約束の再会

 子供の頃の記憶というのは、時間がたつと儚く消えてしまいそうになる。どこか曖昧になり、その時に起きなかったような出来事を思い出の中に入れてしまうことも。

 泡のように儚く消えてしまう記憶。思い出。




 ――泡沫の記憶。

 ――この記憶もいつか消えてしまうのだろうか。




 この街には人が近寄らなくなった場所がある。街から続く長い坂道を上り、小さな森を抜けた先に現れる高台だ。そこからの景色は何も遮るものが無く、目の前には真っ青な海と空が広がって見える僕のお気に入り。空と海が交わり、どこまでも遠く、水平線の向こうまで見えてしまいそうである。世界の果てのようで、嫌なことはここから何でも捨てることが出来そうな場所。とても綺麗な場所。

 でも、ここには人が来ない。……いや、来なくなった。

 ――いつからかな、いつからだっけ。

 そんな寂しく感じてしまう高台の上に人影が見える。女性のようだ。大きな麦わら帽子を風に飛ばされないように手で押さえたその姿は、どこかで見たことのある、懐かしい光景だった。




 午前中の涼しい風が、髪を、草を、僕を揺らしながら通り過ぎていく。アブラゼミの鳴き声、草木の匂い、夏の暑さを纏ったこの風は、何年も前に僕が出会っている風かもしれないし、何年も先へと続いていく風かもしれない。

 どこから来て、どこへ行くのだろうか。どこへでもいいけれど、風が終わる場所へ行ってみたいような気分になる。だって、留まることなく流れ続け、ちゃんとした居場所がないっていうのは、少しだけ僕に似ているから。

 憧れに似た感情。

 吹き抜ける風は海から来るせいか、ちょっとだけしょっぱくて、しっとりと肌にくっつく。そんな潮風に吹かれてなびく長い髪が、夏の日差しを受けて柔らかく輝いていた。その輝きは足元の草花よりも、目の前の海よりも綺麗で、さらさらと揺れる姿はこの湿った風に似合わず、目を奪われてしまう。

 崖にあたる波の音が、物思いに耽る僕を現実に呼び戻す。こんなに海は穏やかに見えるのに、波の音はやけに大きく、荒れているように聞こえるのはなぜだろうか。

 視線を元に戻すと、彼女は高台にある木柵から海と空の景色を見ているのではなく、崖の下を見ている。

 何か珍しい魚でもいるのかな。それとも、何か落としたのか。

 そんな無駄なことを考えている間も時間は流れている。崖の上から海を覗く姿は、少しでも触れると落ちてしまいそうなほど儚げで、今にも飛び込んでしまいそうな、そんな危うい雰囲気が漂っていた。このまま海の中に吸い込まれてしまわないか心配で、僕は揺られるように彼女へと近づく。

 徐々に縮まる僕と彼女の距離。驚かせないように声を掛けられたらいいな。声を掛けることができたら……。

 大丈夫かな、飛び込まないよね。

 そんな僕の心配をよそに彼女は未だに海を見ていた。海の中、奥深くを。








「久しぶりだね、夏芽くん」

 彼女は僕の方を見ながらそう言った。僕の名前が呼ばれた。

 こんな人の来ない場所で、更には、今にも飛び込んでしまいそうだった人の口からいきなり自分の名前が出るとは思わなかった。突然のことで頭が真っ白になる。なんというか、提出したはずの宿題が鞄の中から出てきたような、先生から身に覚えのない呼び出しを食らったような感じに似ている。そう思うと、なんだか懐かしくなるけれど……。

 誰だろう……、とても聞き馴染んだ声であるのは確かだ。鈴のような柔らかく優しい音が風に乗って耳に届く。

「そういえば、なっちゃん。なんて呼んで怒られたこともあったよね」

 その言葉に頭を揺さぶられたような衝撃を受けた。なっちゃん……その呼び方をした人は、ひとりだけ心当たりがあった。僕の幼馴染だけだ。そう言われてみれば、麦わら帽子の影から見える彼女の大きな目や、名前を呼ぶ声の雰囲気などがあの子と一緒のような気がする。

 ――もしかして、涼香? 涼香だよね。久しぶり。大人っぽくなっていて、全然気づかなかったよ。その……驚いた。

 記憶の中にいる涼香はもっと幼く、その頃はいつも一緒にこの辺りで遊んでいた彼女が、こんなにも綺麗になっているなんて思わなかった。肩にかかるまでしかなかった髪も、今では伸びて胸元辺りまで伸びているのではないか。子供の頃に、「すずちゃん」なんて呼んでいたころが懐かしい。

「あの頃が懐かしいね。昔と比べると少しは成長したから、外見だけでは私だって気付いてもらえないんじゃないかな。その……きれいになったね、とか言って欲しかったけれど……言ってはくれないよね」

 そう言うと、涼香は少しだけ悲しそうな顔をしながら、

「そもそも私にはそんな事を言ってもらう資格すらないのに、何言ってるんだろう」

 と、小さく呟いた。

 その言葉がやけに大きく聞こえ耳に残り、寂しそうな声が意味のない音となって体の中で反響し続けた。自分が球体になったような感覚。

 どうしてそんなことを言うのかが分からない。

 潮風でべたつく体に言葉が纏わりついて離れない。

 頭に言葉の意味が入ってこなかった。

 僕は涼香に笑っていて欲しいのに、そんなことを言わないで。そんな顔をしないでよ。どうしてもその表情だけは見ていたくないんだ。記憶のどこかで泣いている涼香の顔を思い出してしまうから。だから伝えないと、綺麗に笑ってもらうために。

 ――きれいになったと思うよ、だからほら、資格が無いなんて言わないで。その……いまさら言うと嘘っぽく聞こえるけどさ。僕は笑った顔を見たいな。今も昔も笑っている涼香が一番きれいだし、好きだから。

 言いたいことが上手く言えない。伝えたいことは沢山あるのに口に出そうとした途端、一つ一つの言葉が泡のように弾けて消えてしまう。弾けた言葉は、また体の中から泡のように浮き上がり、声と共に消えていく。

 いつもその繰り返しだ。肝心な時に何も言えない。

 時間が経ち、涼香はあんなにも大人っぽくなったのに、僕はまだ成長できていないみたいだ。あの頃のまま、壊れた時計の様に時が止まっている。その時計を直す方法は僕には分からない。

「こんな顔してたら駄目だよね、怒られちゃう。うん、もっと笑顔で」

 少しだけ柔らかくなった表情には、悲しさは消えていた。その代わりに、昔のようなあどけなさを少し残した表情で僕を見ていた。その顔を見ているだけで、なんだか昔に戻ったかのような気持ちになる。そういえば最後に二人で遊んだのは何年前だったかな。

 ――その表情が一番似合ってるよ。きれいっていうよりかわいいっていう感じだけど。

 また恥ずかしいことを言ってしまったなと反省しながらも、涼香に最後に遊んだのはいつだったか聞いてみることにした。

 ――ねえ、最後に二人で遊んだのっていつだっけ。憶えてる? どうも、何年前なのかが思い出せなくて。

 これだけ成長してるのだから結構な月日は経っているのだろう。確か、小学校に通っていた頃のはずなんだけれどな。思い出すために記憶の断片を掴もうと手を伸ばすが、空気のように形が見えず、砂のように掌から流れ落ち、泡のように消えていく。頭に靄がかかったみたいで気持ちが悪い。

 そんな風に遠くの記憶を得ようと僕が悩んでいると、涼香は何か思い出したかのように顔をあげ、口を開けた。

「もう七年も前だよ、私たちが最後に遊んだ夏休みは。こうやって振り返るとあっという間だったね、本当。あの頃から比べると生活する環境も変わったりさ、この街も色々変わった気がするよ。……うん、昔と全然違う」

 七年も経ったのか。それなら、変わっているのかな。でも、僕の実感としてはそんなに変化していないような気もする。どうやって言葉を返していいのか迷ってしまう。

 ――難しいな、そんなに変わったのかな。

「世界ってびっくりするほど大きく、でもゆっくりと変化しているんだよ。その流れの中にいると気が付きにくいけれどね。上手いことは言えないけれど、世界が大きな時計で、私たちは小さな歯車って感じかな」

 そう言って少し恥ずかしそうに笑いながら、足元にある小石を拾い海へと投げた。涼香の手から離れた小石は、綺麗な放物線を描きながら青い海へと音を立てて消える。小さな水飛沫と共に大小様々な泡が浮かび上がり、波に流されていた。ゆらゆらと、静かに漂い最後には消えていく。

 そんな泡沫の存在。

 あの泡は、自分が流されていることに気づくことは無いのだろう。僕は、それが遠く水平線の向こうへと消えてしまうまで、大きく揺れる水面を眺めていた。

 少しだけ涼香の言葉の意味が見えた気がする。でも……。

 ――やっぱり難しい。

「私にとって変わらないものは、ここからの景色と夏芽君の家のお店くらいだよ。ここに来る前にお店へ行っておばさんと会ってきたけど、相も変わらず優しくしてくれて泣いちゃいそうになってさ。涙が流れるのを我慢してたら、買い物を忘れるところだったんだけど、恥ずかしいから笑わないでね」

 まあ、母さんはいつも涼香を娘の様に可愛がってたからな。「目に入れても痛くないよ」なんて、目薬も上手く点せないのに口癖の様に言うのには呆れてた。二人の仲が良いのは僕としては嬉しいけれど。でもこんな恥ずかしいことは頼まれても絶対に直接言えないから、ここだけの話だ。

 僕も涼香のお母さんに会いに行きたいなと思った矢先、一陣の風が僕らの間を吹き抜けた。




 突然吹き付けた風に、体が揺さぶられ思考が止まってしまう。何も考えられず、世界が無音になったかのようだ。そのくせ、僕の耳には涼香が草を踏む足音と息遣いのみが大きく聞こえる。震えるような息遣いで、涼香が必死に言葉を紡ぎだそうとしているのが分かった。

 何を言おうとしているのだろう。分からない。

 水の中のように音が聞こえない。息が出来ない。

「……七年前もこんな風だったよね。また、あの時の話をしてもいいかな。一緒に遊んだ最後の夏休みの話、二人で一緒に人魚を探したあの日のこと」

 そして一息つき、そのまま言葉を続けた。

「あの日、私は人魚を見つけた気がするんだ」

 静寂の中、アブラゼミの声がやけにうるさく聞こえてくる。

 それから徐々に、空気が体を包むように耳に音が届いてきた。

 人魚か。

 人魚。そういえば、あの日もこんなに晴れた日だったっけ。

 少しずつ思い出してきた。

 ――そうだね、涼香が良いなら人魚を探した時の話をしようか。




 あの時も今も僕の願いは一つ。

 涼香に笑っていて欲しいってことだけだ。

 世界中の何もかもが変わっても、これだけは変わらない。




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