全ては泡沫に
――『人魚姫』で最後、泡になった人魚は空へと昇ることが出来たのだろうか。
――それとも、未だに泡となり海で漂っているのだろうか。
――もし僕が泡になったのなら、いつまでも重力に囚われる海になんかに留まりたいとは思わない……。
手を繋ぎながら僕たちは岬の高台まで駆け抜けた。
徐々に、湿った土の匂いや木々の匂い、そして、森全体に漂う生き物の息吹から、照り付ける太陽と草花の香りへと移ろっていく。
森を抜け、高台へと足を出した瞬間、ほんのりと肌に纏わりつくようでいて爽やかな潮風が体を包み込み、思わず大きく息を吸う。肺を満たした新鮮な風の味は、少しだけしょっぱかった。
開けた視界の向こうに広がる一面の青。空と海。境界線の分からない世界がそこにはある。遠く、遠く、この先では空と海が溶けあっているのか、その二つは決して交わることが無いのか僕には分からない。唯一分かることは、僕たちを飲み込んでしまうほどこの青い世界は広いということだけだ。
世界の広さを目の当たりにし、思わず力を込めてしまっていた涼香との手を離し、岬の端まで一歩一歩ゆっくりと歩みを進める。
足元に広がる草花が風に揺れ、ふわっと優しく靴を包み込む。
「この場所、きれいだよね。私、ここ大好き」
「うん。きれいだよな。あ、今日の砂浜、誰も居ない」
右側に広がる三日月型の砂浜には、人が誰もいなく、静かに波が打ち寄せては引いていた。
白く広がる入道雲。砂浜。薄緑の草花。岬の先には一輪の黄色い花が風に揺れる。
「ねえ夏芽くん。この花、可愛いね」
花に導かれるように、岬の先端まで歩き出す涼香を、見守りつつ波の音に耳を澄ませていた。森からはサラサラと揺れる木の葉と、ガサッと何かが揺れる音、空からは風に流される雲の音が静かに降ってきていた。
花の前でしゃがむ涼香。
「落ちないように気を付けろよ」
「分かってるって。でも、ここに一緒に来れるの今日で最後かもしれないしさ、来年から中学校は別々になっちゃうでしょ。しっかりゆっくり色んなものを見ておきたいの」
来年から、親の都合で引っ越しをする涼香。何年も一緒に居たのに、中学校は別々になってしまう事実は、未だに受け入れられないでいた。
これからも一緒だと、いつまでも一緒だと、いつの間にかそう思い込んでしまっていたのだ。でも、決して会えないわけじゃない。
それなら。
「それなら、毎年夏に帰ってくれば良いだろ。僕はここで待ってるから」
「うん。それじゃあ、毎年この日に会ってくれる?」
「必ず会うよ。涼香の為に必ずここに来る」
「約束だからね」
「分かってるよ。涼香も忘れるなよ、忘れっぽいんだから」
「忘れっぽいのは夏芽くんもでしょ」
花を見ていた涼香が立ち上がり、微笑む。
後ろに広がる涼しげな海の水面に太陽が反射し、白く輝いている。風に揺れる波、草、木々。世界が呼吸をしていた。僕もその中で、小さく、けれどもしっかりと息を吸った。
「アイスの当たり棒、どこかに落としちゃったな」
ポケットに入れた手で感じたちっぽけな後悔を、吐いた息と共に空へと舞い上がらせる。
舞い上がった後悔を遠くへ吹き飛ばすように、強風が吹き抜けた。
刺すような強い風に思わず眼を細めると、
「あっ」
頭に直接響くような涼香の声。
細めた視界で微かに見えた景色は、空高く舞い上がった麦わら帽子。
風に流され、海へと飛ばされる帽子に向かって手を伸ばす涼香。足元は、もう直ぐ崖だ。
「涼香!」
叫んだ声に驚いた涼香は、こちらに振り向きつつも身体は投げ出されるように海へと引っ張られる。僕に向かって差し伸ばす手。
僕は蹴るように走り出し、涼香に向かって必死に僕も手を伸ばす。
届け。あと少し、もう少し。
ギリギリで触れた指先から伝わる熱を逃がさないように、もつれそうな脚を気力だけでもう一歩踏み込む。掴んだ手を思いっきり引っ張り、涼香の身体を引き寄せると、入れ替わるように僕の身体が外へと投げ出された。
涼香との手を離し、その手を空へ。
舞い上がる麦わら帽子を掴む。
僕は帽子を、涼香のように大切に胸に抱えて、落ちていく。世界のすべてがスローモーションになり、太陽の眩しさ、海を渡る鳥の群れ、目の前を横切るアゲハ蝶、そして手を伸ばし何かを叫ぶ涼香の表情、そのどれもをはっきりとゆっくりと見ていた。
海へと落ちているのに、僕の気持ちはとても落ち着いている。涼香を助けられたこと、麦わら帽子を取り、あの笑顔を守られたことに満足していた。
でも……もう一度、笑顔を見たかったな。
背中から落ちた僕は、水面にぶつかると同時に肺の中の空気をすべて吐き出した。呼吸が出来なくなる。必死に空気を求めて口を開けるが、すぐに海水が口の中へと流れ込み息が出来なくなる。
そして、頭が完全に水の中へと沈むと音が消えた。水飛沫の音も、波の音も全く聞こえず、ただの無音。目の前には、白と青が溶け合う眩しい光のカーテンが揺れ、金色に輝く大小さまざまな泡が昇っていく。
初めて見る光景に、自分の置かれている状況を忘れ、時間が止まったかのように柔らかな空を眺めていた。世界の彩度が消えていくように、水の色が鮮やかな青から黒へと近づく。
徐々に沈んでいく身体。
海の底へと沈む僕を優しい泡が包み込み、そして空へと戻っていく。
思い出が、記憶が、身体が泡となって海に溶け込む感覚。水の暖かさを感じながら、僕は抱きしめていた麦わら帽子を手放す。
力がすぅっと抜け、楽になった気持ちの中に不思議と怖さは無かったが、一つだけ後悔が残った。
――ごめん、涼香。僕が約束を守れそうにない。
力を抜いた腕が、空に未練を残しているかのように身体に遅れて沈む。
遠のく意識の中、ぼやける視界の先で泳ぐ人影を見た。その人影はこちらに手を伸ばしているのか、何か叫んでいるのか……もう僕には判断が付かない。
――そっか、あれは人魚だな。ああ、人魚を探していたっけ。どうして人魚なんか。
ぼんやりと霞む意識の端で、忘れていた今日の目的を思い出しながら笑いつつ、そっと意識を手放した。
暗い、暗い世界の果てへと僕は消える……。
再び意識を取り戻した時、目の前には岬のふもとの砂浜で、水に濡れて鈍い色へと変わった麦わら帽子を抱きしめながら、泣き続ける涼香の姿があった。うずくまるように背中を丸め、涙をこぼしている。
違う、これは僕が見たかった光景ではない。守りたかった表情ではない。
――涼香。笑ってよ、僕はここにいる……。
ふり絞った僕の声は、波音に消され水平線へと消えていった。
そうだった。これが七年前の記憶だ。
あのころに比べると、涼香は本当に大人っぽくなっている。あの日、最後に見た光景を思い出し僕は涼香に笑う。
――僕もあのとき、人魚を見たんだ。今ので思い出したよ。
「人魚……。あのとき、私の麦わら帽子を人魚が拾ってくれたんだよ。夏芽くんが、ここから海に落ちた後、どれくらい泣き続けていたっけ……。そうしたらさ、あそこの人がいなかった砂浜に帽子が置いてあって、もしかしたら夏芽くんもそこにいるかもって、走ったの」
僕の言葉を無視し、訥々と語りだす涼香。その表情、その声に僕は引き込まれていく。
「あの頃は走るのが遅くてさ、何度も転びながらやっとの思いで、砂浜までたどり着いて。洋服も手も泥まみれ、そんなの全然気にしていられる状況ではなかったけれどね」
力なく笑い、手すりを強く握るのが見える。僕は掛けるべき言葉を見失っていた。
「砂浜に着いたのは良いけど、辺りを見回しても夏芽くんは居なくて……。足元に置いてあって麦わら帽子を拾って、思いっきり抱きしめたの。必死に掴んでくれたこの帽子に、夏芽くんを感じられる気がして。でも抱きしめた瞬間、どうしようもなく涙が止まらなくなってさ……泣いて、叫んで。そうしたら波の向こう、あの岩の上に人が座ってたの」
ここからも見える大きな岩場。
砂浜から十メートル程にある、小さな岩だ。夏場は、あそこで泳いで休憩したりもしたことを思い出す。
そして、そこに……。
――人魚がいたのか。
「あれは人魚だったのかな。帽子を拾ってくれたのも、あの人魚だったのかな……」
一粒、一粒、雨のように降る涙は海へと消え、世界へと還っていく。
真っ赤な目をした涼香に自分の無力さを実感し、悔やみ、呪う。あの日、僕はその顔が見たくなくて海に飛び込んだのに、結局は何も掴めていなかったのだ。帽子も、笑顔も、未来も。
だから僕は涼香に伝えなくてはならない。この気持ちを、想いを、七年ぶりにこうやって再会出来たのだから。
――ねぇ、涼香。笑ってよ。大きくてぶかぶかだった麦わら帽子を、恥ずかしそうに大切そうに被っていたときのあの笑顔を、僕は見たいんだ。向日葵みたいに笑う涼香が……好きだったんだよ。だから、お願い。
「私はあの日、少しでも夏芽くんに大人っぽく見られたくて、買ってもらったばかりの大人用のぶかぶかな帽子を被っていたの。馬鹿だよね。背伸びしちゃてさ、すぐに大人になれるのに焦って。そんなんだからさ、夏芽くんが照れながら似合ってるって言ってくれて、私は嬉しかったんだよ。もう絶対、これは手放さないって、これが似合う綺麗な女性になるんだって浮かれていたの。そんな風に考えていたからかな、飛ばされた帽子を見た瞬間、大切な思い出が飛ばされたように感じて思わず手を」
涼香の口から漏れる言葉の一つ一つが心に降り積もる。
――涼香がそう思ってくれて嬉しいよ。でも、泣かないで。海に落ちた時は痛かったけどさ、僕も今はこうやって目の前にいるだろ。
「私は……わたしは! 夏芽くんが、居てくれるだけで……君が隣に居てくれるだけで良かったのに! あの困ったようなぎこちない笑顔も、強く握ってくれた暖かい手も、優しい言葉も全部ぜんぶ好きだった。だから私は、いつも君の隣を歩こうと必死だったのに……どうしていなくなっちゃったの」
――僕はここに。
自分自身を落ち着かせようと何度も深呼吸をし、何かに懺悔するように涼香は空を見上げて涙を堪えていた。いや、堪えているように見えた。
「駄目だな。何年もここに来てるのに、来るたびに想いが抑えきれなくなっちゃう。ねえ、夏芽くん。私、成長したんだよ。あの大きかった麦わら帽子も、こうやってしっかり被れるようになったの。それに走るのも得意になったし、さっきの見えたかな、石も遠くまで綺麗に投げられるようになって、背も高くなって……私、大人っぽくなれたかな。綺麗になれたかな。……少しでも夏芽くんに近付けたかな」
綺麗な放物線を描いた、涼香の投げた小さな石を思い出す。それだけではない、ぶかぶかだった帽子も、髪の長さも身長も……あの頃とは違う、確かに大人になっていた。目に見える様々な要素が、僕に時間の流れを突き付ける。
――涼香も頑張ってたんだな。本当に綺麗になったよ。
「この岬も柵が出来たり、この街から引っ越した人も、新しく出来たお店も沢山あったの。七年で環境も人も変わったけど、けどさ、私の気持ちだけはいつも変わってないつもり。あの日からずっと。夏芽くんがいなくなった日からずっと」
変わらないもの。変われないもの。変わることが出来ないもの。
少しずつ、自分自身と向き合い思い出す。目を背けいていた事実、逃げていた真実。そうだ、僕は変わることが出来ない。
僕は馬鹿だ。
「私、お花にも詳しくなったんだよ。いろんな種類を見分けられるようになったし、あの池に咲いていたスカビオサの花言葉も知った」
あの日聞かれた花言葉。「わからない」と、僕が最期に吐いた嘘を思い出す。
スカビオサの花言葉、それは。
――『不幸な恋』
「『私は全てを失った』」
悲しい花言葉が交差する。
「夏芽くんはわざと知らないふりをしたんだろうね。君は優しいから。あんな人魚を探すなんていう可笑しな話に付き合ってくれるくらいだもん。……夏芽くんの誕生パーティしたかったな」
徐々に落ち着いた表情を取り戻す涼香を眺めながら、ゆっくりと記憶と辿る。思い出すのは、あの日の朝の会話と最期の約束。涼香が再会の日付を何度も『今日』と言っていたっけ。
忘れっぽいのは涼香ではなかった。僕だ。
あの日は、僕の誕生日。きっと母さんたちはお祝いの計画をしてくれていたのだ。人魚を探すというのもただの口実で、準備をするまでの時間稼だったのか。
実際に確かめることも、ごめんねの一言も、今の僕にはもう出来ない。目の前に見えるはずの涼香との距離が遠い。
太陽が空高く昇り、眩しい日差しが海を輝かせていた。優しい色を放つ水飛沫。
霧が晴れるように七年間の記憶がぽつりぽつりと浮かび、僕は記憶の海へと溺れる。時間が巻き戻るように、記憶の中で立ち尽くす涼香の姿が七年前へ変化していく。
毎年ここに帰ってくるという約束。
毎年この場所で待っているという約束。
その約束を涼香は今でも――。
「ここに来ると毎年夏芽くんが私を見てくれるように思えて、後悔も想いも全部言っちゃうし、つい甘えちゃう。だから、そろそろ行かなくちゃ」
顔を上げ、水平線の先を見つめる赤くなった目を、僕は静かに見上げていた。
この空と海の交わる場所で、僕たちは再び出会う。決して言葉と影が交わらない歪な出会い。
でも僕にはそれで充分だった。繋いでくれたのは、あの日の約束と人魚の影。
「また来年。待っててね……私は幸せな未来を願うから。奇跡を掴み取るから」
柵から手を離し、ゆっくりと帰る後ろ姿を波に揺られながら見送った。
蝉が鳴き波は揺れ、太陽は輝く、心地良い世界の子守唄が包み込み、風が吹く。全てを水平線の彼方へと、一つへと導くように。
意識が遠くへ遠くへと……そして弾けた。
涼香の顔を見上げていた光景。波の音に揺られている身体。届かない声。
――ああ、海に沈んだ僕は人魚姫のように泡になっていたのか。
僕は、再び海に戻り静かに眠る。
最期に見えた景色は、涼香の足元に置かれていた花束から舞い上がった花びら。青に白、菫に黄色、夏らしい花吹雪はやっぱり少しだけしょっぱかった。
――ありがとう。涼香、僕は君の幸せを。
記憶の中にある涼香の笑顔を思い出しながら、僕の意識は波に攫われた。
泡となって消える人魚姫。
そんなものは空想上の中だけだと思っていた。
でも、僕はいま泡となって、意識も無くこの世界の果てのような海を漂う。空と海が交わる場所。絶対に交わらないはずのものが交わる奇跡。願い。
――泡沫の記憶。
――この記憶ももうすぐ消える。儚く散る。
僕は涼香の呪いになっていないだろうか。
ごめんね、約束を守れなくて。
世界は広い。びっくりするくらい大きくて、あっという間に変わっていってしまう。いま吹いている風も、流れる雲も、誰かの笑い声も、瞬きする間に過去へと変わり残されるのは冷たい喪失感。
――泡沫の記憶。
――海に消え、泡になった僕の記憶。
だから僕は願う。
そんな喪失感のない世界を。
変わることが寂しくないように、悲しくないように、変わることが出来ない僕の細やかな想いと呪い。
今日も空は澄み渡っていた。
涼香の笑顔が似合うほどの透き通った優しい青で。
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