其の参「峠を上る」
「う~む…」
♪『橙さん、85年じゃなくて、86年の早稲田大学ライブのバージョンの方がよかったでしょうか?』
「いや、そうじゃなくて、俺は、いったいどこに連れて行かれるのだろうって考えていたんだ」
♪『あと1.5kmほど行った先の交差点を左折になります』
「この道は、なんだか前に通ったことがあるような気がするんだ」
♪『はい。4年前の11月15日、日曜日、午前10時36分にこの場所を通過しています』
「そうか… やっぱりな。その時は… いや、なんでもない」
♪『その時は、なんですか?橙さん』
「その時は、俺独りだったか?」
♪『はい。お一人でした』
「そうか… そのときの俺はどんな感じだった?」
♪『はい。橙さんはかなり憔悴して運転していました』
「やっぱりそうか…」
♪『それが、どうかしましたか?』
「だから、奈美は今日この道を案内したんだろ?」
♪『まもなく、信号のある交差点を左に曲がります』
「なあ、奈美。だから、この道に俺を連れてきたんだろ?」
♪『左です。橙さん、その日に行った目的地を覚えていらっしゃいますか?』
「いや、覚えていない」
♪『ここから山道になります。道幅は狭くなりますし、途中でガードレールも無くなりますので十分気をつけて運転してください』
「ああ、急ぐ理由も無いしな」
♪『では、4年前のこの日、午前10時41分に橙さんが聴いた曲をお送りします。ORIGINAL LOVEで『STARS』』
https://www.youtube.com/watch?v=lUGu2XM9mRI
♪『いかがだったでしょうか?』
「ああ、よかったよ。この通り、涙でぐしゃぐしゃで前もよく見えなくて危ないったらありゃしないよ」
♪『まもなく、峠の頂上に着きますが、このようにこの付近はアスファルトではなく、コンクリート道路でガードレールもありませんから気をつけて運転してください』
「ああ、わかってるよ」
♪『ちなみに、この峠道は、戦国時代に上杉謙信が信州川中島への出兵の際に軍道として使われた道です』
「そうなんだ。でも、俺は歴史になんかまったく興味が無いんだ。しかも、戦国時代なんてもっとも興味が無い」
♪『そうなんですか。でも、なぜ興味が無いのですか?』
「なぜ興味が無いのか、だなんて… 普通、そんなものに興味を持たないだろ。そんなものに興味があるのは、地元の偏屈な歴史研究家と大河ドラマ好きの定年を迎えたジジイとその連れ合いぐらいだろ」
♪『そうでしょうか。私はとても興味がありますが』
「それは、奈美は仕事柄そうなんでしょ。大体、こんな狭い島国で“俺が一番だ!”なんて人生の大半を戦いに費やす生き様に興味を持つ方がおかしくないか?この小さい島国の中の、それまた小さい“国”の中で、上だの下だのって位や恩賞を気にしながら毎日過ごすなんてまっぴらごめんだよ」
♪『今の橙さんはそうじゃないのですか?』
「え?今の俺?」
♪『ええ、そうです。こんな小さい島国の、それまた小さい県の、それまた小さい市の、それまた小さい職場で上だの下だの、給料だの特別昇給だのって気にしながら働いてはいませんか?』
「お前… ただのナビのくせに、いつからそんな生意気な口を利くようになったんだ!」
♪『橙さん、何度も言いましたが、わたしはお前ではなく、奈…』
俺は、ナビの画面を消した。
ついさっきから霧かガスかが立ち込めてきていたから、フォグランプを点けた。だけど、この峠道を走り始めてから、まだ一台も峠を降りてくる対向車とすれ違わなかった。
この峠の頂上に何があったのか、少し前から思い出せそうで思い出せずにいた。
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