第7話 泣かない男②

 ドントクライ先輩との衝撃的な出会いから数日、龍平は何度か放課後に文芸部室に顔を出したが、ドントクライ先輩が来ることはなかった。浩史によると、出席率はかなり低いらしい。この前来たのは、一度くらいは新入生の顔を見ておくべきだと思ったからだろう。

 二年生の教室に行く用事はないし、校内で見かけることもなかった。もしかしたら学校にすら来ていないのかもしれない。なんといっても彼は日夜敵と戦うエージェントなのだ。仕事が大変で勉強などしている暇もないはずだ。

 と思っていた矢先の出来事である。

 選択授業で教室を移動し、戻ってくる途中だった。別の授業を取っていた伊吹が二年生の男子二人に声をかけられていたのだ。龍平が近づくにつれ、声が聞きとれるようになる。

「是非ともうちの部に入ってくれないかな」

「見学だけでもいいから、一回来てみてよ」

 どうやら勧誘のようだ。端から見ているとナンパにしか見えないのだが、上級生の勧誘はそれほど珍しいことではない。誰だって部員を増やしたいわけで、特に運動部は必死である。体格のいい新入生が入学式直後にラグビー部とアメフト部に囲まれているのを見たことがある。

 伊吹を誘っている上級生は二人とも丸刈りで、野球部で間違いない。ということは、マネージャーとして伊吹に入って欲しいのか。女子のマネージャーというのは、やはり男子としては憧れなのだろう。

 なんとか伊吹の気を引こうと頑張る先輩たちであったが、伊吹はというと、長身と丸刈りのコンボですっかり怯えてしまっていた。伊吹からすれば、部の勧誘を受けているというよりは、チンピラに絡まれてしまったという心境だ。

「あ、あの、私もう他の部に入ってるんです……」

 絞り出すようにそう言って断ろうとする伊吹だが、そう簡単には先輩たちも引き下がらない。

「大丈夫、マネージャーなら兼部もアリだから。毎日出てくれなくてもいいし」

「いえ、でも、その……」

 怖いし、相手は上級生だしではっきりと断れない伊吹。これが葉月だったなら「あっし、ライトノベルにしか興味ないんで。ゲヘヘ」とか言いながら簡単に断ってしまっただろうに。

 これは助け船を出すべきだ。しかし相手は上級生なので、なるべく穏便に諦めてもらう方法を考えなければ。

 龍平に気づいた伊吹は、当然のように助けを求めるように目を潤ませる。おおう、これはとんでもない破壊力だ。

 大股で近づき、先輩と伊吹の間に入る。

「すみません、彼女と同じ部の者ですが……」

 とりあえず、休み時間が終わるまで粘ろう。また来るようならその時に考えようと龍平の方針が決まったと同時に、同じように割り込んで来た影があった。

「おっとそこまでだ。ウチの後輩に手を出してもらっちゃあ困る」

 低いよく通る声。忘れるはずもない、忘れようにも忘れられない、強烈な個性を惜しみなくまき散らす文芸部の先輩だった。

「……先輩っ」

 首に包帯、右目に眼帯の先輩は、伊吹を背中にして野球部の二人と対峙する。しかしドントクライ先輩は小柄で、野球部は長身なものだから、伊吹が絡まれていた時とあまり構図が変わらない。

 しかし、明らかに二人は狼狽した。

「お前……ドントクライ!」

 何が驚きかって、その呼び方が部外にまで浸透していたということだ。

「この娘は俺の後輩でね。どうだ、ここは俺に免じて退いてはくれないか」

 少々芝居がかっているのが気になるが、ドントクライ先輩なりに伊吹を守ろうとしてくれている。相手は同じ二年生だし、ここは先輩に任せよう。いや、心配なことに変わりはないのだけれど。

「どうする?」

「いや……ドントクライには関わるなって言われてるし……」

 野球部二人は龍平に聞こえるくらいの小声で相談し、やがて「他を探すか」と言って去っていった。しかし何度か振り返っていたところを見ると、どうしても伊吹にマネージャーになって欲しかったようだ。

「ありがとうございました」

 伊吹が律儀に頭を下げる。

「礼には及ばないよ。先輩として当然のことをしたまでだ」

「ドントクライ先輩ってすごいんですね。さっきの二人、怯んでましたよ」

「……俺に関わるとロクなことにはならない。あの二人もそれがわかってたんだろう」

 確かにロクなことにはならないだろう。色んな意味で。すでに関わってしまっている自分たちはどうなのだろうと、ふと思う。

 ドントクライ先輩はおもむろに錠剤を取り出すと、噛み砕きながら食べた。あれがラムネと知った今でも、指摘しないのは優しさである。

 せっかく会えたのだ、かねてからの謎をぶつけてみよう。

「先輩の本名って何ていうんですか?」

「ふっ、俺は今も昔もドントクラ……」

「ふーなきー!」

 先輩の声を遮って、声をあげながら先生がやって来た。龍平の知らない先生である。

 今、「ふなき」って呼んだぞ。

「これはこれは小林先生、俺に何か?」

 ノーネクタイのスーツ姿にスニーカーという典型的な教師スタイルの先生は、一枚の紙を先輩に突きつけた。

「『何か?』じゃない! マジメに進路希望を提出しろと言っただろ!」

 龍平も伊吹も、ドントクライ先輩の提出したらしい進路希望調査書に注目する。



二年E組 舟木宋次郎ふなきそうじろう


第一希望 FBI

第二希望 SWAT

第三希望 サッカー選手



 こんなにどこからツッコめばいいか迷ったのは生まれて初めてだ。

 どう見てもふざけた内容だったのだが、ドントクライ改め舟木宋次郎先輩は何一つ悪びれた様子もなく、先生に反論した。

「俺はいたってマジメに提出したつもりですが、何か不満でもありましたか?」

「死ぬほどあるに決まってるだろ! だいたい、どうやったらFBIに入れるかわかって書いてるのか?」

「問題ありません。俺の所属する組織は広いコネクションを持っていますから、FBIとも簡単に接触できますよ」

 先生相手にここまで徹底できるとは。不覚にもちょっと尊敬しそうになった。

「……SWATも同じか?」

「当然です」

 SWATって何だっけ。確か、どこかの特殊部隊とかそんなような物だった気がする。

「その組織はJリーグにもコネがあるのか?」

「まさか。そんなところにあるわけないでしょう。地道に練習するのみです」

「そこは普通かよ!」

 先生も思わずツッコんだ。

「まあ、不満というのなら書き直しましょう。あくまで希望の話ですからね」

 宋次郎は進路希望調査のプリントを受け取ると、乱暴に懐にねじ込んだ。先生は呆れた顔をしながらも、しかし真剣に宋次郎に言う。

「舟木、お前は無遅刻無欠席で成績も学年十位以内をキープしてる。いい大学に推薦で行くこともできる。よく考えてくれ」

 誰か噓だと言ってくれ。この高校で十位以内といったら、東大早稲田慶応が狙えるレベルだぞ。むしろ龍平が目指しているところである。

 先生が帰っていった後も、宋次郎は「大学など行っても俺の能力は発揮できん」とかひとり言を呟いていた。確かに、三秒先が見える目を持っているのなら、宋次郎に適した場所は戦場なのかもしれない。あと国立競技場。

「サッカー、お好きなんですね」

 やっとのことで伊吹がこの言葉を絞り出した。

「サッカー部に入ってもよかったのだがね。まだ病気が完治していないから他のメンバーに迷惑をかけるだけだ」

 そういえばそんな設定もあった。

 するとチャイムが鳴って、宋次郎は「また会おう」と言い残して二年生の教室に帰っていった。無遅刻無欠席って、組織の仕事はどうしているのだろう。土日がメインか。

「もしかしたら、ドントクライ先輩っていい人なのかも……」

 自分たちの教室に戻ると、伊吹が言った。

「頭はいいみたいだけど……」

 昔に勉強し過ぎておかしくなってしまったか、それかとんでもない天才かどちらかだ。

 ただ、貴重な情報を手に入れた。

 舟木宋次郎。謎に包まれたドントクライ先輩の本名だ。

 だから何だって話なんだけど。

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