番外話⑤ 悪への優しさ・上
その男は悪である。紛うことなく、真っ黒に歪んでいた。自分の為が最優先で、他人なんてどうでもいい。そんな至極当たり前に寄り過ぎた存在。
けれども、もし彼が同類達と背比べをしてみたとしたら、存外小さなものであったのかもしれなかった。
だって彼は、人の気持ちを理解したい普通でもあったのだから。
色で表すのであれば、それはあんまりなまでに重なり合った深い混色。奇しくも彼が生まれたのは異能誕生の黎明期をやっと過ぎた程度の頃。そんな個の隆起が起ききっていない時代にここまで異色の存在と生まれた豊は普通ではなかった。
そのようなあまりに特別な豊が、一般から生まれてしまったのは、不幸なことだったのかもしれない。
「どうして……」
結果として、その異能のために豊は一番近くのものに愛されなかった。強すぎる彼の黒色が、手近な家族関係を汚して台無しにしてしまうのはあまりに簡単なもの。
父は恐れ、母は縋り、そしてそれが普通と思い込んでしまった幼き豊は、己というひびが全てを割いていくのを間近で見ることになった。
父は言う。お前のせいだ、と。母は言った。貴方でなければ、と。
家族の決壊。そんなの、誰のせいでもあるというのに。しかし、豊は彼らの言葉を真に受けてしまった。
「どうして、世界は私を、認めてくれないのだろう……」
自分はこの世の間違いなのだ。故に、独り。豊はそう、決め込んだ。
だから、数多の親戚の家のお飾りを重ね、そうしてやっと見覚えのない遠戚の家にて安堵するようになっても、ずっと彼は望まなかった。
愛されることを、豊は放棄する。一番それが大切である筈の時期に、彼は愛を覚えられなかった。
「寒い……」
豊の小さい世界の何処にも、温かいものは見つからない。なら、この世のどこにも無いのだと勘違いしてしまうのは仕方ないのだろう。ならばと望んだのは、世界外。自分に身近な闇の中。
けれどもそれに触れられる能力者が己以外に存在しなければ、そこは未だ手付かずの無形ばかりしかない。
しかし、冷たくて、冷たくて。だから少しでも温もりたくて彼は呟いたのだ。
――――光あれ、と。
そうして、闇に世界が生まれた。
開闢される闇。しかし、少年は闇の世界でも独りだった。他など存在しない、自分と全てになりうる天地の中で、豊は己の思うがままに他を作り上げた。
それはまるで模型趣味が創り上げるニセモノ達に似た、まがい物。しかし趣味でしかない彼らよりもよほど本気で必死だった。そうして縋り付いてまで緻密に創り上げた世界の上に立ってから彼は、思う。
気持ち悪いな、と。
それは、豊が二つを似せすぎたために起きた、不気味の谷。つまるところ、彼の美的センスに、この世界はそぐわなかったのだ。
だからもう一度壊そうと、闇人達が暮らす平和な世界を眺め直し、そうして彼は再び思った。
これならば、踏みつけても気にならないな、と。愛知らず道徳なんて、ためならず。そう思い込んでいた豊の悪心が、ここで頭をもたげた。
全てに疑っていてばかりで貯まるストレス。その解消の場を見つけた、瞬間だった。
やがて。彼は全てを台無しにして争わせるために世界に魔法のエッセンスを加え、その上で無慈悲な王となった。
魔王様。そう呼ばれて、その通りになる。
圧政敷いて、闇の人の屍の上で、一人凍えた。そのまま過ごして全てに見切りが付けられそうになった、そんな日。
彼は、彼女と出会った。
「ああ、この世の全てが悪たれば良かったのに」
そうすれば、全てを捨てて、闇の中に消えられたのに、と豊は思わずにいられなかった。
それは、数奇、というよりも自然。力を隠して過ごしていた大神豊は、ただの異性、笹崎恵(ささざきめぐみ)に愛される。
魔王様が、愛を信じることが出来るようになったのは、幸か不幸か。その時の豊にとっては、この上ない幸せに決まっていたが。
温もり、闇を忘れた。どうやっても、捨て去ることだけは出来なかったが。
「そういえば良いものになろうと思ったことも、あったな……」
しかし、青年は愛を得て、大いに溺れてから、それを失う。豊が恵と共に温もりを感じられていたのは僅か、五年間のことだった。
「だが、いい人なんて、私にはもう、遠い」
悲劇で終わってしまった恵との関係。しかし、思い出以外に遺されたものは一つだけ、あった。それは、結。愛すべき娘だった。
しかし、温もり知らない豊は相手を壊してしまうことが怖くて触れること躊躇われ、最愛の子供に遊び場と闇の世界を与えるばかり。
豊は親が子に一番に与えるべきものを、知らなかった。故に、彼は娘が自分のように仮面を覚えて闇で残酷で遊ぶように悪く育とうとも放置せざるを得ない。
愛の失伝。自分を捨てた両親を想わざるを得なかった。
ああ、良いものになんてなれなかったのだ。稼ぎが優れているだけの、半端な大人が一人。自分は悪いばかりの人間だった。他人の温もりを知らず、故に自分のことばかり考えてしまう自分は悪。
そう、豊は自認している。
だから、自分が創った世界に勝手に入ってきて、創造物に同情して顔も正体も知らない自分を斃そうと志ざしている、そんな蛮勇振りかざす者たる奏台のことを詳らかに識っていながらも、それも当然と放置しているのだった。
しかし、そんな風に、諦めてしまっている豊にも認められないことはある。
「だから、これは……同族嫌悪、なんだろうな」
「そうかな?」
雲天の元、己の不幸を憎む渋面と、相手の不幸を喜ぶ笑顔が対する。
対した相手の醜い悪を、他人で慰撫してばかりで自慰で済ますことすら出来ない上水善人の強欲を、豊は憎む。
それは、残務処理と部下へ仕事の動かし方を教えるために時間を割いたことで完全には休めなかった、祝日。
今にも空からはらはらと雫こぼれ落ちて来そうな、曇天を気にしながら、豊は歩む。濡れる冷たを嫌う彼は雨雲で出来た闇は、あまり好きではない。
しかし、これは間違いなく降るだろう。先日からの天気予報は当たっていた。ブリーフケースの隙間から折り畳み傘を覗かせて、豊はため息を吐く。
「はぁ……ん? あれは」
駅から家への道中。天気を気にして上を見てから、足元を確かめるために下を見る。そんな当たり前の動作。その中で、豊は異常を発見した。
いつぞやに、能天気そうな娘から、哀れにも甲虫と人の混ぜ合わせに創られた怪人を受け取った、そんな場所。規格化された見どころの少ない公園前に、人を見つける。
「気持ち悪いな……」
そう、何時ぞやに闇の世界に感じた不気味の谷のように、豊はそこに佇んでいるばかりの男性に、言いようのない違和感を覚えたのだった。
まるで人でなしが、人の皮を着込んでいるのを見てしまったかのような。そこまで思ってから、豊は頭を振る。
「まあ、なんでも良いか。先日のように私に関係しそうなものでもなければ、何がどうなろうが知ったことではない」
そして、豊は嫌悪感を諦めた。だから、このまま歩みを続けて大人しく、無視をして脇を通る、それでこの邂逅は終わるはずだったのだ。
「ん? 君か」
「っ!」
しかし、上水善人は、大神豊を見つけた。大きなものが、小さなものを。光が、影に寄る。
その明らかに違う声色に全身に怖気が立った豊は、弾けるように善人から距離を取った。そして、彼は見る。笑顔の、破綻者の全貌を。
黒好みの豊と対象的な、真っ白いスーツを違和感だらけで着込んだ善人は、その手の上に黒い球体を浮かべていた。彼はこてんと、まるで疑問を覚えたかのように、首を傾げる。
「どうしたんだい? ただ、声を掛けただけだというのに」
「ただ、ではないな……全く自分の異形に怯える人を愉しむとは、悪い趣味だ」
「ふうん。分かるんだ。面白いね、君は」
何故か理解してしまい眉をひそめた豊に対し、にこにこと、善人は不快の前でいい空気を吸い込む。言の通り彼は明らかに、人の不幸を愉しんでいるようであった。
それを知りながら、しかし豊はその奥までは分からない。善人は他者の不幸に愉悦を抱く、そんな悪趣味の究極。不幸にしか高揚しない最低であるということまで、普通な彼では分かろうはずもない。
ただ、一応しておかなければと、問う。
「それで、どうして貴様は私に目をつけた?」
「いやさ……だって、俺の創った爆弾。台無しにしたの、君でしょ?」
「……何を言ってる?」
そうして、ようやく豊は事態を察する。時限爆弾で散る予定の哀れな怪人を儚い昆虫に変えてしまったこと。それを、爆弾の作成者が知って、原因を探しに来たということを。
ひとまず、相手の対応を見るために豊はしらを切った。
「知らぬ存ぜぬで通すつもりかな? まあ、流石にそれは困る。単純に気になるんだよ。【この虫】を基礎ごと変えた闇の原理はちょっと、面白そうだ」
「なっ」
そんな豊の嘘を軽々と認め、善人は謎の球を浮かべた逆手、先まで確かに何もなかったはずの左の手の上に、甲虫を顕にする。
その取り出し方法と言の不明に驚く豊。善人は、笑みを深める。
「ま、こんな虫、どうでも良いし……大体解除方法の予想はついているのだけれどね」
そうして、何の躊躇いもなく左手を閉じ、握りつぶした。物言うことも出来ずに、虫は欠片と汁となって、善人の指の間から逃れていく。
豊の瞳は大きく開いた。裂け、醜悪にまで深まった笑みのままに、善人は続ける。
「影は物体に応じて形を変える。そして、表以外の内は光届かない洞だ。君が闇を操ることが出来るとしたら……影の形を変えて物体を整形し、体内の炸裂装置を不明と呑み込むことだって、不可能ではないだろう。大した力だよ、褒めてあげる」
善人は、あの爆弾は外的刺激に敏感だから、概念作用でも使わないと解除不可能なのだよね、と続けた。
ここで、豊はようやく気づく。目の前の人間が、どうしようもないバケモノであると。怖じに僅か下がった足は、笑われる。
「はは。……ただ、俺以外のそんな便利は邪魔だよね?」
害意。それに応じて、善人の目の色が変わった。当然のように、瞳が悪に混濁する。ふつふつと、沸き立つその凶悪に睨まれた豊は、恐れを感じざるを得なかった。
しかし、それでも逃げはしない。豊はムカついていた。目の前の存在は、悪の組織の何者か。最悪、その頂点。そんな自由は、良識に縛られこの世界で悪事を働くことは決して無い魔王を苛立たせた。
「……やれ。偶とはいえ、超能力を善く使うものではなかったな」
豊は暗黒を零と見切らず無限の可能性と認め、むしろ祝福する。それに応じ、モノの影達は物質化し、極限まで尖った。
その無数は善人の方を向く。彼の周囲はまるで、逆ハリネズミ。しかし、笑顔は変わらず、むしろ二歩ほどの互いの距離を埋めるため、最悪は一歩踏み出す。
「面白いね」
「っ、どうなっても、知らないぞ!」
向けられる、謎の黒球。
なんだ、あの黒は。
その果てしなさを嫌い、豊は生まれて初めて、自衛のためにうつし世にて己の力を解き放った。
尖りを増し、突き刺さる黒。豊がマテリアライズした暗黒は何より固い。何しろ、闇とは力で壊せないものの一つであるから。その意味すら物質の性質となった黒棘を防ぐ方なんてあり得ない。
だから、豊に躊躇いがなければ、あっという間に骸の出来上がり。そして興奮状態の彼は手加減など考えてもおらず、善人に訪れるのは、死が当然の筈だった。
「結びは、つまらないけれどね」
「なっ」
しかし、止まらない。止められるはずがなかった。闇は善人に触れることが叶う前に、解ける。
それは、まるで光に触れた闇の末路。近づくだけで、格差に揺らぐ。そう。全ては、上水善人という存在の重みに耐えきれないのだ。
そして無造作に向けられた、闇より深い暗黒球。
怖気。
必死に、豊は大げさに転がりながらそれから逃げた。
「あー。流石に避けたか」
呑気な善人の声に、豊は振り返らない。そのまま逃げるために足を動かす。
豊の耳には、避ける際に明らかに異常な音が聞こえていた。見ずとも解る。あの球の軌跡は、その影響下である数十センチの範囲は、きっと抉れるように崩壊して何も残っていないだろう。それくらいに、あれは重たそうだった。
そして善人の周囲には、豊の想像の通りの現実が広がっている。重みが違いすぎれば頭を垂れるもの。それは、物でも一緒だった。近寄られるだけで、潰れてしまう。それほどの違い。
走り、次第に遠ざかる豊の背中。善人は蟻にも満たない相手のあがきに、笑う。
彼はゆるりと、右足を動かす。
「はは。結構足、速いんだね」
「な」
そして、善人は一歩で互いの距離を無にした。スケールの差異に、世界は狂う。
そも、善人にとって、距離の支配程度楽なもの。なにせ全ては彼の掌の中に収まっているくらい、なのだから。
「ぎ」
無造作に動かされた、右手。その延長線上にあった豊の左腕が、消し飛んだ。
そして、軌道を変えて、善人の黒球はそのまま豊の顔に吸い込まれていく。瞬く間に鼻頭が潰れ、そうして。
「――あ」
あたりは一遍に、夜になった。
「はぁ……はぁ……なんだ、アイツ……なんだったんだ」
消えた、善人。
左手の喪失。そして、鼻の怪我。一息吐く間もなく、それを豊は影で塞いで補う。黒色であるが、もとに戻る、形。しかし、馴染みがない。これでは完治どころか前と同じく動かすにもしばらくかかりそうだった。
だが、そんなことなんてどうでもいいと、豊は善人を呑み込んだ、足元の己の影を見る。
「日に真っ直ぐ向かって走って、アイツに影を向けていたことが功を奏したか……」
そう、豊は逃げつつ、誘い込んでいた。一つに気を取られれば、人は他を見落としがちになるもの。逃亡者が罠を仕掛けている等、絶対優位でそこまで考えるものではないだろう。
辛くも豊は、己の手足の先である自らの影を使って、善人を闇の世界へと呑み込むことに成功していた。
そして、豊は足元から影を切り離しその場から逃げ出す。どう考えても、これだけで倒せた気がしなかったから。
黒い孤は、淡い日差しの元、揺らぎ続けた。
そのまま駆け足でしばらく。隣家の人間には暗ったい色と言われてしまった我が家が見えてきたころになってようやく、豊は一息吐いた。
安心は出来ない。けれども、逃げずに構えるための、強がりは必要だった。逃避ばかり、してはいられない。
自分に言い聞かせるように、豊は言う。
「ふぅ……闇の世界は、意味の海だ。俺の支配の究極。世界全てが敵になるんだ、アイツもそう簡単にこの世界に戻れは……」
「するよ?」
「くっ!」
耳元での声。豊は振り向きざまに、左手と化していた闇を広げて目くらましを兼ねた防御をする。今度は、闇の曖昧を性質に加え。
「ぐあっ!」
「あ、ちょっと逸れた? 君、凄いな……」
しかし、そんな渾身の盾ですら問題にはならなかった。感心の声を上げながら、善人は血しぶき上げて転がり続ける豊の前で、変わらず微笑んでいる。
そして、何を思ったかそのまま豊の苦悶を鑑賞しながら、顎に手を当て、善人は話しだした。
「ちょっと、闇の向こうを見させて貰ったよ。いや君、中々のワルだったんだねー。てっきり俺、君はいい人かと思っていたんだけれど、びっくりだよ」
創造物を虐めるのは、俺と趣味似ているね、と善人は喜ばしそうに続ける。その下で、その多くが消え去った腹の中を闇で充填し切れずに藻掻いている男を気にも留めずに。
「俺ちょっと、君を気に入っちゃった。だから……」
「――――お父さんから、離れろ!」
「おっと」
そして、更に善人が豊の苦悶を覗こうとしたその時。凄まじい速度で赤い水が奔り、彼の頬を掠めた。
それを僅か気にし、下手人を確認した善人は、彼女に向けて右手を伸ばす。
「邪魔だね」
そう。善人は、そうだろうと思いながらも、勧誘しようと思っている存在の一人娘を、何気にすることなく壊そうと、黒球を向けた。
大きく見開かれる、豊の瞳。怯えながら血に濡れた指先を向ける唯。滴る体液。敵に向けたその切っ先がぶれた、その時。
「あぶない!」
「きゃ」
唯を横っ飛びで、少女が救った。
その正体を認める前。豊は出来かけの臓腑をそのままに、深まる周囲の影を持ってして、善人を拘束する。
黒の包帯のような闇で固定するのは彼の右手ばかり。しかし、そこにかけた意思は本気だった。
「へぇ……なるほど効果があると見て不明を強めにしたか。やっぱり君、面白いね」
「お前は……最悪だな」
「君もたいして変わらないでしょ?」
「……そうだな」
生まれたての子鹿のように利かない足を必死に動かし、立ち上がる豊。位置を変え、彼は唯をそっと己の背に隠した。
そうしてから、豊は善人の言葉に頷く。
どう考えても相手は問答無用の敵手。本当は、応えなくても良い。けれども、知らずに彼の口は動いていた。
「だから、これは……同族嫌悪、なんだろうな」
「そうかな?」
多くが黒く欠けた男は、白く陰ることない男を真っ直ぐ認める。嫌いは、とうに殺意に変わっていた。
怒りに、黒は応じる。そうして、周囲の全ての闇が胎動を始めた。それを見て、ぎちぎちと、拘束抜けんと身じろぎする、善人。
変わらぬ笑顔と、深まる渋面。その相対の中で。
「止めて下さい!」
まるで悲鳴のような少女の声が、辺りに響いた。
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