完全犯罪をしてみせるわ」

「息子に言うことかそれ!」

「お兄ちゃんが頭よくてよかったあ」

「安心してくれて何よりだよ!」

 そんな小さな騒ぎがあって、妹は「頭がいい人はわかんないなー」とか言いながら部屋に戻っていった。龍平が一階におりてきたついでにお茶を一杯飲んでいると、母がしみじみと「龍ちゃんがライトノベルねえ」と言っていた。母がその単語を知っていることと、そこまでライトノベルが浸透していることに驚いた。母の情報源は主にテレビなので、何か特集でも放送されていたのだろうか。

「…………」

 部屋に戻って、残り三十ページほどだったものを読み終える。葉月に借りたのは十冊。そのうち六冊目を読み終えた。龍平はパソコンを立ち上げると、今読み終わったタイトルを検索し、他の読者の感想を読む。自分が抱いた感想と、同じ本を読んだ他の人の感想を比べているのだ。正直、これはつまらなかった。インターネット上の評価も厳しいもので、自分の感想はそれほど的外れではなかったようだ。

 葉月に感想を言ったら、またどうせうるさいんだろうなあ。

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