第3話

[『Vie(ヴィ)』p.3]


ある夕暮れ。

私の世界が突然変貌した。

午睡の後の寝呆け眼に、カナリヤ色の黄昏に染まる部屋が映った。

光、光、光いちめんの中。

窓の外は碧い水ではなく。

光。

そして。マザーの音楽は聴こえない。 生まれた時から聞き続けてきた音が突然途切れた時の気分をどう伝えればいいのだろう。頭の中の一ヶ所がパクリと抜け落ちる…なんて陳腐な説明では多分伝わりきらない。


コン、コン。


ガラス窓が微かに音を立てる。

慌ててそちらに目をやると。

ガラスの向こう側に、光の糸のような髪を短く刈った男の子。

それは、まるで、窓の外に満ち満ちている陽の光が凝集して人の形になったようだ、と思う。だとしたら、この子のこの、蜜いろの瞳に私はきっとこな湿気の高い部屋の空気が凝集した物に見えているのだろうか。

光の彼…は細い指先を繰りながら、窓を開けてと身振りで訴えている。

あれだけの水圧に耐えられるように出来ているガラス窓が開くはずはないでしょう。首を横に振ってイヤイヤをしてみせても、彼はニコニコと笑って私が動き出すのを待ってる。

渋々身体に絡まったシーツから抜け出て、目をこすりながらガラス窓に右手を添える。…ほら、開かないでしょ? その時、彼はいとも簡単に手品のようにガラスをスライドさせ、窓を開けてしまった。

「出ておいで、揚羽(アゲハ)」

私の今後を決定してしまう、何と絶対的な、明るい声なんだろう。私は彼のその言葉が発されたくちびるを凝視してしまう。

「アゲハって何?」

私は口をぱくぱくさせながら、やっと声を発した。

「僕がつけた、あなたの名前」

両手を差しのべてくる。きれいな長い指。触れたい。両手を重ねたい。引き寄せられて、手をつなぐ。華奢な見掛けに寄らない強い力で、私は外に引き出された。

この子はどうしてこう自然に人の心の中に入り込むのだろう。

水底都市で、廃墟であった街が、今、雫を垂らしながら、黄昏に光り輝いている。物凄い金色。眩しくて、気絶しそうだ。少し背の高い彼に手を引かれ、二、三歩歩いてみただけでしゃがみこんでしまう。

「どうしたの? 肩が震えている。この街はこんなに光溢れて暖かいのに」

 私は眩しさと、初めて経験する外気への違和感で吐きそうになる。そして何よりも私を最も苦しめる物。それは音楽の欠如。私に安らぎの音楽を与え続けていたのは、あの水たちだったのだ。

「あの水たちは何処へ行ってしまったの?私にあの音楽を聞かせてくれていた、大切なあの水たち・・・音楽たち」

 私は胸の中から突き上げて来る巨大な

欠落感に負け、涙をボロボロこぼしながらしゃくりあげた。

「生まれた時から、ずっと絶え間なく、耳に流れていた音楽が、失われてしまった。私は苦しくて寂しくて」

「何だそういうことなら簡単だ」

 彼は乾いている石段に腰を下ろして言った。

「では、あなたから奪われてしまった波音の代わりに僕があなたに新しい音楽をあげよう」

 そんなに簡単そうに言われてもね。彼に、私の、あの音楽と生きてきた十二年間がわかってたまるか。

「大丈夫だよ。なぜなら、僕がこの街の音楽そのものだから」

 指先を高く上げて、何かをつかまえるような動作。つかまえた目に見えぬ何かを両手で愛しげに包み、そっと胸に当て、彼は空気を吸い込んだ。




『風が来るよ

僕の魂をあの場所へと運ぶために

やがて来る日々のあの樹のもとへ

夢で見たあの場所へ



きみはこの今何を見ている?

顔も知らないきみの居場所へ

想いだけが走っていく。

風と記憶と奇跡が、

きみの痛みを連れて来るから。


風が僕といつも傍にいて

僕に吹きつけている

僕は僕になるためだけに

今風を見ている

今は風だけを見ている』

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