第2話 新入生代表の弱点

「ようこそ、私の部へ」

 龍平を捕まえた女の先輩は、しれっとそんなことを言った。黒くて長い髪を肩のあたりで二つに結んでいて、あんな力技さえ受けなければ胸がときめいてしまうような容姿だ。ベージュのブレザーに赤いスカートがよく似合っている。

「あの……どう見ても『ようこそ』の雰囲気じゃなかったですよね」

 なんといっても拉致だ。

 龍平が紐で腕を縛られて連れて来られたのは、図書館に併設されている司書室だった。杏泉きょうせん高校は「図書室」ではなく「図書館」を持っていて、敷地内に校舎とは離れて建てられている。四階建ての図書館にはもちろん中学とは桁違いの本が並んでいて、生徒以外でも一般の人にも開放している。と、入学二日目のオリエンテーションで説明を受けた。

 その図書館にくっつくようにしてあるのがこの司書室で、図書館に勤めている司書が事務作業をしたり、これから本棚に並べる新しい本を保管しておく場所なのだという。これは先輩が訊く前に教えてくれた。

 長机に椅子は八つ。龍平はそこに座らされた。

「いやー、よかったよかった。あと一人は欲しかったもんな」

 と言ったのは、龍平を紐で縛った男の先輩。背は龍平より高く、短い髪に精悍な顔立ちで、スポーツマンといった感じ。とても拉致をするようには見えない。

「いや、だから……」

「おっと、自己紹介を忘れていた。私は二年B組の一条由利いちじょうゆり。この部の部長だ」

 言いながら、由利と名乗った先輩は龍平の紐を解いてくれた。食い込んでいた部分が痛い。

「俺は東山浩史ひがしやまこうじ。二年A組だ。副部長をやってる」

 体が自由になったところで逃げようにも、浩史がドアの前にいて出口を塞いでいる。とりあえず二人の話を聞くだけ聞いて、それで穏便に外に出よう。司書室といっても学校の敷地の中だし、変なことにはなるまい。

 どうやら、ここは何かの部の部室になっているらしい。本来の住人である司書の姿は見えない。といっても、龍平はまだこの図書館の司書を知らない。

「それで、君の名前は?」

 また縛られてもたまらないので、素直に答えることにする。

「柚木龍平です。クラスは一年D組……」

 次の瞬間、由利の表情がぱっと明るくなった。自己紹介をしただけなのに、どこにそんな嬉しい要素があったのだろう。

「龍平!? 漢字はどうだ? もしかしてアレか? 芥川龍之介の『龍』と同じか?」

「まあ……そうです」

 龍平がそう答えると、由利は目を閉じて上を向いてしまった。何かを吟味するかのように、自分を抱くように腕を交差させる。

「なんと……芥川龍之介と同じとは……。これは実質芥川本人だな」

「俺も驚きだ。拉致ったかいがあったな」

 浩史も頷いている。

「いや一文字だけですよ!」

 もちろん、龍平だって芥川龍之介がどういう人物なのかくらい知っているし、実際に本を読んだこともある。だからといって、こんなに感動されたり驚かれたりしたのは初めてだ。龍のつく有名人なんて他にもいそうだし。

「あの、それで、俺をどうするんですか?」

「ん? ああ、もちろん決まっている。この部に入りたまえよ」

 当然のように、由利は言う。

「いや、俺、何の部かもさっぱりなんですけど……」

「ここは図書館だぞ? 龍平という文字を持つ名前ならもう気づくべきだろうよ。ここは、杏泉きょうせん高校の文芸部だ」

 由利は大げさに両腕を広げてみせるが、質素な司書室に三人だけという状態ではあまり決まらない。

「文芸部?」

「そう、私たちは活字での表現を活動にしている。小説、俳句、詩など、活字を使ったものであれば何でもいい。それを読んだり書いたりするのが主な活動だ」

 そういえば、中学校にもそんな部があったような。とても人数が少なくて、表立った活動はしていなかったみたいだけど。

 ここが何なのかはわかった。だけど、どうして自分が拉致されたのか。その理由にはならない。

「で、何で俺を拉致したんですか?」

 答えたのは浩史。

「今のところ、新入部員が二人しかいなくてさ、もともと人数が少ない部なんだけど、せめて三人は入ってくれないとカッコつかないと思ったんだ」

 由利が引き継ぐ。

「そこで、餌を撒いて獲物がかかるのを待っていたというわけだ」

「餌……?」

 すると司書室のドアが開き、入ってきたのは見間違うはずもない、中庭にいた文学少女だった。正面から見てもやっぱりその人はきれいで、儚げな雰囲気が文庫本というアイテムにとても合っている。由利と同じく黒い髪は大きな一つの三つ編みになっていて、白いリボンで結ばれていた。

「どーお? いい子だったあ?」

 のんびりした口調は、龍平に一つの安心をもたらした。この容姿でギャルみたいに頭の悪そうな話し方をされたら、もう何を信じて生きていけばいいかわからない。

「いいも何も、彼の名前はあの芥川と同じ龍平だそうだ。お手柄だな、美紗子」

いや、文豪の名前変わってるけど。

 由利はぐっと親指を立て、美紗子と呼ばれたその文学少女も「いえーい」と親指を立てた。なんと、文学少女も文芸部だったのか。って、文学少女なら文芸部でもおかしくないか。

「私は由利と同じクラスの羽生美紗子はにゅうみさこ。よろしくねえ」

「はあ……」

 手を差し出されたので握ると、とても柔らかかった。しかも白くてきれいだった。

「顔が赤いぞ、龍平」

 由利に指摘され、龍平は思わず「マジで?」と頬に手をあてる。本当だ。ちょっと熱い。

 浩史が笑う。

「はは。まあ、美紗子だからな。仕方ないだろ。んで、わかったか? 俺たちは、美紗子みたいな典型的な文学を愛する少女に見とれてしまうような奴を待ってたんだ」

「もしかして、餌って羽生先輩のこと……」

「そーゆーことだ。文学少女に憧れる奴なら、きっと本が好きに違いないっつう由利の提案でな。美紗子はかれこれあそこで二十分くらい読書してたな」

 そこで引っ掛かったのが自分だったと。やられたよ、まんまと。

「それじゃあ、俺に文芸部に入れってことですか?」

 龍平の言葉に、由利はむっと眉を寄せる。

「まるで私たちが入部を強要してるみたいな言い方だな」

「強要してるじゃないですか。紐で縛って……」

「それについては謝るが、好きだろ? 小説とか」

 ふふん、と、由利は勝ち誇ったような笑みだ。

「いや、別に普通……ですけど」

 部屋の空気が止まった。由利は固まった首を無理やり動かして、浩史を睨む。

「話が違うぞ浩史!」

「いや提案したのお前だろ!」

 部長と副部長がケンカを始めてしまった。

 実際のところ、龍平は読書が嫌いというわけではない。人に薦められれば読んでみるし、話題になっている本を買ってみることもある。かといって文芸部に入るほど好きというわけでもない。

 そこに割って入ったのは美紗子だった。

「まあまあ。とりあえず入ってみてから考えてみるっていうのはどう? 龍平くんは、入る予定の部とかあった?」

「いえ、特には……」

 中学の時は陸上部で短距離の選手だった。しかし部活は中学ですっぱりやめて、高校は勉強に専念しようと考えていたのだ。秋からは予備校に通う予定で、すでにパンフレットも取り寄せている。

「じゃあ、入ってみようよ。私たちと一緒に文芸しない?」

 美紗子に微笑まれて、思わず首を縦に振りそうになる。確かに、辞めるのは自由だし、入ってみるのもいいかもしれない。運動部のように毎日練習があるわけでもなさそうだから、勉強に支障は出ないだろう。

「でも……その」

「なあに?」

「文芸部って……なんか地味そうで……」

 また部屋の時間が止まった。取っ組み合い寸前だった由利と浩史が同時にこっちを見る。

 異様な空気に、さすがの龍平も今のは失言だったと気づく。が、もう言ってしまったものは撤回できない。

 だって、地味ではないのか。百人にアンケートを取ったら、九割は地味と答えないか。龍平は必死に自分を肯定する。

 やがて由利が口を開く。

「ほう、地味と言ったか柚木羅生門」

「龍平です!」

「おっと失礼、柚木鼻だったか」

「そこ持ってきます!?」

 どうやら由利は怒っているようだ。まあ、自分の部が地味と言われたのだ、無理はない。謝るべきなのだろうが、「悪いと思ったのなら入部しろ」とか言われそうで嫌だ。

「龍平よ、何をもって文芸部が地味だと思うのだ? 正直に言っていいぞ」

 まだ出会って一時間も経たないのだが由利は上から目線。きっとこういう性格なのだろう。

「その、なんていうか、小説を書いたり、読んだりするだけっていうのが……」

「『だけ』か。確かに、主な活動はそれだけなのは認めよう。しかし書くこと、読むことの奥深さ、難しさを知らないからそう言えるのだ」

 すると、浩史がおもむろに制服の袖をまくりあげた。腕のある部分を指差す。

「これは去年、俺が活動中に負った傷跡だ」

「何があったんですか!」

 文芸部ってケガするのかよ。

「小説を書いている途中に行き詰ってな。ちょっとそれっぽいことしてみようと思って、机の上の物を、こう、思いっきりなぎ払ってみたんだ」

「それじゃあ、その時にカッターとかがあって……?」

「いや、その後に犬に噛まれた」

「今のくだりは!?」

 関係ないじゃん。

 由利が話を戻す。

「こいつはともかくとして、そうだな……、一度やってみたらどうだ」

「やるって、小説書いたりするってことですか?」

「その通り。やってみて、つまらなかったらこれ以上強要はしないさ。ちょっとでも興味が湧いたなら、入部してみればいい」

 少し考える。別にお金がかかるわけじゃない。時間がかかるわけじゃない。由利の言う通り、やってみてもいいかもしれない。というより、やらなければここから出してくれないだろう。

 それに、拉致という強引なことをしたこの先輩たちに、ちょっと仕返しがしたかった。やられっぱなしは、性に合わない。

「わかりました。でも先輩、俺、やるからには本気でやりますよ」

 挑戦的な龍平の視線に、由利は不敵な笑みを見せる。

「強気だな。訊くが、学校の作文以外で何か書いたことはあるか?」

「ありませんけど、俺にできないはずはないです」

「あらぁ、龍平くん、すごい自信あるんだねえ」

 美紗子が感心したように漏らした。

 ここぞとばかりに龍平は胸を反らしてみせた。

「今年の入学式の新入生代表、知らないんですか? 俺ですよ、俺。入試の成績トップだったんです」

「うお、マジか。入学式出てないから知らんかった」

 浩史の驚いた顔をみて少し満足。

 中学の時も、成績は常に上位。運動神経も悪くない。中学三年生の夏の時点でこの高校の合格判定はAだった。それからも一切手は抜かず勉強し続け、当然のように進学校の杏泉高校に合格。龍平の通える範囲では一番の高校だ。同じ中学からは、自分を含めて二人しか来ていないはず。

 そして生徒代表に選ばれ、入学式での役目も完璧にこなした。

「秀才くんなんだねぇ」

「それはたのもしい限りだな」

 由利は腕を組む。

「入試の国語は満点でしたよ」

 早く終わって時間が余ったほどだ。

「なるほど。しかし、国語の成績がいいからといって、小説を書くのが得意とは限らないぞ」

「それはやってみないとわかりませんよ」

「なんかこいつ、急によく喋るようになったな」

 浩史が言う。今までは拉致されて先輩に囲まれるという異常な状況だったので委縮してしまっていたが、体が自由になって現状を飲み込めれば、いつもの自分が出てくるのだ。そしていつもの自分というのは、頭のいい自分に他ならない。

 ここにいる先輩よりも面白い小説を書いてみせる。初心者の自分が、だ。そして、拉致された仕返しにしてやる。自分が負けるなどあり得ない。今までだって、たくさんの人間に勝ってきた。追い抜いてきた。

「いい返事だ。じゃあ早速始めよう。基本的なものだが、三題噺にするか」

「それでいいんじゃね?」

「そうだねー」

 浩史と美紗子も同意。

 三題噺というものを知らなかったので、簡単に説明を受けた。文字通り、三つのお題をもとにして物語を書くというもの。

 この文芸部には「三題噺ボックス」という物がある。穴があいているただの箱なのだが、ここにそれぞれが三枚ずつ紙にお題を書いて入れ、そこから三つを選んで執筆を始めるのだ。

 龍平も三枚の紙切れをもらう。

「何でもいいんですか?」

「もちろん。目についた物でもいいし、ふと浮かんだ物でもいい」

 由利はそう言いながらすらすらと紙に書き、箱に入れた。ここに時間はかけていられないので、龍平も司書室にあった物や今日の朝食に出た物を書いて入れた。

 四人分で十二個のお題が入った箱を浩史が振って混ぜ、再び机に置く。

「引いていいぜ、新入生」

「はい。じゃあ……」

 穴から手を突っ込み、特に悩まず三枚を選び出し机に並べた。

 お題は『自転車』『漬物』『アルゼンチンバックブリーカー』。『漬物』は自分が書いたものだ。誰だプロレスの技を書いたのは。

 美紗子が原稿用紙を配り、由利が腕時計に目を落とす。

「制限時間は一時間にするか。それでは、始めっ」

 一斉に黙って原稿用紙に向かう。……やっぱり地味だ。

 ふと、あることに気づく。

「一条先輩、あの……」

「気軽に由利と呼んでくれていいぞ。どうせ入部して和気あいあいと文芸するのだからな」

 まだ決まってないけど。それにさっき美紗子も言っていたが、「文芸する」っていう言葉は一般的なのだろうか。

「そういやさ、名前で呼び合うのって誰が決めたんだ?」

 浩史が言うと、美紗子が「えっとぉ」と答えた。

「何代か前の部長さんが下の名前で呼ぼうってルールを作ったらしいよー。文芸部は人数が少なくてアットホームなのが売りだからって」

 どうやら文芸部員たちは律義にそのルールを守っているらしい。「アットホーム」は他に売りがなかった時の苦肉の策のような気もするが。

「というわけで龍平、俺らのこともそんな感じで頼む」

 いやだから、まだ入部するとは決まっていないってば。

「それじゃあ……由利先輩。先輩は参加しないんですか?」

 そう、由利はまったく手を動かしてしなかった。話を考えているのかもしれなかったが、そもそも美紗子から原稿用紙が配られていなかった。

「私は監督だ。不正のないようにな」

「不正って……」

 これにカンニングも何もないと思うけど。

 浩史が顔を上げる。

「別に文芸部だからって全員が小説を書くわけじゃない。由利はどっちかっていうと読んで批評する方が好きなんだ」

「へえ……、そうなんですか」

 てっきりみんなが書いたりするものだと思っていたが、確かに読むのも活動の一つだ。

 由利の目が光る中、龍平は再び原稿用紙に向かいペンを持つ。

「…………」

 あれ。

 おかしいな。

 何書けばいいかわからない。

 原稿用紙の隅にお題を書き出す。『自転車』『漬物』『アルゼンチンバックブリーカー』。繋がりなんてあったものじゃない。

 カリカリと音がして、そちらに目をやると、浩史がすでに書き始めていた。もう話ができたのだろうか。こんなお題で。

 数学もできるが、龍平はどちらかというと文系だ。国語の現代文だって得意だ。得意のはずだ。

 どうして書けない。何を書いたらいい。

 過去に読んだ小説を記憶から引っ張り出す。作家と呼ばれる人たちは、どんな書き方をしていただろうか。

 何も思いつかないまま十五分が経過し、美紗子もペンを動かし始める。

「まだ原稿用紙が真っ白だな、新入生代表」

 由利が挑発的な笑顔を向ける。

「くっ……」

 思わず呻き声のようなものが漏れた。

 自分でも不思議なのだが、龍平の頭の中に走馬灯のようなものが流れ始めた。

 この十五年の人生、これといった挫折や苦しみを味わうことなく生きてきた。辛いことから逃げてきたわけじゃない。どんなものでも乗り越えられるように努力を怠らなかったからだ。

 テストでいい点が取れるのは、ちゃんと勉強したから。

 体育の授業で活躍できるのは、ちゃんと練習したから。

 人に負けるということが、何より嫌いだった。人から見下されるのが何より屈辱だった。

 だけど、今。

 できないものを見つけてしまった。できないものに出会ってしまった。

 物語が書けない。

 お題が三つあって、それらを使って話を作る。何も複雑なことはないのに、それができない。

 時間が過ぎていく。

 テストでもそうだが、白紙は絶対にやってはいけない。何か書かないと。

 四十分が経ったところで、ようやく龍平のペンが動き始めた。由利が「おっ」と呟く。

 何がなんでも書いてやる。別に特別なことをしているわけじゃないんだ。いつも普通に読んでいる小説を、今度は書けばいいだけのこと。できないことじゃない。

 龍平が最後の行を書き終えてすぐ、由利が終了を告げた。

「はい、そこまで。龍平よ、運動もしていないのに息が荒いな」

「あ、いえ……、何でもないです」

 脳みそフル回転に加えて制限時間に対する焦りもあったせいで、龍平の息は上がっていた。

「じゃ、回し読みするか」

 浩史は言うが早いか、隣にいた由利に原稿を渡す。美紗子は浩史に渡し、龍平は美紗子に渡した。龍平の手元に原稿は来ない。由利が書いていないから、一人余ってしまうのだ。

「龍平くん、お茶でよければ冷蔵庫にあるよー」

 美紗子が指差した先には小さな給湯室があって、そこに冷蔵庫も置いてある。司書が使っている物だろう。

「じゃあ、お言葉に甘えて」

 懸命に書いていたせいか喉が渇いていた。冷蔵庫にはペットボトルのお茶があって、湯のみがあったのでそれを借りた。

 浩史と美紗子はどんな物語を書いたのだろう。突拍子もないお題をどうやって繋げていったのだろう。

 やがて、龍平を含めた全員が三つの作品に目を通し終えた。

「…………」

 龍平は黙ったまま。

「さて、それぞれの感想を言い合う前に、龍平、どうだ? 小説を書くというのは。なかなか難しいだろう」

「…………」

 難しいなんてものじゃない。

 回ってきた浩史と美紗子の原稿。短いので読むのに十分もかからなかった。お題が脈絡のないものだったので、展開に多少の強引さはあった。美紗子の方は文章に少し癖があって、読んでいる途中で引っ掛かってしまう部分もあったが、読みにくいというほどではなかった。逆に浩史の原稿は文章も内容もきれいにまとまっていて、すらすらと頭に入ってきた。

 何よりも、二人の原稿は「小説」になっていた。

 戻ってきた自分の原稿を読み返してみると、それは「小説」ではなかった。

 物語も何もない。ただお題を詰め込んだだけの文章。文体が統一されておらず、しかも一切の改行がされていないのでひたすらに読みにくい。情景描写がほとんどなく、登場人物がどこにいるのか、どのような状況なのかわからない。さっきまで「自転車に乗って」いた人間が次の行で「駆け出し」ている。こいつの自転車はどこにいったのか。

 めちゃくちゃな原稿だった。誰かに読まれたのが恥ずかしい。すぐにでも破って捨ててしまいたい。

 結局、龍平は先輩から感想を貰うのを辞退した。何て言われるかなんてわかっていたし、とにかくもうこの原稿をなかった物にしたかった。

 できなかったことを認めた。負けを認めたのだ。

「芥川龍之介も天国で嘆いているな」

 その文豪はまったく関係ないのだが、訂正する気力もない。

「由利ちゃん、龍平くんは初めてだったんだから仕方ないよー。あの原稿にだって、きっと磨けば光るものがあるよ。私は見つけられなかったけど」

 心がやられた。

「美紗子……あんまりフォローになってないぞ」

 浩史がため息。

「……入ります」

 消えそうな声が出た。

「んん? 何だって?」

 由利は耳に手をあて「聞こえません」のポーズ。

「入ります」

「全っ然聞こえないなあ」

 由利が顔を近づけてくる。美人のくせに、こんな嫌味ったらしい表情もできるのか。

「入りますよ文芸部に! すぐに先輩たちが驚くくらいの小説を書いてやりますよ!」

 机に手を叩きつけ、椅子を倒して立ち上がる。

 こんなに悔しい思いをしたのは初めてだ。空を飛べ、魔法を使えと言われたわけじゃない。ただ小説を書けと言われただけ。それができなかった。勉強だって、運動だって、食べ物だって、苦手なものは片っ端から克服してきた。克服するだけの能力が自分にあると確信している。

「ははっ、こりゃ楽しみだ。俺も負けてらんねえわ」

 浩史が笑う。

「よろしくねぇ」

 美紗子が微笑む。

「やはり私の策は間違ってなかったな。いい新入生が釣れた」

 さっきまで浩史のせいにしていた由利はそんなことを言いながら、入部届けを龍平に渡した。龍平はその場で名前を書き、由利に戻す。

「見ててくださいよ。芥川龍之介よりも面白い小説を書きますから」

「それならまずは、『小説』と呼べるものを書きたまえよ」

「くっ……」

「さあて、記念すべき君のこの第一号の原稿は厳重に保管しておくか。君が売れっ子作家になった時に使えるかもしれないしな」

 妙に素早い動きで由利は龍平の原稿を奪う。

「ちょっ……それはちょっとマジでやめましょうよ!」

 奪い返そうと龍平は由利の持つ原稿に手を伸ばすが、由利は後ろにさがりながら原稿を服の中に入れてしまった。なんてことするんだこの人。

「はっはっは。手が出せまい」

「マジで処分したいんですけど……それ」

 声がしぼんでいく龍平の肩に手を置き、由利は耳元でささやく。

「私が感動するような小説を書いてくれたら返してあげよう、秀才くん」

 この人、絶対に性格悪い。

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