第2話

[『Vie(ヴィ)』p.2]


空調も完璧なはずなのに、やはりこの部屋は湿度が高い気がする。…この部屋には水の匂いが充満している。

…イタリアの街のようだな。

ティーチャーが突然、静かに呟いた。「この街は、まるでイタリアの街のようだ」

毎日決まった時間きっかりに(デジタル時計より正確に)現れ、決まった時間きっかりに(デジタル時計より正確に)消えて行く、家庭(?)教師。

彼が講義内容以外の話題を口にするのが珍しくて、私の心の好奇心のカンヌキが小さな音を立てて外れた。

「ティーチャー、質問をしてもいいですか?」

彼の右の眉が、ヒクリと動く。

「私が、こんな育てられかたをされているのは、何かの実験ですか?」


「それは今日の講義の世界史と微妙に関係があるような、ないような…」

困ったらしい微笑…端正な横顔。

「わからないね。僕はある時こういう役目を与えられて、生活のためにこの仕事を遂行しているだけだから。僕は僕の仕事以外のことには一切関心はない。きみの生きる意味はきみだけのものだし。きみがもし、きみの生きる意味を知りたいとすれば、きみにとってその疑問はあまり意味のない事だと、僕はあえて今はそう答えたいと思う」


「質問その二」息を継がせず、次の問い。せっかくの謎解きのチャンス。そう簡単にいつもの講義に戻すもんか。

「外は全部全部どこまでも水、ではないと以前ティーチャーから聞きました。外の外はどんな世界ですか?」

「窓の外をごらんなさい」

 尖ったあごで、窓を示す。

「この景色のそのまま、水の代わりに光が満ちている。サカナの代わりに人々が横切っていく。そう思えばいい、と思う」

 そして、彼は

「こんな水族館を」

冷たい、シャーベットのような笑顔で言った。

「小さいとき僕は見たことがある」

なら、ここではこちら側が水槽の中なのかも。私が生きた標本としてあのサカナたちに見られている側なのかも。




私は小さく溜め息をつき、視線を教科書に戻した、が。

「音楽が、聴こえます」

「?」

「音楽が、聴こえるの私。生まれた時からずぅっと…重い、低い、優しい、生温かい、不思議な音。ざあぁあん、どおぅぅうん」

「僕には、聴こえないよ、そんなもの」

そうひとりごとのように呟いた後で、

「ああ、それはマザーだ」

「生き物は、産まれる前、卵の状態から、一人で生きていけるようになるまで、母胎内で育てられる…それは前に教えたね。胎児は母胎の中で、母親の心音を聞いて育つんだ…多分、きみは今もその音を深く記憶しているのだと思う」

「いいえ、きっと私はまだ母胎の中に閉じ込められているのだわ」

膨れっ面ですねてみた。「表に出たいですか?」

「別に。ただ、何か私ってズルイなって思うの。楽して生きてるから」

「外に出るのはそう難しいことではないよ。だけど、それがきみにとって幸せか、恐ろしい不幸の始まりかが予測出来ないので、僕には答える自信がない」

「講義に戻りましょうティーチャー」

話を断ち切りたくてノートを広げた。 彼には答えられない。私が本当に知りたいことの真相は。

彼は彼自身の人生しか知らない。過去と現在しか知らない。彼には私が本当に求めている疑問の本当の答えは教えることはできないだろう。


ティーチャー。外の世界には、どんな音楽があるのですか?

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