第5話 金太郎飴
未だに興奮が冷めない由利を静かにさせたのは浩史だった。部室にあった本棚から一冊の本を抜きだすと、本を開いて由利の顔面に押しつけたのだ。
夏目漱石の本である。
「何をする浩史! このっ……ふう」
噓みたいに落ち着いた。お札かよ。
「すまん葉月。うちの部長はちょっとライトノベルの過剰反応するんだ」
「は、はあ……」
ちょっとってレベルではなかったような。だいたい、「ちょっと」と「過剰」がすでに矛盾している。
「ごめんねえ。伊吹ちゃん、大丈夫?」
「……あ、はい、その、えっと、平気です」
心がどこかに行っていた伊吹だが、なんとか戻ってきた。
「あー、びっくりした」
尻もちをついていた葉月は立ち上がり、スカートの埃を払う。嫌な汗をかいていたようで、ハンカチで額を拭っている。
「すまなかった葉月。私としたことが取り乱してしまった」
由利は素直に謝った。クラスの男子の間では二年生の一条由利先輩といえばクール系美人という評判であるが、意外とそうでもないのだろうか。
浩史は美紗子に由利を見ているように言って、「さて」と龍平に向き直った。
「龍平はライトノベルを知らないのか」
「皆さんは知ってるんですか? 霜野さんも」
伊吹はこくりと頷く。
どうやら自分だけ、由利が暴れた原因となっている「ライトノベル」なるものを知らないようだ。「ノベル」とつくだけあって小説なのだろうか。
「ま、縁がなきゃ知らなくても仕方ないか」
「あ、私持ってるよ。見せてあげる」
葉月は鞄から文庫本を取り出し、ブックカバーをはずして龍平に手渡した。
「……漫画?」
表紙には、武器を持った女の子が一人、仁王立ちしている。
「違うってば。小説だよ」
葉月の声を聞き流しつつ、龍平は表紙をめくる。すると数枚のカラーページがあって、そのあと本文が続く。また、数十ページに一度、挿絵が入っていた。
「……十八禁?」
「何でよ。全年齢だって」
「だってパンツ見えてるぞ。ほら、この絵」
カラーページを見せると、葉月は「あのねえ」とため息をついた。
「それくらい普通だよ。ですよね東山先輩」
振られた浩史は大きく頷いた。
「まあな。それくらいで十八禁って、どんだけピュアだお前は」
「そうっすかねー……。ま、ラブコメの漫画もパンツ見せてナンボってところありますしね」
「ところで龍平」
「はい?」
「お前、よく女子のいるところでパンツ連呼できるな。俺は尊敬した」
「…………。おわああああっ!」
ここ、男子より女子の方が多いじゃん。
ちらりと様子を窺うと、伊吹が頬を染めていた。あ、終わった。もう終わったよ。もう伊吹の中で自分は「パンツの人」だよちくしょう。
「あの、柚木くん……。私も、ライトノベルってこういうの多いって知ってるから……。その……大丈夫、だと思う」
健気なフォローが心に痛い。
「とにかく、こんな感じで文とイラストが一緒になってるのがライトノベルっていうやつだ。わかったか?」
「はい。まあ……」
表紙を見ると、作者の隣にイラストレーターの名前もある。葉月はこういう小説を書くプロになりたいのか。
こんなの、本屋にあったっけ。全然興味がなかったから、目に入っていなかったのかも。だけどここにいる自分以外の人は知っているわけで、実は有名なジャンルだったりするのだろうか。
「私はどうしてもこのチャラチャラした感じが許せないのだ」
落ち着いたらしい由利が言った。
正直、由利の言っている「チャラチャラした」というのがわからなくもない。龍平が今まで読んだことのある本とは明らかに雰囲気が違う。強いて言うなら「今風」といったところか。
「由利ちゃんは、ちょっと前の日本の作家さんが好きだもんねー」
新しいお茶をいれ、美紗子はみんなに配ってくれた。さっき夏目漱石を押しつけられて冷静さを取り戻していたし。由利の趣味がわかってきた。そういえば、龍平の名前を知った時も芥川龍之介の同じ字だと嬉しそうだった。
それなら確かに、ライトノベルを好ましく思わないというのも頷けるというものだ。
「ラノベにはラノベの面白さがあるじゃないですか。ちゃんと読めばわかりますよ」
もちろん葉月は反論する。へえ、そうやって略すんだ。自分の好きなものを嫌いと言われたのだから仕方ない。顔合わせで終わるはずだった第一回目の部会がまさかの大荒れである。
しかし、付き合いの浅い、しかも先輩にここまでケンカ腰で反論できるなんて、葉月はよほど肝がすわっているか、ライトノベルが大好きなのだろう。
「いや、私も文芸部員だ。読まずに批判するなどという『食わず嫌い』は絶対にしない。読んだ上で批評をしようと思ったわけだ。それに、文庫本の中ではすでに無視できないほどのシェアになっているしな」
そうなのか。全然知らなかった。
「そこで俺が何冊か貸したんだよ。俺は結構好きだからさ」
浩史はライトノベルを読むらしい。
「あ、そうだったんですか……」
葉月は気の抜けた返事。てっきり由利は食わず嫌いで、頭ごなしに否定していると思っていたのだろう。龍平は改めて葉月の持っていたライトノベルを手にとってみる。これは、表紙でとっつきにくいと思ってしまう人もいるのではないかと思う。初めてライトノベルという物を見たが、正直なところ龍平の感想は「オタクっぽい」である。だから、スポーツマン風の浩史とはミスマッチという印象を受ける。これは偏見なのだと自覚はあるけど。
「それで私は浩史から借りたライトノベルを読んでみたんだが……」
その時のことを思い出したのか、由利がイライラした感じで眉間に指をあてる。
「何かあったんですか?」
「三冊がすべて同じ内容だった」
「それは……どういうことですか?」
まさか同じ本を三冊読んだわけではあるまい。
「あらすじにしてしまうと同じなのだ。どれも『平凡な主人公の前に何かと戦っている少女が現れて巻き込まれ、実は主人公には秘められた力があってそれが目覚めて敵を倒し、少女は敵がまだ残っているからという理由で主人公と同居を始める』というものだった」
「じゃあ一冊読めばいいですね」
「だろう? いいことを言ったな龍平」
ここに葉月が持っているライトノベルが一冊ある。これを読めばもう大丈夫。ライトノベルはコンプリートしたというわけか。
「ちっがーう!」
「ぐほっ!」
葉月の水平チョップが龍平の首に命中。数秒呼吸ができなくなった。
「もっとたくさんありますよ! 東山先輩もどうしてそういうのばっかり貸したんですか!」
「いや、俺が好きだから」
「だからって偏りすぎです! 一条先輩、今度は私が貸しますから、それも読んでください」
「気が向けばな」
きっといつまでも向かないだろう。
すると葉月は鋭く龍平を睨んだ。
「柚木も読むんだからね!」
「俺も? まあ話のタネ程度には読んでみてもいいか」
「もっと真剣に! 文芸部員でしょ!?」
熱いなあ。プロを目指しているならこれくらい熱くないといけないのかもしれないけど。
しかし、と、龍平は疑問を抱く。確かに由利はライトノベルを好ましく思っていないわけだが、それにしてもさっきの豹変ぶりは異常だった。もしあのまま葉月に襲いかかっていたら、葉月のトラウマになるのではないかというくらいの勢いだった。
「あれは……なんというか、まあ、な」
龍平がそれを口にすると、由利らしくない歯切れの悪い返事が出た。
「ま、そのうちわかるさ」
浩史の言い方はやけに含みがある。どうやら由利とライトノベルにはまだ他の因縁がありそうだ。
「一条先輩が認めるようなライトノベルが書ければ、私プロになれるってことじゃない?」
葉月はどこまでもポジティブである。だけどそれは間違っていない。しいたけが嫌いという芸能人に、一流の料理人がしいたけを料理して食べさせるというバラエティを見たことがある。そしてその芸能人はしいたけを食べることができたのだ。
由利が葉月の書いたライトノベルを楽しいと思えることがあれば、きっとその作品は素晴らしいものだろう。
「書けるものなら書いてみろ。私は絶対に認めん」
由利も由利で強情なところがありそうだし、この勝負はなかなか面白くなりそうだった。
「ん? っていうか、俺も似たような目標あるんだけど」
「そういえばさっきの自己紹介で言ってたね、先輩たちを驚かせる小説を書くって。じゃあどっちが先に書くか勝負だね!」
肩をばしんと叩かれた。
「ま、俺が先だろうな」
「お、どして?」
「俺の方が頭いいし」
「それ自分で言う!? ある意味すごいよ君!」
なんといっても生徒代表。一年生で一番頭がいいのである。ちょっと練習すれば書けるに違いない。
「でも、熱心な子が入ってくれてよかったねぇ」
由利が暴れたせいでおかしなことになっていた空気を、美紗子のおっとりした声が戻してくれる。この人の声に癒しの効果があるのは間違いない。
「それは喜ばしいことだがな」
と言いつつ、由利はまだ不満そう。
「お前だって去年の今頃は……あっ」
浩史が気まずそうに由利から目をそらす。美紗子は露骨に慌てて、龍平たちにお菓子を勧めてきた。
「去年、何かあったんですか?」
「いや、気にするな。それより龍平、この部は女子の方が多いから、俺らで男子の地位を守っていくんだぞ」
強引に浩史が肩を組んできた。ごまかされたのは間違いないが、追求しても教えてはくれないだろう。浩史も由利も「訊くな」というオーラを出している。前にアットホームなところが売りだとか言っていたのに、この変な空気は何なのか。
「あっ……」
その時、ずっと黙っていた伊吹が小さく声を漏らした。ほのかに頬を染め、龍平と目が合うと瞬時に逸らされた。
嫌われたかもしれない。理由は一つ。パンツだ。
同じ部で、しかも同じクラスなのに、このままでは気まずい。絶対に挽回しなければ。
「今日は騒がしくなったが、今年一年よろしく頼む」
騒がしくした張本人がそんなことを言って、文芸部の活動が始まった。
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