三途の扉

元真ヒサキ

その名に意味はない

 その夜、彼らは一年ぶりに星をみた。


 **


 地上が謎の有害物質によって汚染され、地下での生活を余儀なくされた世界。感染症の影響で地上の動植物は異形へと変化した。現存する人間は、汚染前に比べ三分の一にまで減った。

 もうこの世界も終わりだ。

 そう言った誰かは、三ヶ月前地上へ飛び出したまま帰って来なかった。希望の無い世界で残った人間は日に日に衰え数を減らしていく。有害物質の正体は不明だ。ただある日突然道を歩くサラリーマンが、小学生が、老人が、次々と倒れ息絶えた。現象を理解するまでに大分時を費やした。その間にも人は命を落としていった。空気感染と解ってから地下へ逃げるまでにも人は命を落としていった。

 もうこの世界も終わりだ。

 そう言った誰かは、三ヶ月前地上へ飛び出した。開けられることのなかった扉を開いて。空気は地下へと流れ込む。

 もうこの世界も終わりだ。

 それは地上のことだったのか。それとも地下のことだったのか。そう言った誰かは、帰って来ていない。


 **


「この状況で子孫を残そうとするのは当たり前だろう。数が多ければ多いほど絶滅の危機は逃れるのだから」

 若布わかめは地下空間の中で最も高い塔から下を見下ろした。

 人間たちは己の存在意義を確かめる様に、まだ有ることを証明するかの様に他者を求めた。それを否定する事はない。生命の本能であり、在るべき姿なのだから。しかし若布はそれを肯定もしなかった。

「だが、それは即ち諦めたという事だろう。己が絶命すると判断したのだろう。だと言うのに……俺はそこが理解できんな」

 すぐ上を見れば固く閉ざされた扉が一つ。三ヶ月前誰かが飛び出したきり開けられることのなくなった扉。人間はそれを地獄への入り口だとか三途の川ならぬ三途の扉とかわけのわからないことを言った。そもそも人間はこの扉から地下へ降りてきたのだ。寧ろ人間の特性上神と崇めるべきものではないのか。

 地上が汚染された時点で神もなにもないのだが。

 若布は塔から降りると地下を歩いた。地下へ住む様になってからは、地下の都市化が始まった。誰しも地上と同じ生活を望んでいたのだ。地下の巨大な空間を更に切り開いて簡易的な建物を造りできるだけ地上に近づけた。元々この地下はシェルターの役割をしていたという噂を耳にした事があるが、真偽はわからなかった。人間はどんどん下を掘り進める。地上から離れる為に。下が増えればまた扉を作り空気感染を防ごうとした。若布が居るの所が地下1階と呼ぶならば、恐らく地下3階まではあるだろう。地下2階への扉は完全に封鎖された為確認する事は出来ないのだが。

 彼は地下2階へ行く権利があった。それを断り残ったのはその扉を越えてはもう地上に行く事は出来ないと知っていたから。

 さて、若布は“街”を歩いて暫く、一軒の建物に入っていく。簡易アパートの様な建物の二階が彼の住居だ。どれも似たような造りの建物が若布にとって監獄に見えた。中は六畳一間で、布団が二枚敷いてある。そのうちの一枚はこんもりと膨らんでいて中に何かいることがわかる。若布は毛布を剥ぐとその中の主に声をかける。

「これ、馬鹿者。また泣いているのか」

 声をかけられた主は、伸びきった燻んだ髪の隙間から若布を覗き見る。その眼には僅かに嫌悪がみられた。

「……悪いか。お前ほど能天気じゃないんでな」

「誰が能天気だ。それを言うなら、解決策も見出さずめそめそしているお前の方が能天気じゃないのか。なあ、武大ぶだいよ」

 武大と呼ばれた男は腫れた目を手で覆いながら起き上がる。それから何かもそもそと言ったが若布には聞こえなかった。

「地下は変わらず汚染が進んでいる。このまま人口が減れば本当に救いはないぞ」

「増えても救われないくせに。どうせ死ぬならゆっくり死にたい」

 諦めた様に吐き捨てた武大に若布の目の色が変わった。剥ぎ取った布団を投げ捨てると武大の胸ぐらを掴んで無理矢理立たせる。

「馬鹿者。お前がそんな事を言ったら本当に死にゆくだけだぞ。お前がいなきゃ始まらんだろう」

「苦しいんだ。息が詰まる。……もう嫌なんだ」

 そう言いながら武大は涙を流す。有害物質は空気感染する。地上で呼吸をしていたモノは一つ残らず感染している。発症が早いか遅いかは個人差があるらしい。武大の体は蝕まれていた。既に器官の幾つかをやられているらしく、息をするにも体力がいる。それに対し若布はまだ発症していない。元の健康体のままだ。

「武大よ。お前の気持ちは分かるが、こんな所にいて何になる。外へ行こう。時間がない。お前の力が必要なんだ」

「断る。若布に俺は必要ない。行きたきゃ一人で行け」

 若布の手を跳ね除けると、落ちた毛布を拾って再び声を殺して泣き始めた。今日はもう駄目だろうと若布も諦める。こうなっては武大は話も聞かなくなるのだ。

 震える武大を放置して若布はまた家を出た。地下での生活は時間の概念を忘れさせる。


 **


 地上と地下を繋ぐ唯一の扉はもうじきコンクリートで完全に封鎖される予定だ。そうなってはもうどうしようもない。その前に若布はどうしても地上へ行きたかった。

 この地下で一番高いところは扉の真下。地上から降りる梯子を掛ける為だけに建てられた塔。それでも扉まで五メートルはあるだろう。若布は地下へ降りてから毎日、この塔のてっぺんに正の字を書いた。ここに来てどれだけ経ったかを忘れない為に。太陽も月も無い地下世界は時間の概念を忘れさせる。余計にヒトは不安になるだろう。なんて不便な世界だ。カレンダーも時計も用意する前に地上は崩壊してしまったのだ。

 その日71個目の正の字が完成した。固く閉ざされた扉を見上げて小さく息を吐く。地下にいる人間で、扉に近付こうとする者はまずいない。ここはいつだって若布の特等席だ。目を閉じれば、見えない筈の空が浮かぶ。今は夜だ。月は見えないから、恐らく雨なのだ。そんな想像をしながら一日の終わりを一人呟く。今日が終わりだ。目を開けながら扉に向かって手を伸ばす。この手が届けば、俺は外へ行けるのだ。一人で行っても意味が無い。武大が、彼が居なければ意味が無い。若布の想いは彼には届かない。それは丁度この扉に届かぬ歯痒さの様に。

「武大とあの扉は同じだなあ」

 人間は今日も変わらず本能に従っている。


 **


 若布が強硬手段に出ようと決めたのはあの夜から九日目のことだ。どれだけ説得しても武大は聞く耳を持たなかったので、布団ごと担いで塔まで来た。最初は逃げようと踠いていた武大は途中から息苦しさに静かになった。恐らく空気の問題だろう。しかし若布は足を止めなかった。

 梯子をやっとの思いで登ると、ついに武大は布団を捨てた。

「お前、俺を、殺す気か。なんの……怨みが、ある、と……」

 息も絶え絶えな武大を内心可哀想と思いながら、それでも若布は彼をあの安い監獄に帰そうとはしない。

「武大よ、本当の家に帰ろうではないか。そうすれば助かる。途中少し辛いが、お前ならやれるさ」

「簡単に、言ってくれるな、本当。お前の……その頑固なところが、俺は嫌いだ!」

「そうさな、そうさな。俺は頑固だ。嫌がるお前を無理矢理連れて来ようとしたのも俺だ。わかっている。だが武大よ。お前は気づいているか。あの有害物質の正体を。何故急に現れ人々を蝕んだか」

「知る、か。興味なかった。関係ない、と思ってた」

 過去形で話す武大を指摘しない。そう。指摘する事は何もないのだ。武大は本当にこの有害物質について興味がなかったし、己には関係ないと思っていた。そうしていたらその体は蝕まれた。言葉も満足に吐けない体になってしまった。武大の命は、このままではそう長くない。

「俺は知っているぞ。有害物質の正体。故に感染しない」

「……なに?」

 奇怪なものを見る目で若布を見る。生き残った生命の中で、その正体を突き止めた者はいなかったのだから。

 先を求める視線を汲んで言葉は続けられる。

「それはな、武大。謎だと言われていた有害物質はこの星そのものなのだよ」

 若布は優しい声で告げる。全てを包み込む温もりこえはこの冷たい地下空間の空気を変えた。

「ある日突然体が朽ちる。俺たちには良くある事だろう。その内情がどうかなどこじつけに過ぎない」

 若布は言う。この星は今落ちているのだと。若布の言うことは難しく武大は考えるのも面倒くさくなった。それよりも今、彼は息苦しいのだ。早く助かりたい。それだけを願って。

「星は落ちるとき、摩擦によって擦り減っていく。その際地上に付着し積み重なった汚れが人体やら動植物を蝕むのだろう。簡単なことだ。この星は今、そうだな、言うなれば流れ星だ。誰も地上に出ないから気づいていないのだ」

「でも、それなら……お前がその影響を受けない、理由は?」

「何億と過ぎ行く時の中で己の存在すらも忘れたか。この星が今、落ちる様に」

 深い闇が若布の瞳に潜む。その中に浮かぶ一粒の光は、武大の姿。

「俺たちもまた、落ちた星ではないか」

 刹那。地上と地下を繋ぐ唯一の扉が開かれる。正しくは外側から強い力で引き剥がされる。武大はそれを、つい先日若布に引き剥がされた毛布だと思った。己を守る盾は、こんなにもあっさりと破られてしまうのか。

 人々は放たれた扉に絶叫。我先に屋内へ行こうと入り乱れ僅かにあった筈の秩序は崩壊した。

 塔の上に立つ若布は両手を広げ、天を仰ぐ。ぽっかりと空いた穴は満点の星空を映しながら流れていく。

 若布の体が風に煽られふわりと浮かんだ。それを無意識に武大は追った。二人の体は穴を抜け、一年ぶりの地上へ出る。地表はもう見る影もない。固められた地下を残す様に削れた星に美しかったあの姿はもうない。

 この世界ももう終わりだ。

 そう言った誰かは、三ヶ月前地上へ飛び出した。その誰かもこの景色を見たのだろうか。この星の終わりを知っていたのだろうか。

 やがて圧力がかかり内部から崩壊する。二人は砕けゆく星を上から眺めていた。

「終わりは来るものだ。どんな理由にせよ」

 宇宙に浮かぶ二人を迎える様に星は瞬く。時間というにはあまりにも膨大な空間で、それでも確かに彼らはいた。

「なあ、武大よ。お前がどうして、苦しんだかわかるか。それはな、お前があの星と同化していたからだ」

「……落ちたお前を追って、俺はあの星にたどり着いた。お前は途中で燃え尽きたが、俺は残っていたんだな」

「その衝撃であの星は動いた。終わりはいつだって理不尽に来るものだよ」


 彦星と織姫に会いたい。そう言った若布は軌道を外れ青い星に落ちていった。その体は大気圏へ届く前に燃え尽きてしまったが武大はそれに気づかなかった。後を追いたどり着いたはいいが武大もまた、体の大部分を燃やし尽くしていた。着地の余裕もなく墜落した彼は、隕石と呼ばれるものとなった。その時から、青い星の一部となった。衝突の影響で青い星は動き出す。ゆっくりと、ゆっくりと。その表面を削りながら。落ちた若布の様に。青い星は美しかった。しかしその内部には美しさを保つ為に犠牲となった“汚れ”が確かに存在した。

 原因は武大だ。しかし結果は身から出た錆。青い星はもう見えない。終わりはいつだって理不尽なのだ。

「一年経った。あれから一年だ。見ろ、武大よ。天の川だ」

 若布が指差した先には無数の恒星。彦星と織姫を引き裂いた天の川。若布はこれが見たくて、その身を落とした。

「ああ、綺麗だな。見たかったんだ、お前と。ずっと見たかった」

 慈しむように細められた目は深い闇ではない。星々が埋め込まれた眼は満足そうに微笑んだ。

「宇宙は時の流れが異なる。あの星にいて忘れかけていた。遠くに見えるあの星は、もう死んでいるのだろう」

 武大はようやく、若布を見た。若布ももう、朽ちた星だ。目の前に見えるのは、遠い記憶の一部。

「あの星の者にも、見えただろうか。この宇宙そらが。この星が」

「見えただろう。いや、もしかしたら新たに星となっているのかも知らんぞ。そんなものだ」

 ふと若布は思う。あの扉を三途の扉と呼ぶ者もいたと。三途ではない。自分たちと星を引き裂いた天の川だ。ならばずっと星を見続けていた事になるのだろうか。

 思ったが、止めた。隣で星を見る武大はもう息苦しさはない様だ。


 その夜、彼らは一年ぶりに星を見た。

 自分たちと同じ星の姿を。

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