その五

 ぎょろりとした瞳を剥いた大きな影がやってきたかと思うと、その後、すぐに消えていきました。まるで、幻のように思えた出来事がしかし本物であるということをわたしはなによりも理解していました。服の乱れを直しながら、胸の辺りにある引っ掻き傷と、身体の奥の方に感じる痛みとべたつく泥のような気持ち悪さに眉を顰めながら、少しずつ感情を消していこうとします。その際、二三度、咳が出ます。この部屋はわたしの希望で掃除がされないので、咳きこむこと自体は珍しくもないのですが、本日の喉から出る息には血が絡んでいました。僅かに手の端に吐いた赤い雫を見下ろしたあと、特に気にもせずに身繕いを終えます。だるさに倒れそうになりつつ、これからどうしようかと考えていると、


「随分と顔色が悪いわね。元々、血色は相当悪いけど、今日はなんだか筋金入りよ」


 転がっていたはずのカナリヤちゃんが立ち上がっているのが目に入りました。


「なんであなたが喋っているんですか?」


 息の根はしっかりと止めたはずなのに。心の中でそう続けながらも、わたしはこの不思議な現象を抵抗なく受けいれていました。


「死んだ人が起き上っちゃいけない理由なんてどこにあるの。一人くらい息を吹き返したって世界がどうにかなるわけでもないし」

「問題はありますよ。あなたの甲高い声をまた聞かなければならないわたしの苦痛を考えてくださいよ」

「冗談が言えるくらいにはもう回復しているようね」


 冗談のつもりはこれぽっちもなかったんですが、反論してあの厭な声をもっと聞かなければならないのを思い、口を閉ざします。そうしたあと、ちらりとカナリヤちゃんの首元を覗きこみます。そこにはしっかりと、わたしが付けた青い線が数本走っていました。


 その視線に気が付いたのか、カナリヤちゃんはついさっき生えたばかりの金色の癖っ毛を左手の人指し指に巻きつけつつ、右手の人差し指で首の前面にある線の内、一番上にあるものを撫でます。


「どうどう、あたしの最新のファッション。なかなかいかしてるでしょう。もっとも、あなたがつけたんだけど」

「客観的に見れば気味が悪いだけですが、人除けをするんならいいんじゃないですか」


 そこまで言ったところで、再び咳が出ます。慌てて手で受けると、やはりそこには赤い雫がべっとりと付着していました。


「あらあらいつの間に風邪なんて引いたの。って、さっきよね。よくよく考えてみれば、あたしもすぐ傍で見ていたわね」

「本当に風邪だったらいいんですけどね」


 小さく何度か噎せこみます。こころなしか動悸も激しくなりはじめていますし、呼吸一つするのも億劫になりはじめていました。そこまでしながら気が付きます。


「カナリヤちゃん、腐ったままなんですね。」

「そりゃそうでしょ。全部が全部治るほど、都合よくできていないのよ」


 そう答えて控え目な胸を張るカナリヤちゃんを見ながら、髪だけが元に戻って他の傷が戻らないあたり、随分と不格好な復活だなと思います。わたしは僅かに鼻をひくつかせてその堪らない臭いを嗅ぎ取りました。


「自分で言った癖に、その腐った臭いを鼻に吸いこんで大丈夫なわけ」

「邪魔しないでください。わたしはこの空気を思い切り吸いこむので忙しいんですよ」


 カナリヤちゃんの声と癖っ毛、白い素肌は邪魔なことこの上ありません。ですが、時間経過とともに強く漂いはじめたこの不衛生な臭いは、いつまでも嗅いでいたいと思っていました。


「わかってはいたけれど、随分と悪趣味ね」

「いいから黙っていてください。もう一度、息の根を止めますよ」


 わたしの眼差しにカナリヤちゃんは呆れたように手をひらひらと振ってみせました。その思わせぶりな動作もまた不快でしたが、今は目を瞑りましょう。その鼻が曲がってしまいそうな愛しい香りで、わたしの身体を満たしてくれているのだから。


「ねぇ、ココア」


 どれだけの時間が経ったのでしょう。死に急ごうとしている一羽のカナリヤが懲りずに話しかけてきました。わたしはまだ満足には程遠いというのに、迷惑な話です。


「黙っていてくださいと言ったはずですが」


 言ったあと軽く咳きこみます。そろそろ喋る元気すら失われつつありました。そんなわたしにカナリヤちゃんは無表情で尋ねます。


「あなたは、その子を産むの」


 その生々しい響きをわたしは予想していた気がします。


「さぁ、どうでしょうね。そもそもコウノトリさんが運んできてくれるかも怪しいですし、それまでわたしがここにいられるかも不明確ですから」

「絶対できているわ。産む気であるならあなたは死なない。それだったら、どう?」


 カナリヤちゃんの決めつけを、わたしは本能的に嘘ではないと判断しました。わたし自身にもわからないことがなぜこの子が知っているのかは知りませんが、一度息の根が止まると、色々と見えてくるものがあるのでしょう。目を瞑って息を吸いこみます。


「正直なところ気が咎めますね」

「どうして?」


 薄く微笑みながら聴き返してくるカナリヤちゃんを睨み返します。わかっているのにわざわざ不快な声で聞き返してくる辺りタチが悪いです。


「わたしの娘ということはきっとわたしの碌でもないところを少なからず受け継いでしまうのでしょう? そういうのが一匹いると考えるだけでも厭な気分になってきます」


 わたしは、こんな世界滅んでしまえ、と常々思っています。きっと娘も生まれ落ちれば同じこと思うでしょう。そして、空気を吸うことの不快さに心地良さを覚えるのでしょう。考えるだけで吐き気がします。


「そう、だったら」


 カナリヤちゃんはニコリと笑いかけます。「あたしがココアを止めてあげようか?」


 彼女の言い分はとても理に適っていました。生まれて欲しくもない娘を残して消えるか、今すぐ消えるか。その二つを天秤にかけたあと、唇を開きます。


「お願いします」


 直後に、わたしの長い髪を使って首が締めあげられていきます。喜悦に染まる他人の顔の不快さとここでいなくなる後悔で頭をいっぱいにしながら、わたしはこの逃れようのない苦しさと悦びに浸り続けて、

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薄暗い部屋 ムラサキハルカ @harukamurasaki

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