第十五話 また、センパイを抱きしめました!
最初、私はお手伝いに老人ホームに通うことが、良いことなのだとただ思っていました。
一緒にニコニコとするだけでも大いに喜んでくれる方々と一緒して、ただそんな勘違いをしていた私は若かったです。
よく歳近い友達には言われるのですが、私にはお婆ちゃんお爺ちゃん方のお話を聞くのに特段我慢必要ありません。多く昔話はためになりますし、いっそ下らなかったとしても、そんなものがこの方々を成した人生の一部と考えると実に趣深いもの。
私にとって彼らのシワシワはまず愛らしいですし、格好良くもあってその人となりを深める素敵なメイクとしか映りません。
そのゆったりとした所作が無理の結果であるとしても、ハッカのようなだけでない体臭の複雑さが老廃物を必死に隠そうとしたその証であるとしても、私にはそれらを全て、あって然るべきものと認めていました。
世界は、あるがままだって綺麗で、しかしそれを認めない美観だって当然。老い――或いは死に近づくこと――それを忘れて目を背けることだけは決してしたくありませんでした。
けれども、彼女は言ったのです。
「星ってさ、ようく踊ってくれるけどさあ。お前ってさ、足元の花踏んづけてるの気づいていないよな?」
そんな、私の有り様を、的確に。
「お、星じゃん。お久」
「あ、
私がグループホームにて
頂いた手の中の二つのみかんを大事に歩いていたそんな中、声をかけられました。その方、暮れの陽光眩しい坂の上に、金髪ミディアムの姿がはっきりと私には見て取れます。
懐かしい、そのマニッシュな全体。喜びに私が手を振りますと、美栄センパイこと東海美栄さんは、面映そうに呟きました。
「もう先輩じゃねえっての。オレはボランティアなんてとっくに卒業済み、だったろ。星とはもう年齢しか上下の関係はないぜ?」
「それはそうなのかもしれませんが……何となく、センパイはセンパイな感じなのです!」
「なんだそりゃ」
美栄センパイは、頬をひと掻き困ったポーズをしながらも、笑顔のままです。
私の変を認めつつ、確りとそれの指摘をしてくれた彼女のことを私は大好きでした。だから、彼女が今、少しでも笑みを作ってくれていることが、嬉しい。
思わず、るんるんと、美栄センパイにスキップで寄って行ってしまうくらいには、黄昏の今は大事に思えます。近くに行けばそれだけ、華奢な彼女の見目が伺えました。
私が隣り合うと、ぽつりと、美栄センパイは言います。
「……そういや、爺ちゃん婆ちゃんたち、元気か?」
「何人か亡くなられましたり、家族の元へ帰られた方も居られまして、センパイがいらっしゃらなくなった後でも随分と入れ替わりがありましたね……それでもホームの皆はまだまだキラキラしてらっしゃいますよ!」
「そうかい。相変わらず、あいつら生き汚くしてるのか。そりゃあ結構だ」
「そうですね。とても、結構なことです」
頷き、私は見回しました。茜に、辺りは染まっています。しかし、当然のようにそれに染まらず、美栄センパイは軽い悪口を飛ばすのでした。
でも私にはわかります。それが本音で、しかし意味は重くあるということを。
生きるは汚い。それは老を唾棄した彼女には当然の真理です。けれども、それでもあの人達が死なないでいてくれていることは結構嬉しいと、センパイは続けるのでした。
私は、微笑みます。
「ふふ。美栄センパイは、優しいです」
「んなこたねえよ。別段、知り合いの不幸を望んじまう程、酷かねえってだけさ」
「ふふー。てれてれ振りが、可愛いです!」
「てめ、星! オレに可愛いだなんて言うんじゃねーよ!」
「きゃー、です!」
でも、私が調子に乗って照れ隠しを弄ったら、怒ったセンパイは私にその冷たい手で額をぺちん。
そのソフトタッチに大げさに慌てる私を呆れた目で見て、ずっと男の子に成りたがっていた彼女は零します。
「ったく。テメエくらいだぞ、星。オレのことを女扱いするのは。いや……星には性別抜きで可愛いものに見てんのか? どっちにせよ業腹だがな……」
「ううん? センパイは可愛らしいですよ? 顔立ちがお綺麗でお肌のアートは格好良さもありますが、それでも沸き立つ愛らしさは隠せません!」
「はっ、相変わらず目が節穴だな」
「ですね。でもそれが、私ですから!」
「開き直んなよ。……仕方ねえ奴だ」
呆れる美栄センパイの前で、私は無闇に大きな胸を張りました。
目の付け所が悪いどころか、おそらく正しく世界を映せていなくても、それでもこの正論に歪んだ視界が私の瞳なのです。それを、教えてくれた彼女の前で、私は未だに私を続けていますよと、自己主張。
すると、ぽんとブラウスのボタンが弾けました。呆気にとられる私を他所に黒いボタンは、美栄センパイが反射的に向けた入れ墨目立つ右手をすり抜け地面にころり。
そうしてそのまま、側溝へと落ちて水の流れに乗っていってしまいました。
「あー、久しぶりにやっちゃいました……大きめの買ったつもりだったのですが。私、ちょっと太ったのですかね?」
「相変わらず、胸周りばかり性徴著しい奴だなあ……の割には、髪型は随分とオレ寄りになってる感じだが……何かあったのか?」
「おっきくなるばかりでお乳も出ないおっぱいさんのことはよく分かりませんが、髪型は……なんか困った人に引っ張られた時に千切れちゃった感じですねー」
「出たら困るだろ……しかし、千切れた? 仮にも女の髪を引っ張るなんざとんだ奴が居たもんだ。オレはただ、短くしただけかと思ったが……」
「はい、ちょっとした災難でした……まあ、そのちょっとアレな人は捕まって。その後おねーちゃんがちょきんちょきんしてくれましたので、こんな風に収まった感じですが」
言い、私はソフトボブ、とでも言うのでしょうかね。肩にも届くことのなくなった髪を身じろぎ遊ばせ、首元あたりのすーすーさを楽しみます。
そう、あの事件の後に中々のナチュラルテイストになってしまった互い違い過ぎる乱れ髪は、おねーちゃんがお家でこのように綺麗に整えてくれたのです。
どこで学びハサミ一本でスタイルチェンジも自在な理容の腕前にまで至らせたかは謎ですが、おねーちゃんが手ずからやってくださったのは嬉しかったですね。
まあ、その後撫でながら告げてくれた、また綺麗になったね、というおねーちゃんの言葉の方がワタシ的にはもっともっとありがたかったりしたのですが。
そんな、思い出しニコニコな私を見つめて、どこかそわそわとしながら、美栄センパイは口を開きます。
「おねーちゃん、ねぇ……静は、元気か?」
「はい! 今朝もニガニガの野菜ジュースを一杯飲んでから元気に出社した姿を確認していますよー」
「愚問だったか……つうか、相変わらず、アイツ要らんってのに健康オタクを続けてるんだな……」
語られるおねーちゃんの無事であるばかりの近況に、そうセンパイはぼやきます。声の色は平らであれどもしかし、呆れた顔から、好奇心が隠せていません。
私は一つ、にこりとしてから、言いました。
「ふふー。美栄センパイは、おねーちゃん大好きでしたからねー。それは気になりますか」
「お、お前、どうして……」
「だって、センパイったらおねーちゃんを隠れてずっと粘着していた時期があったじゃないですか。結構バレバレでしたよ?」
「あれは粘着じゃなくって、告白の機を伺っていたというかなんつーか……いや、マジかよ。星なんかにもバレてたんか……」
「会えばどもったり、私からしばしばおねーちゃんの情報を取ろうとしていたりするのは、明らかでした!」
「なんてこった!」
思わず、美栄センパイは暗くなりはじめの天を仰ぎます。大きいショックに、少し全体煤けさせながら、彼女は肩を落とします。
きっと、センパイは好きを隠していたつもりだったのでしょうね。いやあ、流石に節穴な私にだって把握できてしまえる程でしたから、誰にだって理解できる慕情だったと思うのですが。
幾らおねーちゃんが美人さんだからといっても、目を合わせるたびにあれほど真っ赤さんになってしまう人は中々いませんでした。
そして今も、赤い光に染まりながら、右腕のブロークンハートな入れ墨を撫でつつ、たどたどしくもセンパイは続けるのです。
「まさか……静本人にもバレてた、とか?」
「もちろんです! おねーちゃんはよく、どうしたら美栄に逃げ出させることなく会話を終えさせることが出来るようになるかな、と言っていましたねー」
「マジかよ……つうか、お前静のモノマネ上手えな……」
問に応じて話すと、美栄センパイは頭を抱えてしまいました。
これは、正直に言い過ぎましたかね。でも、本当のことで、もう終わったこととも言えるので、誤魔化す必要はないとも思えます。
顔を益々紅く染めながら、彼女は恥じながらも私に向けて、呟きました。
「……あのさ、オレ、静にキモがられてないよな?」
またこの美栄センパイの、その少し怖気づいた表情の愛らしいこと。思わず抱きしめたくなるこの可愛さに無理に心の距離を置いてから、私はセンパイの怖じを慰めようとします。
「そんなこと、ありませんよ? おねーちゃんは、センパイの人となりも、好みのようでした。ましては容姿を褒めることすらありましたし。それに……」
「それに?」
「おねーちゃんの愛は、私以外に酷く平等です」
私の口が語ったのは、事実。どうしようもない、そんな言葉に、一気に美栄センパイは渋面になりました。
そう、山田静おねーちゃんは、私以外をそれなり以上に愛している。しかし、それなりでしかない。それを、おねーちゃんに一番に愛されている私は、知っています。
そう、おねーちゃんは、私を特別と決めてしまっている。それは、とても哀しい事でした。
「ま、そりゃそっか……思えば、オレみたいなレズビアンにすらアイツは優しいもんだった……優しくしか、してくれなかったもんな」
「センパイ……」
「いいさ。お前だけ幸せでも、それだって静が良いのなら、良いんだ」
思わず、私はぎゅっと胸元で手を握りました。私にとって、美栄センパイのお言葉は時にマグに入ったブラックコーヒー。
目を醒まさせてくれるくらいに苦く、そして温かいのです。
「静は、特殊だ。定義上でしか生きていない、この世の外れ。無意味に増えない、ただのどこにでもいるだけの、女の子。そんなものに惹かれないのは、オレじゃなかった」
「美栄、センパイ」
そして、天を明るくしていた巨きな星は落ち、辺りは闇に染まり始めました。
しかし、センパイは未だ、朱いまま。
血液どころか脳漿溢れさせるあの日の衝撃に死んだ姿のままに、私の前に在ります。
幽かに、亡きながら、無きままに、涙を零して。
「なあ、やっぱりオレは、世界が嫌いだ」
そう、全てに捻て、己の性すら認められず、一番に愛されることすらなかった彼女は述べました。
私はそれが悲しくって、視界が潤むのを止められません。
自殺という罪にこの世に縛された幽霊は、未だ、世界を呪い続けます。
「星。やっぱり生きるって。きっと悪いことだったんだ。オレは今もずっと、そう思うよ」
それは、貧してこそ導き出した、彼女のシレノスの智恵。厭世観こそ大衆のものであったのならば、ならばそれは真理とされてもいい。
故に、死してなお、自信をもって、彼女は言います。言ってしまいました。
「皆、死んでしまえばいい」
あっけらかんと、涙を忘れていうセンパイ。だから、私はいつものように、こう返すのです。
「でも皆、苦々しくも、生きたいのです」
「それが、他に窮屈を強いることでも、か?」
「はい。結局の所誰も彼もが自分が大好きで――それを拗らせて他人をすら抱きしめることだってある。私はそんな様こそ美しいのだと思います」
「オレは、それが何より嫌いだった。結局、それって本当の愛はないってことだろ? そんなの、嫌で仕方なかったんだ」
少女は、両親の浮気が、同じ寝室で無視し続けた肌の擦れ合いによって、潔癖症を拗らせたのだそうです。
そうして性を無視し続けたところ、次第に生に疑問を持った。その後に待っていたのは、絶望で、そして死でしかなかったのです。
そんなこんなを、調べに駆けずり回って、集めてからでしか分からなかった私は、バカでした。あんなに、一緒に時を過ごしていたというのに。
でも、愚かだろうとも似た者同士見える私だからこそ、時に彼女は頼ってくる。欠損に、前の再会の際の問答の記憶を忘れさせながら、今日このように。
少女は、男の子のような姿のままで、私の前で震えます。
「……寒いよ」
「私が居ます」
「だから、寒いんだ」
「なら、抱きしめましょう。私が愛したいから」
「……それが嫌なのに……」
べっとりとしていたはずの血はそれでも私に触れて、無意味に変わる。ただの幽体、それに現し世をざわめかせる程の力は大概ありません。
そう。センパイの懊悩ですら、在り来たり。恨みほど、べっとりしたものではないのです。
その証拠に。
「―――クソ。……ああ、やっぱり人って温いもんだな」
最期にまた笑って、東海美栄センパイだった人の影は、幽かに消えて行きました。
「これで、五度目、ですか……」
変わらぬものなどこの世になく。ならば、あの死してなおのあの人の厭世ぶりも、時によって癒やされてほしい。
そう、私は思えてなりません。だから、こうして何度でも、彼女を厭わずに抱き続けるのです。
それが、無意味と感じつつも。幾らだって。
「相変わらずの、献身ぶりだネ」
「赤マント……ですか」
そしてそんな心の闇に、割って入るのが怪しい人の形。
電灯の影からぐちゃりとあらわれたそれはぬめりとその手で色を割り、世界を三色に決めつけてから、言うのでした。
「正しい人の心を、熱に浮かせて間違わせる。なるほど君らしイ」
「赤マントはそう、思うのですか。でも人っていうものは間違ってもいいと私は思いますよ?」
「それも、その通りだネ」
言の葉の端っこを滴らせながら、粘性に人の面の皮の奥で本心を歪ませる、赤マント。
正直なところ、こいつったら何を考えているのか分かりませんね。それに、センパイどころではないいやらしいほどの粘着ぶりは、まったく困ったものですよ。
悪意に爛れた心を揺らしながら、とてもつまらなそうに、彼は言いました。
「しかし彼女の望みは叶うだろうヨ」
「なんですって?」
醜さの総体を、しかし私はそんなものと見て、大勢の美観を踏みにじりながら、私は彼を認めて、問いました。
有りえてはいけないものを見捨てることなく、私はただ彼に寄ります。
それを、赤マントは身を捩らせ少し嫌がった。どうしてでしょう。そのまま、彼は続けます。
「おっと、穢に寄り過ぎるものではないよ。……そうだね。もうじき、世界には耐え難いものが生まれ……やがて罅が入るのサ」
「罅?」
なんだか、意外な存在から困った言葉が出てきましたね。
彼ほどの醜さでも、世界は歪みながらそれを受け容れている。先の変質者は世界ほどの色のものを手にしていたそうですが、それくらいの質量ですら、この世は耐えきれた。
しかし、そんな凄い世界という代物ですら罅が入る程というのは、どんな衝撃なのでしょうか。私は今すぐに問おうとして、しかし。
「僕には、出来れば君に、それを止めてほしいナ」
「な」
汚濁の言葉を遺して目の前であっという間に崩れる身体に、覗いた白い骨。そしてそれを食む、菌類。それが十も数えない合間に風に消えました。
そんな滅びの巻き戻し。何時ものような不快指数を下げた、彼なりにとんでもなく急いだ様子で、怪人は去ったのです。
そのあっけなさが、少し不安でした。まるで、友達の去り際に振られる手がなかった時のように、漠然とした不吉を覚えて。
「罅を止めるって……私は別に、この世を繋げるクランプのわけではないのですが……」
だからただ、私は、老いて醜くあるばかりの彼の言葉を切って捨てずに、抱いたのでした。
リフレインする彼の言の葉の音色の不快の中で、むしろ、私はそうあることが心地よく。
思わず、私は宙に助けを求めるかのように頭を上げながら、言葉を空に溶かすのでした。
「花を踏みつけている、でしたか……」
そう、私は。この世の綺麗の中で、安堵出来ないのでしょうね。
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