番外話⑥ 悪への優しさ・下



 当の本人は必死にいい人になろうとしているが、実のところ山田星は、悪人にすらほど近い。それもまるで、極みのような。

 星の行い、それは善に酷く似たものである。彼女は曲がりなりにも、悪にへつらわず、弱きを守っていた。それによって助けられた者が多くあることは間違いない。


 しかし、何だろうと裏返せば闇があるもの。たとえば、己を彼の無念の続きだと思いこんでいる少女は、明らかに不幸な人を上から下に優しく見つめることによって安堵していた。

 不幸を悲しむという名の悦び方をして、積極的に人の傷と関わらんとするその様子は、見ようによっては最悪の趣味を持っているのと変わりない。

 本人も、それは薄々ながら理解していた。かもしたら自分は、いい人になるのだと、そんな建前を盾にして他人の痛みを刺激に己を慰め続けている悪徒でしかないのかもしれない、と。


 そうなのかもしれない、いや、きっとそうなのだ。元より、自分は至極、最低だった。

 綺麗事以外に何も持てないからっけつ。男と女が入り混じったろくでなし。醜く継ぎ接ぎだらけの己を見返せば、折れそうになる時だって度々あったのだ。

 しかし、それでも山田星という少女は。己がそういう悪性と知りながらも、それでも結局思うことは一つ。


「――――だから、どうしたというのです?」


 いい人になりたい。それだけだった。




 その日、上水善人は、同種と出会う。それは、先に出会った少し面白い形をした小さな黒い者よりもずっと、破綻した存在。

 他人の痛みでしか感じられない、そんな自分に酷く似通った少女を見つけた善人は、破顔した。奇しくも、互いに同じくらいに見目は美しく。

 ああ、これは虐め甲斐がありそうだ、と頑強な玩具を見つけた赤子のように、素直に頬の白さに紅を浮かべて。

 ぷつん、と闇の拘束をまるでなかったかのように引き裂いてから、善人は星に対して問う。


「止めて、とは何のことかな?」

「彼を……大神先輩のお父さんを、こんなに……いじめるのを、止めてください!」


 星は、倒れ伏す豊を庇いつつ、そう言った。善人は、微笑む。

 闇で補填をしていても、大いにその身体欠けさせた男は、死に体。そうなるまで善人が続けていた攻撃を指して、星はいじめと言った。

 よく分かっている、善人と思う。彼にとっては、今回の全てが実際にただ、その程度だから。なるほど、これは面白い。善き人のようでいて、悪心に通じているその破綻。

 その綻びに、善人は自愛に似た愛着を持った。そして、同時に同族嫌悪を抱いて、嫌がらせをするのだ。


「そうか。止めてあげよう」

「あ……」

「ならその分、見ず知らずを千はいじめてみるとしようか」


 星は善人の言葉にほっと、息を呑み込めなかった。

 何しろ、ほっとするその前に、数多、爆発音が轟いたからだ。鼓膜を傷ませるどころか、間近の建物を崩してしまうくらいの炸裂は至るところで。

 その後続くは凄まじき、倒壊音に悲鳴。あまりの雑多な異常音に、立ち昇って留まらない火炎が空を焚いた。


 一体全てが、何一つのポーズもなく、善人が起こしたことと、誰が知るだろう。

 彼がたった今街中に潜ませていた数多の怪人を起爆したのだというそれだけのことを、最低でも、当の少女には分からない。


「な、あ……」


 突然な、あまりのことに崩れ倒れながら、星は絶句する。

 今すぐに遠くの火炎を消しに、或いは突然の痛みに嘆く人を助けに動かなけければ、と彼女の心は思う。けれども轟音に身体が怖じて、動かなかった。

 なにせ、普通にしていたら、絶体絶命の異常事態には馴染まない。幾ら前世の記憶を保有していようと、どう足掻いても少女は少女。異常に怯えるのは、自然なことだった。


「ぐ、うっ!」

「ほぅ……」


 しかし、そんなことだって山田星にはどうでもいい。怖じに己を抱くこともなく思いっきり、彼女は動かない身体をひっかいた。

 鮮血。右の肩から傷つき、抉れて血が出るその痛々しさを無視し、ただその痛みを気付けにして、駆け出す。善人という名の悪人の嘆息を気にも留めず。

 ああ、手が届く範囲の人が炎にまかれてしまうなんて、認められない。だって自分はその苦しみを識っている。苦しいのは嫌だ。死ぬというのは、とてもとても認められない痛みの先にある。

 だから、助けないと。それに自分はそのためにも、いい人になろうとしていたのだから。

 そう思考を走らせながら、力いっぱい、全力を持って救いの一助にならんと、星は足を動かした。


「まあ、待ちなよ」

「な……うぐっ!」


 けれども、一言。その重みだけで必死な全身は落ちた。位圧にぺちゃんこに潰れてしまいそうな身体。言葉一つにて掛けられた力で強き骨にもヒビが入り、アスファルトに打つかった鼻頭から血が滲むのが星には分かる。

 何やら、善人という人間に気に留められた。それだけで、身体が動けない。あり得ないことが起きている。けれども、それは当然。


 なにせ、全色。世界一つを呑み込んでしまっている上水善人は、その他とあまりにスケールが違うのだから。或いは神の言葉より重みがあるかもしれないものが、少女を縛す。


「……待ち、ません!」


 しかし、死んでも停まらなかった心は、幾ら大きなものに踏みにじられようが止まるわけがなかった。身体は潰れていようとも、意思ばかりで、少女は立ち上がる。

 死んでも、助ける。それは、誓いであり呪いでもあった。噛み締めた奥歯がいかに歪もうとも、言葉に引かれた後ろ髪が重みに裂けようとも、そんなことどうでもいいと星は人を助けに行こうとする。邪魔なんて、知ったことではない。

 けれどもその留まらない足は。


「俺が、これの原因だとしたら?」


 善人のそんな言葉で止まった。


「何……ですって?」


 少女にふつと、湧いた怒りを覗き、最大最悪は嗤う。




 上水善人は、世界を手荷物としている。彼が常に手に持っている黒い球は、全てだ。色重なってすべての要素と等しくなった暗黒を、善人は支配している。

 その気になればそれを展開して世界を上書きすることすら可能な、ありとあらゆるものを持っているとすら言える善人。

 しかし、彼はその内に情というものを欠かしていた。


 自分が全て。それで事足りている。他なんて、どうでもいい。その究極が善人である。


 異能力者として造られたという自らのデザインや、研究による同類の淘汰の結果であるという自らの力の境遇だって、善人の自信を動かすものではない。

 人間という数多によって成される世界なんて、彼にとっては外れたもの。愛ですら、下方の小粒の身動ぎに他ならなかった。

 まあそんなだから、つまらないのは当たり前。蟻のこゆるぎで感じるほどの家はないのと同じく、大きな善人は他の複雑な情動程度では心動かされなかった。

 全てが小さすぎてよく分からない。だから、強く弄ってみてしまうのは自然のことだったかもしれない。彼はひっかき引き裂き、その真っ赤な中身を見て、ようやくはっと出来るのだ。

 やがて、その小さな感動のみこそを、快楽とした。


 人の営みを潰して躙って、その悲鳴と喪失こそを心の慰めに生きる、巨大なばかりの不感症。最悪を好むそれこそ、善人である。


 そうして今、彼は似通った不幸に触れて悲しみ、しかしその情動こそを原動力としている星と出会い、その中身を手の中の数多のサンプリングから解して見つめていた。

 自分は間違いなく、悪。そして、目の前のこれは自分に似ていて正義の味方に近い。こんな、鏡合わせ、またとない機会だと、思い。


「そう、俺が怪人を爆破した。それで、千は死んだだろう。俺を放っておけば、更に続くぞ……さあ、さあ! 君はどうするべきか、分かるだろう?」

「っ」


 振り返った、星の瞳の鳶色に、愉快げに手を広げて大げさに自らを見せびらかしている善人の白い全身が映る。

 あまりに自分に酔ったそれに、少女は不快感を強く覚えた。ああ、これは自分のことばかりしか考えていない典型だ。嫌いなタイプだ、と思う。

 それが人を悪戯に傷つけている、そんなこと、許せるものか。怒気は直ぐに沸点を超え、先より力みに痛んだ歯はぎりりと鳴った。

 だがしかし。



「――――だから、どうしたというのです?」



 少女は己の怒りすら、要らないものと唾棄した。


「は?」


 それを、善人は理解できない。しかし、不明な言葉は少女の口から次々に転がっていくのだ。


「貴方のように、悪いやつは、確かに居ます。けれどもそれは、私ばかりが正すものではない」

「何を……言っている?」

「幾らでも、脅せば良いのですよ。間違っても、止まりませんから。そう。たとえ、いくら私が堰き止めてみたところで生死は留められくて、今もどこか人が死に続けていようとも、そんな事実であっても私の足は止まりません」


 怒りに敵を殴る。そんな人の当たり前を無視して、少女はただひたむきに。

 その結果として、成りたいのは一つ。星の他に誰も成りたいと思うものなんていないだろうたった一つきりを彼女は目指しているのだ。


「私は、いい人に―――――都合のいい人に、なるのです」


 危急において戦うことだってあるが、山田星は本来、戦うものではない。ただ、誰かが困った時に手を差し伸べられる人間になりたいだけのものだ。

 信念も、迷いも、何一つその有り様には関係ない。ただ、助ける。それを行い続ければいい。生きている人間にとって存外酷く難しいことだけれども、結局の所ただそれだけ。星はそう、ありたい。

 だから、悪を倒すなんてそんな余計なこと、正義の味方がやればいいのだ。そんな風に暇にしか悪と戦うことのない、少女は考える。


「私が人を助けることに、悪なんて関係ないですから」


 自分は当たり前のことをやっているだけ。正しさを布くなんて、大げさ。そう、本気で星は考えている。

 犯人が目の前に。確かに捕まえるのは悪くないだろう。その選択肢も、あった。上手くすれば憎さの解消だけでなくまた次に善人が悪行を起こすのではないかという自らの中の恐れだってきっと、減らせるだろう。

 けれども、そんなことをしている暇があるのなら、山田星は分かる範囲での困っている人に寄り添っていたいのだった。だから彼女はこう、見切る。


「貴方なんて――――どうでもいいのです」


 その小さきものは、大きな脅威の無視をする。ただ一回、目を瞑った。それだけで、もう一つ以外に何も見えない普段の盲目に戻る。

 危急にこそ、人の本質は現れるもの。ならば、間違いなく少女は、正義の味方ではなかったのだった。


「あっ……」


 再び向けられた背中に、情けない声が、善人の口からこぼれ出る。

 ただ比しただけでは分からなかった。星は、善人よりも頑なで、よほど窮まっていたのだ。大きいだけの子供な彼なんかでは対するに、まるで足りていない。

 これは似た者同士、正義の味方と悪とで分かれて遊べるまたとない機会。そんな、じゃれ合いを内心期待していた善人は、この事態に酷い失望と怒りを覚えた。

 赫々と、炎のように顔を赤く染めて、彼は叫ぶ。


「…………クソ、クソクソクソぉ! 俺を、見ろよっ!!」

「わあっ!」


 地団駄は、大げさに地を割った。そこに足を取られて転びかけながら、星は一言。


「全く。貴方――いい加減、構ってちゃんっぷりがうざいですよ」


 そう、大っきな餓鬼を、評した。


「キサマぁ……ぐぅ!」


 善人の怒りは一気に膨れ上がり、やがて、破裂する寸前。絶対の暗黒球を解き放たんとしたその直前に、彼を縛する影が。

 突然のことに動けなくなる善人。ついでのように、泥水がぴゅー、と彼の顔にかかった。


「ははっ、フラれ男は黙って諦めろ」

「ざまあみろっ」


 振り向いた善人。影の大本には大神親子が身を寄せ立ち上がらんとしている姿が見えた。

 楽しそうな、豊に唯。二人には、駄々をこねている善人が無様に過ぎていて、絶望的なまでの力の差があろうとも最早敵には思えない。

 だから、笑う。悪い彼らは嘲笑って、バカに恥をかかせるのだ。


「……お前ら!」


 そんな、今まで受けたことのないようなからかいの瞳に、善人は激昂する。

 その意気だけで、限界まで意が篭められた闇の拘束は破れ、周囲を隔する風が溢れ出す中。


「おお――中々、面白いことになっているみたいだね」

「あ、おねーちゃん!」


 星が向かうべきところ。当たり前のように、混乱があったはずの爆音数多轟いていたその先から山田静は歩いてきた。スーツ姿に傷どころ余計な皺一つ付けることすらなく、背後の全てを、しんと静かにしてから。

 やがてころりと、場違いにも彼女は鈴の音色を響かせる。


「やあ、善人君。こっちでははじめまして、だね。相変わらず君、ちっちゃいままだなあ」

「……なんだ、お前は」


 善人は、爆風にも地の崩壊も気にも留めずに話しかけてきた静に、思わず問う。暢気にあてられ、引っ込む怒気。

 そんな気を抜かした善人を無視して、今にも駆け出さんとしている星に彼女は語りかけた。


「うわ。凄い髪型になっちゃったね……あ。そうそう、星。もう助けに行こうとしなくって大丈夫だからね」

「え? どうして、です?」

「なに――雑事に巻き込まれて不在であった愛すべき妹の代わりに、全てを助けてあげたのさ。勿論、彼に毀損された怪人たちも、ね」


 生物以外の損壊の補填は難しかったけれど、まあ大体は良いのではないかな、と静は言った。

 そんな、嘘みたいな本当の言葉に、思わず星は言葉を零す。


「え? どう、やって……」

「何。皆に無理だろうと、本気になった私にはそう難しいものではないのさ。だって、私は【どこにでもいる女の子】だから」

「お前……概念体、か」

「違うよ。ただのエヴェレットの過ち」


 くすくす、と笑う静。完全上位。彼女はその確信を善人の前で見せている。どうしようもなく、美しくたおやかに。


「くっ!」


 それが理解できずに、理解したくもなくて、善人は攻撃をくり出す。自分を認め、させたくて。

 善人が向けるは最強の武器。しゅうねく色を重ねて縮めて世界と等しくなったその手の中の暗黒を、スケールの差による縮地をも用いて間隙なくぶつける。

 触れる大気に全てを哭泣させる数多に痛みと格差を教えて散り散りにしていく、その真黒い消しゴムを静は。


「はぁ……」


 そんなこんなに、ため息一つ。実体干渉することもなくただのその強固な存在によって、触れもせずに、無効化していた。


「全く、こんなものに頼っているから、善人君は駄目なのさ」

「あ」

「はい」


 そして捉え、むんずと。何より不自然にも、どこにでもいる女の子は、世界と同じ重みの黒色をその手に握って。

 善人の目の前で、消し潰した。


「あ、あぁぁ……」


 消えゆく力のすべて。それに届かぬ手を伸ばす善人に向けて、のんびりと静は言う。


「これで一から、人間をやり直すことだね。――はい、それじゃあ皆、お願い」


 そうして、善人から背を向けて、次は妹の手当てと仲間に後片付けを頼むのだった。

 声に応じて現れたのはアロハとロボだった。彼らは手早く善人を拘束し、色付きの特殊な手錠をかける。


「いや、思ってたよりこいつ、ダサい奴だったっすね……」

【まくらさんのアロハ程ではありませんよ? 上水善人確保です!】

「いや、玲奈さん、流石にそんなことねえと思うっすよっ!」

「くっ……力が……ぐ」


 そして、力を失くしたままに引きずられるように連れて行かれ、その中、悲鳴のように善人は叫ぶ。


「どうして……やり直せるものか! 俺の力を、返せ!」


 しかし中身育たなかった男の言葉は何時だって下らない、駄々でしかない。だからその答えは、ただの一言で済んだ。


「能力でマウントしてばかりじゃ人生つまらないよ? 取り上げてあげたのは、私なりの、優しささ」


 そんな実感の籠もったからりとした言葉は、その場の全員に響いた。



「……凄いな、お前の姉は」


 全身に肌色多く取り戻しながらも酷くくたびれた様子の豊の言葉に、星は。


「はい。おねーちゃんは、無敵なのですから!」


 傷だらけのパンツルックを気にもせず、満足そうに言った。





――――強いとか弱いとか、上とか下とか、悪とか正義とか、そんなの本当は関係なくって。だから、だから私は。




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