顔のない人魚

UMI(うみ)

顔のない人魚

 僕には人魚が見える。

 でも何故かその人魚には顔がないのだ。


 僕が人魚を初めて見た時のことは覚えている。大雨が降った翌日に川で他愛もない遊びをしていた時だ。増水した川の上流からは色々なものが流れてくる。畑で捨てられたであろうキャベツなんかの野菜。ボロ雑巾やら壊れた傘。僕はそういったものを枝で引っかけて拾う遊びに当時熱中していた。今覚えば本当にくだらない遊びだったと思う。

 父は危険だから止めなさいと口五月蠅く言っていたけど、そう言われて止める子供はいない。実際のところ、その川はよく氾濫して危険だったことは事実だった。でも僕はこの遊びに夢中になっていて、こっそり抜け出しては川でこのゴミ拾い、通称『釣り」をしていたのだった。


 僕が人魚を見たのはそのくだらない遊びをしていた時のことだった。


 その人魚はするすると僕に近づいてきた。増水して川の流れは相当早かったと思う。それなのに人魚はそんな流れに逆らうように悠々と泳いでいた。子供の僕は恐怖感なんか全くなくて絵本でしか知らない人魚を見たことに驚き有頂天になっていた。思わず持っていた棒切れを人魚へと差し出した。勿論そんな棒切れが人魚に届くはずもなかった。僕は諦めて棒切れを手放した。人魚はただ黙って微笑んでいた。人魚の髪はウェーブのかかった長い黒髪で尾の鱗は美しい銀と黒だった。こんな美しい生き物は見たこともなくて、僕は魅入られたように人魚を見つめた。人魚は微笑みながら僕を見返してくれていた。どれだけそうやって見つめ合い続けていたのか。気付けば人魚は川の中へと消えてしまっていた。

 人魚が姿を消してからようやく僕は気付いたのだ。その人魚には顔がなかったことに。それなのに何故微笑んでいることがわかっただろうか。僕は人魚に出会った不思議よりも、そっちの方が気になって仕方なかった。家に帰って父に人魚を見たと話をした。

「人魚なんかいるわけないだろう。それよりもまた川に言ったのか。あれほど危ないから行くなと言ったのに」

 そう言っていつものように僕を叱った。

「ほら、母さんに約束しなさい。もう川で危険な遊びはしませんって」

 そう言われて僕は仏壇の前に座った。僕の母は僕が物心がつく前に死んでしまっていた。事故で死んだと聞かされている。父から事故の詳細は聞いたことがない。きっと母のことを話すのは辛いのだろうと勝手に思っていた。

 僕は仏壇の前に座り手を合わせて「もう川では遊びません」と形だけの約束をした。僕は仏壇に置かれている母の遺影をなんとなく見た。写真の中で女性がおぼろげに微笑んでいる。僕は母の顔を知らないのでこれが自分の母親だと言われてもピンときたことがない。はっきり言えば赤の他人のような感じしかしない。でもそれを言ったらきっと父は悲しい顔をするだろうと思って、そのことについては何も言ったことがなかった。

 人魚を見た次の日、僕は学校へ行ってクラスメイトにちょっと自慢気にその話をした。

「人魚なんているわけないだろ」

「嘘つきだな、お前」

「あの川に行ったか?先生も行っちゃいけないって言ってただろ」

「先生に言いつけるぞ」

 僕はがっかりした。人魚を見たなんて言えばきっと注目の的だと思ったからだ。

「嘘じゃないもん!」

 僕は躍起になって言い返した。

「嘘に決まってる」

「嘘じゃない!本当に見たんだ」

「嘘じゃなきゃ幻覚だろー」

「幻覚なんかじゃないやい!」

「嘘つき、嘘つき」

 僕はその日からすっかり嘘つき呼ばわりされることになった。


 僕は嘘つき呼ばわれされたのが悔しくて、僕は毎日のように川へと向かった、でも人魚は現れなかった。どうして人魚は現れてくれないんだろうと僕は悔しいやら悲しいやら情けない気持ちで暗澹たる気持ちを抱えて過ごしていた。

 そんなある日また大雨が降った。僕はもしやと思い。次の日に増水した川へと向かった。前に会った時もこうして川が増水した日だったからだ。川はゴオゴオと唸りを立てて激しく流れていた。僕は身を乗り出し棒切れで適当に川の水を突く。何かを拾おうとする気はなくてただ人魚を待っていた。けれど人魚は待てど暮らせどやって来ない。やっぱり自分の見間違いだったのだろうかと思い、腰を上げた時だった。

 人魚はやって来た。

 この前と同じように川の流れをものともせずにするすると僕に近づいてくる。僕は嬉しくなって思わず棒切れを投げ捨てた。

「人魚さん、来てくれたの!」

 川の音にかき消されないように僕は大声で言った。人魚は返事の代わりにまた微笑んだ。顔のない顔で微笑んだ。

「人魚さん、顔がないんだね」

 人魚は何もしゃべらずただ口角を上げるだけだった。顔がないのっぺらぼうの人魚なのに、僕は気味の悪さも恐怖も感じなかった。ただまた会えた嬉しさで一杯だった。

「またここに来れば会える?」

 人魚は微笑みだけで答えた。そしてゆらゆらと激しい川の流れの中に消えて行った。

「まただよー、絶対だよ」

 消えゆく銀と黒の尾びれに向かって僕は呼びかけた。

 それ以来、僕は人魚の会合を楽しみにするようになった。

 もう嘘つき呼ばわりされたくないから、人魚のことは誰にも話さなかった。友達にも父にも。人魚に会う度に僕は色々な話をした。学校のテストの点が悪かったことや父が勉強しろと口五月蠅いといった他愛もないことから、母が幼い時に死んだことまで何でも話した。人魚は言葉を発することはなかったけれど、どんな話でも微笑みながら聞いてくれた。誰も信じてくれなくてもいい。人魚はここにいる。僕の目の前にいる。僕は嘘つきなんかじゃない。僕は人魚との逢瀬を楽しみに、今度はいつ会えるだろうと雨が降るのを心待ちにしていた。

 でもそんな日々も長くは続かなかった。いつものように雨が降った日に僕は川へと向かい人魚に会った。そして色んなことを話していた時だった。

「何しているんだ、お前は」

 振り向くと父が物凄い顔で立っていた。後を付けられていたらしい。

「危険だと何度も言ったろう!」

 鬼のような形相だった。

「あの、僕……」

 僕は川の中で微笑む人魚に視線をやった。

「一体誰と話をしていたんだ!」

「えと、あの、人魚と……」

「人魚!?」

 僕は人魚を指差した。父は指差した方を見たが、憮然とした顔で僕を怒鳴りつけた。

「人魚なんていない!いるわけないだろう!」

「そこにいるじゃないか!」

 人魚が目の前にいるのに否定されて僕は激高した。

「髪の長い人魚だよ!父さんには見えないの!?」

 父がはっとしたように目を見開いた。

「人魚はどんな顔をしているんだ?」

「……顔がないからわからないよ」

 父はなにやら深刻そうな顔をしていた。ぽつりぽつりと再び雨が降り始めていた。父は僕の腕を掴んだ、あまりにも強く掴まれたので僕は「痛い」と顔を顰めたが、父は掴んだ腕の力はそのままに僕は家に連れて帰られた。 

 そして次の日僕は学校を休まされ病院へと連れて来られた。「僕は体なんてどこも悪くないよ」言ったが父は何も返事をしてくれなかった、病院というから血を取られたりおしっこを取られたりするんだ思っていたのに、そういうことは全然なかった。レントゲンも取られなかった。その代わりに絵を描かせられたり、「はい」「いいえ」で答えるアンケートみたいなものをやらされた。

「参考程度だから直感で答えてね」

 看護師さんは笑ってそう言ったけど、こんなことさせる病院は初めてでここは一体どういう病院なんだろうと不安ばかりが募った。そうこうするうちに僕の順番になり父と一緒に二人して診察室へと入った。

「こんにちは」

 お医者さんの先生は僕の父と同じくらいの歳の男の人だった、眼鏡をかけ白衣を着ていていかにもお医者さんといった感じだった。でもその人は聴診器も持っていないので僕は首を傾げた。

「お父さんは少し席を外してもらえますか?」

 父は同席したいと言ったけど先生は「後で話ますから」と言って父を待合室で待ってくれるように頼んだ。先生は父が扉の向こうに消えるのを待ってから僕に向かいうと口を開いた。

「お父さんから聞いたんだけど、人魚が見えるんだって?」

 僕は呆気に取られた。てっきり「どこが具合が悪いの」とか聞かれて、聴診器を当てられて(先生は聴診器を持っていなかったけど)口の中を覗かれたりするんだとばかり思っていたからだ。僕は少し悩んだあと、こくりと頷いた。

「先生も嘘つきだって思っているんでしょ」

 棘のある僕の物言いに先生は優しく微笑んだ。

「嘘つきだなんて、思っていないよ」

「どうして?クラスメイトも父さんだって信じてくれない」

 僕が唇を尖らすと先生は笑って言った。

「私はね、患者さんの話を信じることが仕事なんだよ」

 それからと先生は続けた。

「後は患者さんの話を聞くこと、それも仕事」

「僕はやっぱりどこか悪いんですか?」

 患者という言葉が引っかかって僕は先生に訊ねた。

「体はいたって健康だよ。健康そのもの。安心していいよ」

「じゃあ、どうして僕は病院に連れて来られたの?」

 僕は不安になって更に問い続けた。

「ここはね心が疲れた人が来るところなんだよ」

 心が疲れるってどういうことなんだろう。僕は首を傾げた。

「僕、疲れているんですか?」

「少しね。君は気付いていないかもしれないけど」

 先生は柔らかく微笑むと僕にお願いをした。

「良ければ人魚の話をしてくれないかな」

「嘘つき呼ばわりしない?」

「しない、しない。さっきも言ったように私は患者を信じることが仕事だからね」

 僕は少し迷ったけど、人魚のことを誰かに聞いて欲しいという気持ちがあったし、信じて欲しいという思いも確かにあった。だからゆっくりと初めて人魚に出会った時から随分たどたどしかったと思うけど、僕は先生に打ち明けた。先生は時々相打ちを打ちながら真剣に僕の話を聞いてくれた。

「人魚には顔がないんだね」

「はい」

「顔を見たいと思うかい?」

「うーん、どうだろう」

 聞かれてみて初めて気付いた。僕は人魚に顔がないことは不思議に思っていたけど、顔を見たいと思ったことがなかったことに。

「君が見たいと、知りたいと思ったらきっと見れるようになると思うよ」

「そうなんですか?」

「多分ね」

 先生の答えは曖昧だった。

「人魚が君の前に現れるのは、君が人魚を必要としているからだと思うんだ」

「僕が人魚を必要としている……」

 確かに会いたいと思う。返事はなくとも会って話を聞いて欲しいと思う。自分を見て微笑んで欲しいと思う。

「そうなんでしょうか?確かに会いたいなあとは思うんだけど……」

「君が大人になって、もう人魚は必要ないと思うようになったら現れなくなるかもね」

「会えなくなるのは寂しいです……」

 でも大人になったら会えなくても寂しいと思わなくなるんだろうか。それはそれで自分は薄情な人間のように思えた。

「そうだね……寂しいかもね。でも大人になるっていうのは少なからずその寂しさを乗り越えていくことなんだよ、多分ね」

 また『多分』だ。

「先生さっきから『多分』ばっかりです」

「ああ、ごめん。でもこういうのは難しい問題でね。算数みたいにはっきりした答えはないんだよ」

「僕は……」

「うん?」

「人魚に会えなくなるのなら、大人になりたくないです」

「そうか」

 てっきり否定されるかと思ったのに、先生はこくりと頷いた。

「無理に大人になる必要はないよ。寂しさも無理に乗り越える必要なんて今はないんだ」

「はい」

「人魚が好きなんだね」

 僕は素直に頷いた。

「今はその気持ちを大事にしなさい」

 先生はにこりと微笑んでくれて、僕は何故かそれが無性に嬉しかった。人魚の存在を否定しなかったことも嬉しかったし、人魚が好きだって気持ちを大事にしなさいって言ってくれたことも嬉しかったのだ。

「さてと、次は君のお父さんと話をしないとね」

 そう言うと先生は僕に待合室にいる父を呼んできてくれるように頼んだ。


 帰り道、父は車を運転しながらぽつりと言った。

「ごめんな、人魚のことを信じてやれなくて」

 突然謝罪されてぼく吃驚した。

「先生に何か言われたの?」

「息子さんを信じてあげなさいって言われたんだよ」

 俺が悪かったよと父は再度謝った。

「俺には人魚が見えなかった……でもな、お前が人魚が見えるって言うなら俺は信じることにした」

「信じてくれるの?」

「ああ」

 そう言って父は左手を僕に伸ばす、くしゃりと僕の頭を撫でてくれた。

「本当はなあ、危ないから川に行って欲しくないんだよ。でも今のお前には必要なことみたいだから絶対に行くなとはもう言わない。ただ幾つか父さんと約束をしてくれ」

「うん、なあに?」

「川が氾濫して本当に危険な時は行かないこと。もうゴミ拾いみたいな真似は止めること」

 父があまりにも真剣な声で言ったので僕は頷いた。

「わかったよ、父さん。ゴミ拾いはもうしてないし。それは安心して。でもゴミ拾いじゃなくてあれは『釣り』なんだよ」

 僕がそう抗議すると父は「そうか『釣り』か」と言って、わははと笑った。久しぶりに聞いた父の笑い声だった。

 それから僕は一か月に一度の頻度で定期的にあの先生のもとに通うことになった。


 おかげさまで僕はこっそりとではなく、堂々と人魚に会えることになった。そのおかげかはよくわからないけれど、僕は人魚に対して色々思いを馳せることが多くなった。少し心の余裕が出てきたのかもしれない。例えばどうして顔が見えないのか(というより顔がない)大雨で川が増水した時にしか姿を現さないのだろうとか。何故いつも微笑んでいるのだろうとか。それよりも不思議なことは顔もわからないのに自分はどうしてかあの人魚の顔を見て懐かしいと感じていることだった。

(どこかで見た顔なのかなあ、いやそもそも顔がないし)

 いつしか僕は興味がなかったのに無性に人魚の顔が見たい、知りたいと思うようになっていた。


「心境の変化だね」

 僕が先生にそのことを話すとふむふむと彼は眼鏡をくいっと押し上げた。そしてくるりと手に持ったペンを回す。

「いいこと、なんでしょうか?」

「いい傾向か悪い傾向かはまだ何とも言えないけど。私個人としてはいい傾向だと思うよ、多分ね」

 もう『多分』は先生の口癖のようなものだ。

「そうなんでしょうか」

 うんと先生は頷いた。

「人魚に興味を持つことは、君が自分の心と向き合おうとしているんだよ」

 だからいい傾向だと先生は言う。

「ちょっと意味がわかりません」

 僕は人魚の顔を知りたいということが、どうして僕自身の心と向き合うってことに繋がるのかさっぱりわからない。

「うーん、上手く言うのは難しいなあ」

「先生、それでもお医者さんなんですか。先生頭いいんでしょ」

「別に格別頭がいいわけじゃないよ」

「嘘だー、医者なんだから頭がいいに決まっている」

 何年も通っているうちに僕は先生に軽口を言えるまで仲良くなっていた。

「医者だって万能じゃないよ。君と同じ普通の人間なんだから」

 その答えに僕はぶーたれた。

「まあ、一つ言えることはあるかな」

「何ですか?」

「君が本当に心の底から人魚の顔を知りたいと思ったら、知ることが出来るだろうね。きっと」

 以前にも言われた言葉だったけど、先生は珍しく『多分』ではなく『きっと』と言った。


 家に帰ると僕は仏壇に座り手を合わせた。出かける時と帰って来る時には仏壇に手を合わせることは父から義務付けられていることだった。僕は母の遺影を見た。もしも僕の母が生きていたら人魚のことを信じてくれるだろうか。考えても仕方のないことを考えた。母親とはどんなものなんだろう。物心ついたころから父と二人暮らしだった僕には想像がつかない。ふとあの顔のない人魚の姿が脳裏に過った、あの人魚が母だったらいいのに。我ながらとんでもない発想に驚いた。

(でも……)

 人魚はいつも黙って微笑みながら僕の話を聞いてくる。顔がないのに何故か微笑んでくれていることがわかるのが不思議だけど。辛いことからくだらない世間話まで。友達は母親があれしろこれしろ、あれはするなこれはするなと五月蠅くて堪らない、うざいとぼやいているけど僕の人魚は違う、何もかも穏やかに全てを受け入れてくる。

 僕は母の遺影を手に取った。

「ごめんね、母さん」

 顔も写真でしか知らない、声も覚えていない母だ。でも本当の母親だ。それなのに人魚が母だったらいいと、つい思ってしまった罪悪感から僕は遺影に謝罪した。勿論答えが返ってくるはずもない。写真の中の母は穏やかに微笑んでいる。その微笑みとウェーブのかかった長い髪が人魚に似ているとなんとなく思った。無性に人魚の顔が知りたいと思った。人魚の顔を知ることができればこうして本当の母に罪悪感を感じることもきっとなくなるだろうと僕は思ったのだ。


 長雨の降った日の翌日、僕は父に声をかけて家を出た。

「十分気を付けるんだぞ」

「うん、大丈夫だよ」

「『釣り』もするなよ」

 お道化たような父の言葉に僕は返事をする。

「もう、そんな歳じゃないよ」

 僕はスニーカーを履き、川へと向かった。川は長雨のせいでかなり増水していた。黒々とした波がうねるように下流へと流れていく。どうどうと音を立てる濁流を見ながら僕は人魚が現れるのを待った。けれど人魚は中々現れてはくれない。空を見上げると曇天でまた雨が降り始めそうだ。念のため傘は持ってきていたけれど雨が降り始めたら更に水かさが増してしまう。そうなったらさすがに帰らなければならない。

(早く、来てくれないかなあ……)

 僕は焦れたように足踏みしながら人魚をまったが、ぽつりと雨が降り始めた。仕方なしに僕は傘を開いた。ぽつぽつと降っていた雨だったが徐々に強い降りになってきた。川の流れも速くなり濁流は大蛇が体をくねらせているようだった。今日は駄目かなと諦めかけた時だった。

 人魚が現れた。激しい濁流のなかを相変わらずものともせず、するすると泳ぎながら僕へと近寄ってくる。僕は嬉しくなって濡れるのも構わず傘を投げ捨てていた。顔のない人魚は変わらず不可思議な笑みを浮かべている。


『君が本当に心の底から人魚の顔を知りたいと思ったら、知ることが出来るだろうね。きっと』


 先生の言葉が胸を去来する。僕は意を決して人魚にお願いをした。僕はそのお願いを人魚にすることは初めてだった。

「ねえ、人魚さん」

 雨や川の音にかき消されるような小さな声だったけれども、人魚には聞こえたのだろう。ゆっくりと濡れた顔を上げる。

「あなたの顔が知りたいんだ」

 人魚の笑みが深くなったように見えた。人魚はゆっくりと長い長い前髪をかき上げて、僕を見つめた。


 そこには確かに顔があった、

 そして僕は絶句する。

 それは遺影の中の母の顔だった。


「母さん!!!」


 ごうごうと、どうどうと、川のうねる音が聞こえる。

 誰かが背中を押している。

『上がって!早く上がって』

 僕は川岸に押し上げられ、げえげえと汚れきった水を吐いた。振り返ると僕の背を押してくれた人はもういなかった。見えたのは真っ黒な濁流の中へと飲み込まれていく……


 母の姿だった。


「ああああああああ!」

 どうして忘れていたのだろう。どうして覚えていなかったのだろう。母は僕を助けるために僕を庇って。この川で死んだのだ。僕の代わりに死んだのだ。父が母の死因を僕に言わなかった理由もここにあったのだ。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 僕はひたすらに人魚に謝った。人魚は僕を責めることなくただ優しく微笑んでいる。

(ああ……)

 人魚はひたすらに僕を待っていたのだ。一人ぼっちで。ずっとずっと。僕がいつか大人になって気付いてくれるのを。僕は雨と涙で濡れた顔を拭った。拭っても拭っても涙は溢れ、その涙は雨で洗い流されていく。棒切れなんかじゃ届かなった人魚の手。今なら届きそう気がした。僕は顔を上げて人魚を見た。

「今、手を伸ばすよ」

 僕はそう言って精一杯腕を伸ばす。人魚は嬉しそうに同じように手を伸ばした。触れ合った手は温かく柔らかく、確かにそれは母の手だった。

「今度はもう離したりしないから」


 雨はいつしか止み、それ以来僕は人魚を見ることはなかった。






 

 了

















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