抱え込んだ願い
必死に手繰り寄せた七年前の記憶。
世界中に広がる人魚の伝説。
人魚の肉を食べると、人は不老不死になるといわれている。
そして、叶わぬ恋の果てに最後は泡となって消えてしまう人魚姫の童話。
人間は最期、泡になることが出来ないのだろうか。
これらは現実か空想か。
泡になった人魚は生きているのか死んでいるのか。
「よし、人魚を探そうよ」
その一言で、小学校最後の夏休みのある一日が始まった。
アブラゼミの声が街中に響き渡る夏の午前中。
お盆が始まり、お墓参りに向かう人々が僕の家のお店によって仏花を買っていく姿を朝から、眺めている。今年も色々な人が来て、他愛のない会話をし、花を買う。それは一体誰の為の花だろうか。きっと大切な誰かの為だろうとは思う。いや、そうあって欲しいというただの願望。
僕はその光景を見ているのが好きだ。だって、この時期のお客さんの表情が、普段お店に来るお客さんより優しく見えるから。そして、お盆中は休むことなく働く両親の姿を見ているのも、二人が誰かの想いの為に働いているように見えて僕も嬉しくなる。
お盆において僕の唯一の仕事であるお墓参りは、両親と一緒にお店が始まる前の早朝に済ませてきた。だから、今日はもうするべきことが無い。僕の仕事は終わったのだ。
そんなことで、手持ち無沙汰になった僕は、徐々に暑くなる空気から逃げるようにアイスを食べながら、レジ裏にある二階へと続く階段で休憩をしていた。倉庫になっている二階は少し暗く、華々しい一階とはまるで別世界だ。少し高めに設置されている窓から差し込む日光の中、ゆらゆらと埃が舞っていた。
溶けそうになっているソーダ味のアイスを食べることに悪戦苦闘していると、お店の入り口から声が聞こえてきた。
「こんにちは。おばさん、こっちになっちゃん来てるかな。家の方に行っても誰も居なくて」
「あら、すずちゃん。いらっしゃい。あの子なら、ほら、そこの階段のところだよ」
この声は、涼香だ。また「なっちゃん」なんて言ってるよ、前にも怒ったんだけど。仕方がないか、今は目の前のアイスを食べ終えることに集中する。
「それにしても、すずちゃんは今日も可愛いわね。早くうちの娘にならない」
「そんな、まだ早いですよ。というより、なっちゃんに嫌がられそうかな」
「あの子なら大丈夫よ。なんだかんだ言ってすずちゃんのことが大好きだし、大切にしてるからね」
また勝手なことを話して……。どんな顔をして会えばいいのか分からなったじゃないか。
最後のひとかけになったアイスを頬張った顔が熱い。
「そんなこと……嬉しいけど、恥ずかしいですよ」
という声と共に徐々に近づく足音。何か大変なことが起こる前のカウントダウンが聞こえてくるようだ。
……3、2、1
「おはよう、夏芽くん。遊ぼう」
背後の薄暗い倉庫とは正反対の、透き通るような明るい笑顔が眩しい。
「お、おはよう。今日も元気だな」
「いやいや、夏芽くんが暑さに弱いだけだよ。ほら、遊びに行こう。あっ、おばさん。今日はよろしくね!」
「暑さに弱いのが分かっているなら、家の中で……って、待ってよ」
言いたいことだけ言って、外へと走ってしまう。文句を言いながらも、その後ろ姿を追いかけようと立ち上がるあたり、僕はやっぱり涼香には甘いのだろう。
「何て言うか、今は暑いというより、熱いんだけどな」
少しだけ愚痴を言いながら、「いってきます」と母さんに伝えて店を出る。店の扉を開けようとしたとき、「夏芽」と呼び止められた。
「この時期、海には行かないでね。それと、ちゃんと褒めてあげないと駄目だからね。いってらっしゃい、気を付けてね」
「分かってる」と、手を振りながら歩き出す。褒めるって、たぶんあれの事だろうな。まあ、いい、今は道路の向こうで手を振る涼香のもとへ走ろう。
陽炎の向こうに揺れる涼香。
ああ、今日は暑い。海に飛び込んでしまいたいくらいに。
ふと手に持っていたアイスの棒に目を落とすと、そこにはアタリの文字が浮かんでいた。
アゲハ蝶が一匹、僕の周りを飛び回った後にアイスの棒にとまる。
帰ってきたらもう一本交換してもらおう。
「よし、人魚を探そうよ」
道路を挟んだ店の向かい側、僕の家の前に立っていた涼香は僕が追い付くや否や、そう提案してきた。
今日は一日暇なので、人魚探しくらい付き合ってもいいかなと思う。それに、ちょっと冒険みたいで面白そうだし。そんな、少し浮ついた気持ちを隠しながら疑問をぶつける。
「別にいいけど、突然どうしたのさ。人魚って……この辺になにかあるの?」
「なにもないけど、昨日ね、久しぶりに人魚姫を読んだんだ。あの、最後に泡になっちゃう話。そうしたらさ、人魚に会ってみたくなって……探せばその辺に泳いでないかな、なんて」
右手の人差し指をクルクル回しながら、ははは、と目を逸らし照れ笑いを浮かべる。この指をクルクル回すのは、必死に何かを考えながら言おうとしている時の癖だった。
「そっか、なんか面白そうだな。泳いでるの見てみたいし探してみようか。どこから行きたい?」
僕は涼香を落ち着かせるために、少し強引に話を進める。
少しだけ考えた後、涼香が口を開く。
「よし、まずは森の大きな池に行こうよ。その次は池の近くの川でしょ。そして海に行って、最後にあの高台。こんな感じ」
「分かったよ、行こう。よし、人魚見つけるぞ」
「おー」
森の池の近くには川があり、それが海へと続いているので順番としては良い気がする。ただ、海には行くなって言われているのが問題だ。
しかし、そんな問題は歩きながらでも解決できるので、僕は家に向かって右手側、西にある森へと歩を進める。僕の気の抜けた声に、「おー」と返してくれたのが、なんか、ちょっと嬉しかった。
少し歩みを進めると向かい側から、この近所では見かけない女性が歩いてくるのが見えた。大学生だろうか、とても綺麗な人。右、左と辺りを見回して不安そうな様子。
彼女は僕らを見かけると立ち止まり、じっとこちらを見ている。その目には、悲しさと驚きとが混ざったような色が含まれていた。彼女もまた、どこか遠い場所からお墓参りに来た人なのかもしれない。
「ねえ、君たち。この辺りのお花屋さんって知ってるかな」
「花屋ですか。それならすぐそこですよ」
「そうそう、夏芽くんのお家はお花屋さんなの。お姉さんもお墓参り?」
「うーん、ちょっと違うかな。ただ、お花が欲しくなっただけなの」
このまま道なりに進めば、すぐに着くことを伝えた。
別れ際に、彼女が僕の頭に手を置き「ありがとう、夏芽くん」と囁き、「そうだ、二人ともお盆は、海に行っちゃ駄目だからね」と、言いながら走り去っていった。
不思議な人だなと、小さくなる後ろ姿に見惚れていると、不機嫌そうな表情の涼香に手を引っ張られ、再び歩き出した。
炎天下の中、太陽からの光とアスファルトの照り返しから逃げるように森の中へと入っていく。
森の中へ一歩踏み込んだだけで、別の世界に入り込んだかのような感覚に陥る。柔らかな風が、木の匂いや土の匂いを運んでくる。
これが命の匂いなのだろうか。
「やっぱり森の中は涼しいね。私の選択は間違って無かったね」
柔らかな木漏れ日の中、得意げに話す涼香に、笑みがこぼれた。
ここに来る途中に、海には行かない事だけは伝えた。海に行くのと、それがバレて怒られるのを天秤にかけた結果、渋々だが納得してもらえたようだ。涼香も怒ったときの母さんがどれだけ怖いか知っているからだ。良かった、これで一安心。
ここで、あと一つ、池に着く前に伝えなくちゃいけないことを思い出す。言わなくても良い気がするんだけれども……。「ねえ」と何度呼びかけようとしても声が出ない。喉の奥にその言葉が詰まりすぎて今にも破裂してしまいそうだ。言葉が外に出たくないと必死に抵抗している。
意を決して、無理やりにでも声を体から押し出す。
「ねえ、その麦わら帽子似合ってるね」
こんな言葉すら、素直に言えない自分が恥ずかしい。
「あ、ありがと。そんな風に言ってもらえるなんて……。嬉しいな」
その麦わら帽子は、今の涼香には少し大きい気もするけれど大人になったらきっとぴったりになるんだろうな。
「この帽子、自分で選んだんだよ。はじめて褒められたから、これはずっと大切にしないと」
くるりとステップを踏むように一回転する。帽子をとり、胸の前で大切そうに抱える姿を見ていると、自分まで幸せな気持ちになった。僕はこの瞬間を、この表情をずっと見ていたいと思う。
時を止められないのなら、せめて何があっても、この表情は守り続けたいと。
そんな風に考えながら歩を進めていると、視界が開け、目的地の池が目に飛び込んできた。いつの間にか、到着していたらしい。
学校の教室程の大きさもある池で、僕の眼にはとても広く、何かが居そうな未知の世界にも見えた。水面は森の色を取り込んで緑に輝き、池の周りには薄い赤紫や、菫色、白い花々が咲き誇っていた。
早速、ふたりで池の中を覗いたり、周囲を歩いたりしてみるが、
「なんだろうな、こう、キュウリとか相撲が似合いそうな場所じゃないか?」
雰囲気が全然違ったのだった。ここまで来て思ったが、個人的には人魚は海にいるような気がする。
やっぱり池というか、淡水は人魚じゃなくて奴だよな。
「うん、人魚というより河童だね。ここは、尾ひれよりも水かきが似合うよ」
どうやら、涼香も同じことを思っていたらしい。
「河童だよな。もしくは半魚人」
「そうだよね、石でも投げたら出てくるかな?」
と、ふたりで笑いながら池に小石を投げ込む。涼香の投げた小石は、力み過ぎたのか上手く飛ばず、僕らのすぐそばで大きな音を立てて水中へと消えていく。小さく跳ねた水飛沫が、火照った体を冷やしてくれた気がした。
「河童もでないね。いま投げた石でお皿とか割れちゃったりしたりして。んー、大丈夫かな」
「大丈夫じゃないか、きっと。あの皿、頑丈そうだから。それに、見たいのは人魚だし、今回は河童を見れなくても別に良いかな」
「まあ、河童だもんね。じゃあ次に行こうよ、ほら、次は海だよ!」
こんな風に僕たちは、さんざん河童に対して失礼なことを言いながら川を下り海の近くの高台を目指すことにした。
川に向かって歩き出すと池の方から、ぽちゃんと水の跳ねるような音が聞こえた。
魚が跳ねた音だろうか。人魚が顔を出した音なのだろうか。
しかし、なぜか僕は金の斧の話を思い出していた。
もしかしたら、金の小石を持ったヘルメスが出てきていたのかもしれない。
『貴方の投げた小石は、この金の小石ですか。それとも、銀の小石ですか』と。
「そういえば、あの池の周りはきれいだったよね。あそこで咲いてた花って、どんな花か分かる?」
川沿いを離れ高台へと向かう上り坂の途中、そんなことを聞かれた。
いくら家が花屋だとしても分かるものと分からないものはある。どうしようか、たぶん数種類くらいなら思い出せるはずだ。
適当には答えたくなくて、さっき見た光景を出来る限り思い返してみる。
「確か、白とかピンクのやつがニチニチソウで、青っぽいのが桔梗かな。紫のはスカビオサだったけ。エーデルワイスっぽいのもあったような」
思い出した中で、自分の知っている花を挙げる。すると、涼香は驚いたような顔をしながらも、終始頷きながら楽しそうに聞いている。
「さすが、詳しい」
思ったよりも驚いてくれていたらしい。珍しくこんな知識が役に立って嬉しい。
「そんなに種類があったんだ。やっぱりいろんな花が咲いてるときれいだよね」
店で花を見ているのは好きで、母さんが接客するときの会話なんかも良く聞いている。種類は多いけれど、有名な花や気になった花は意外と覚えられるものだ。
「あっ」と、間の抜けた声を出し涼香は僕をのぞき込んだ。
「ねえねえ、ニチニチソウの花言葉って『楽しい思い出』だったよね。今にぴったり」
「へー、そういうのは知ってるんだな。エーデルワイスは、『大切な思い出』だったっけ」
「『大切な思い出』か……。んー、似てる花言葉って多いのかな」
そういって少し考え込む涼香。
僕としては、「楽しい」と「大切な」は少し違うと思う。楽しくても、悲しくても、辛くても大切なものってあるから、大切でも全部が楽しいってわけではない。だけれども、今日の思い出は楽しくて大切なものになって欲しい。
いつか今日の事を思い返して「楽しかったね」と言える日がくるのかな。そんな事が言えるようになるのは大人になってからだろうし、今ではまだ楽しい思い出の一つに過ぎないのかもしれない。
ただ、こんな小さなことでも、大切だと思えたら幸せだろうな。
そんな風に考えながら歩いていると、同じように前を歩きながら何かを考えていた涼香がこちらに振り返りながら、話しかけてきた。
「桔梗とか、スカ……スカビ……なんだっけ。えっと、その花とかの花言葉は知ってる?」
なるほど、考えていたのはそのことか。
「スカビオサだよ」
んー、あまり言いたくはない。なんか恥ずかしいし、嫌だからな。
どうやって伝えるか。
「桔梗は、『誠実』とか『永遠の愛』とかだね。スカビオサは……知らないな」
結局、言ってしまった。なんだよ、『永遠の愛』って。少し顔が熱くなったから僕は、涼香の前を歩くように足を速めた。
スカビオサは知らないことにしよう。
それでいい。
「なんか、一番似合わないっていうか、大人っぽい花言葉だね。それに、なんか難しいよ『誠実』とか『永遠』なんて」
難しい……か。確かにそうかもしれない。
答えが分からない、終わりの分からない、そんな難しい話。
しかし、森の終わりは見えてくる。微かに潮風の香りがし、差し込んでくる眩しい光に反射的に目を細めた。
僕は、思わず走り出す。後ろを追いかけてくる涼香の足音のリズムが心地良かった。
永遠のように感じるこの瞬間。
大切な時間は、いつの間にか両腕で抱えきれないほど増えてしまう。
僕は振り返り涼香の手を取ると、いつか腕から零れ落ちて泡のように消えてしまうであろうこの記憶を、脳裏に焼き付けるようにひたすら走った。
僕は何があってもこの手だけは掴み損ねることの無いようにしようと、目の前を横切ったアゲハ蝶に静かに誓った。
片手で麦わら帽子を抑えながら一緒に走る涼香の姿を見ていると、どこか御伽噺に迷い込んだような感覚になる。
それがヘンゼルとグレーテルなのか金の斧なのか、それとも……人魚姫なのか。
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