女性上位

フカイ

掌編(読み切り)


 ~「ドアを開いて彼女の中へ」、改題

(矢作俊彦著『ドアを開いて彼女の中へ』へのオマージュ)






 忘れられない初夏の日のことだった。




 アーモンドのような大粒の瞳をきらめかせながら、彼女は颯爽と現れた。低く轟く排気音は、既に周りの空気を威圧している。歩道でほうけた顔をしていたぼくに、そのずいぶん低いドライヴァーズ・シートの中から彼女はサングラスを引き下げ、薄い唇を微笑の形に曲げた。




「乗る?」




 自分から誘っておいて、その訊き方はないものだけど、でも、もうまともに話すことさえ出来ないほど、そのこころはうわずっていたのだろう。




 フレンチ・ブルウのスマート・ボム高性能爆弾


 フロントで世界に睨みを効かす、いくつものヘッドランプは、こいつが生粋のラリー・カァであることを主張する。“チャイナ”とあだ名されるサイドに張り出たオーバー・フェンダー。パリのエスプリの効いたボンネットのモールド、リアエンジンのための後部サイドインテーク。何もかもが我々の見知っているクルマとは違う。




 近所のスーパーマーケットに買物に行くための日常の足ではなく、入った瞬間から始まる官能のステージ、そのための全ての機構がそこにひとつの芸術作品として結晶し、なおかつそのオイルラインに熱い血液を循環させながらアイドリングしていた。




 欧州の、生まれ故郷の山岳レーシングステージの地名を冠するその名を、アルピーヌという。




 アルピーヌ・ルノウ・A110。




 そいつが彼女が手に入れたクルマの名前だ。










“ハンサム”、という形容詞がとても似合うひとだった。


 ボーイッシュにカットされた髪、指輪とファンデーションはつけず、ピアスとアイブロウ眉墨だけが彼女のメーキャップ。


 あの細い身体の何処にそんなエネルギーがあるのかと思わせるほど、クルマのことになると情熱を傾けて話しをする。差し向かいのバァルームで、口説くことすら忘れて彼女のクルマ話にどれだけ聴き入ったことか。




 それもただのカタログマニアではない。クルマのスティアリングを握り、スロットル・ペダルを押し引きすることで燃焼室の中に流入するガソリン混合気まで意識することの出来る、生粋のドライビング・マニアだった。




 街ではシックな麻のワンピースに編み上げのサンダルを小粋に着こなすけれど、ひとたびワインディングロードに入れば、そこにあの可愛らしい彼女の片鱗はない。スピードに目がくらむまで、視界の中心以外は全て滝のように世界が流れ始めるまで、豪快な運転を何時間も続ける情熱があった。










 狭い助手席に身体を押し込んで、その驚くほど低い位置から街を見上げながら南へ向かう。


「スカイライン」と呼ばれるいつもの尾根伝いの自動車専用道路が、今日のデートコースだ。料金所で右側助手席のぼくが、通行料金を支払う。彼女はバケットシートの三点ベルトの位置を改め、そろそろとアルピーヌを発進させる。




「いくわよ?」




 ぼくは奥歯をかみしめ、両手でシートの縁を掴み、両足をダッシュボードの下で左右に押し広げて下半身をクルマに固定する。そして、彼女に肯きを返す。精一杯の苦笑いを浮かべて。




「上等」




 と言った一瞬後、アクセルがオンになり、アルピーヌはわずかにフロントを浮かせながら、峠道を猛然とダッシュし始めた。


 まばたきを2回する間にコーナーが迫る。壁のように立ちふさがるブラインド・コーナーにむけて、正確無比で閃光のようなシフトダウン。背中に雷鳴のごとくエンジンの悲鳴が3回聞こえ、次の瞬間にはハンマーで全身をひっぱたかれるような強烈な横G。横スライドをしながら回頭し、背後でタイアにかすかな泣きが入ったかと思うと、目の前にはクリアな直進路。低いギアのまま、スロットル・オン。クルマははじかれたように加速を始め、肺のなかの空気が根こそぎ搾り取られる気がする。


 短い直進路の最後は、急な坂で終わる。トップまでギアを上げずにトルクカーブの頂点でそこを登り切ると、坂道の頂点でクルマは一瞬宙に浮く。胃のなかが一瞬逆流するようなゼロGを体験した直後に、4本のサスペンションが加重を一気に受け止めて、懐かしい地面に車体はバウンドする。


 今度は下り坂のゆるやかな高速コーナー。加速度のついたクルマを、ブレーキではなく、スロットルで手なずける。ステアは小さく何度も切りながら、車速を殺さずにコーナーを抜けてゆく。リアにトラクションがキッチリかかり、クルマのノーズが容易に曲がってゆくのがわかる。


 一瞬の直線路で、運転席の彼女を見る。


 リラックスした顔で、目だけは前を向いたまま、その人は片手で握ったスティアリングで路面と、もう片手で握ったシフト・レヴァーでエンジンと会話している。


「しゃべると舌噛むよ」


 と、彼女はこちらを見もせずに言う。そして物凄いスピードで森を抜け、尾根を走る。


 フロントグラスの向うに広がる美しい景色を眺める余裕などない。全くない。このスピードで、ハンドル操作を間違えば、確実に大事故だ。当たり所が悪ければ、安全思想はまだまだプリミティブ原始的なこの世代のクルマだ、乗員の生命などなきに等しい。


 しかし彼女のドライビングは、乱暴ではあるものの、無謀ではない。オン・ザ・レール感覚。速くはあるが、怖くはない。クルマのコントロールを失わないギリギリのところで、実に巧みに加減速を繰り返している。










「名車をガレージの中で磨き続けるなんて」と、ある日、珍しく酔った彼女が言った。当時所有していたとあるスポーツカーの乗り方を、年かさの男性にとがめられた後のことだ。


 もちろん彼女はその先は言わず、ただ黙ってジンリッキーを喉のなかに流し込み、そして、すこしだけ、泣いた。


 彼女と同様に、マニアックな古いオートバイを所有するぼくには、その気持ちは痛いほどに判った。


 ひとそれぞれに、クルマとの接し方はあっていい。愛の形がさまざまなように、オウナーの数だけ、それはある。でも、カタログスペックを暗唱し、交通法規のなかで、年式に見合ったジェントルな扱いをするなんて、彼女のスタイルではない。


 設計者が意図したポテンシャルを完全に引き出し、なおかつそれを自分のものにすること。クルマに乗られるのではない。クルマを乗りこなすこと。


「だから」と、また別の日、別の酒場で彼女は言う。「最新式のクルマは手に余る」のだと。


 自分と同じ年齢ぐらいのクルマがいちばん扱いやすい、のだとも。




 …彼女と知り合って、もうすぐ4回目の夏が来る。




 いろいろなことがあったけれど、我々はもはや、恋人同士というような甘い時代を通り過ぎてきた。


 パートナーシップ。それがすべて。










 夕方、高原のホテルの一室で、ぼくたちは言葉も交わさずに服を脱ぎ、交わる。


 いままで脳内を駆けめぐっていたアドレナリンのせいで、ろくに前戯もせずに性交する。




 女性上位。




 それは、彼女のスタイルなだけではない。、スタイルなのだから。


 のけぞっていた上半身をおこし、彼女はぼくに覆いかぶさる。そして腰を動かして、深く深く、ぼくのそれを彼女は捉える。


 そして彼女はぼくの肩を噛み、ぼくたちはあっという間に上りつめる。




 全てが終わった後、彼女は静かに泣き始める。わけなどない。いつものことだ。簡単に言葉にしてしまうのがはばかられるような動物的な感情の波の中で、彼女はぼくの胸に頬を寄せ、さめざめと泣き続ける。


 ぼくは彼女の髪をなでながら、しゃくり上げる肩をもう一方の手で抱き寄せる。


 こういう風にしか交われないこともある。はたからみれば狂気としか思えない前戯を経ないと、身体を重ねられないこともある。


 巷間に語られる性の様々は、えてして下種で陳腐な猥談に過ぎない場合が多い。それに惑わされて、どこへもたどり着けぬ人々が、夜の街をさまよっている。


 しかし―――






『セックスに名人がいるなど世迷いごとだ。ほど個人的なものはない。自分にぴったりのパートナァにさえめぐりあえれば技術など必要ない。』と、矢作は言う。






 ぼくの最良のパートナァは1974年生まれの国産4気筒の二輪車だ。そして今日から彼女のそれは、このホテルの地下の駐車場で眠る、同じく1974年生まれのフランスのラリー・カァだ。そしてぼくたちは互いに互いを必要としあう、かけがえのないパートナァだ。




 初夏の透明な陽射し。


 空よりも青い、アルピーヌ。


 気持ちの通いあったセックス。


 風が吹いて雲が流れ、これ以上のハッピーエンドはどこにもない。







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