その四

「やあ、ココア。部屋に入ってもいいかね」


 髪を抜いた箇所から新たな金髪が生えてきたのを目撃して少々驚いていた時でしたので、わたしは新鮮な衝撃に水を差されたようでいつにもまして不機嫌になっていました。


「厭です、さっさと帰ってください」

「おやおや、これは手厳しいな。いや、妻が一時間近くまともな返事をもらえなかったのを考えると、僕の方が幾分か優遇されていると言ってもいいのかな」


 その言葉に小さく眉を顰めます。


「別にそういうわけではありませんよ。誰が来ようとわたしはわたしですよ、お父さま」

「おやおや、なんだかいつもよりも怯えているねココア。もしかして、僕がお母さまのために説教に来たとでも考えているのかね」

「まさか。お父さまがそんなくだらないことのために時間をお遣いになるわけがないじゃないですか」


 相手の顔も見えていないのに、扉へと冷たい目線を送ります。おそらく、お父さまの方もわたしの表情が手に取るようにわかっているのでしょう。微かな笑い声が聞こえてきました。


「君は酷い娘だね、ココア。生みの親であるお母さまの頼みを、くだらないこと、などと切り捨ててしまうなんて」

「酷いもなにも事実なんですから、それ以外に言いようがないです。お父さまはもっと自分にとって有益なことにしか時間を使おうとしないじゃないですか。だったら、テープレコーダーみたいに同じようなつまらないことしか言わないあんな退屈な人の頼みなんて、どうして聞こうという気になるのですか」

「やはり手厳しいね、ココアは。今交わされた言葉を聞いたらきっとお母さまは泣いてしまうに違いないぞ」

「泣いてしまうくらいならいいじゃないですか。あの人は泣き虫なんですから、それが仕事みたいなものです」


 途端にお父さまは扉を叩きながら甲高い笑い声をあげはじめました。どうやらわたしの言葉がなんらかのつぼを突いてしまったようです。いったいなにが面白いのかはこれぽっちもわかりませんが。


「まぁ、一応、君はわたしたちの娘なんだから、お母さまにはもう少しだけ優しくしてあげなさい」

「お父さまとお母さまの娘になるのを選らんで生まれたわけではないので、娘なんだから、という物言いには異議を唱えたいです」

「じゃあもう少し君の好みそうな言い方をすると、食料を与えてあげるんだから少しくらいサービスしてあげなさい、とでも言った方がいいかな」

「それなら多少は。けれど別にわたし自身はいつ野垂れ死んでもかまわないとも思っていますし、お母さまが来た時は最大限の笑顔を振りまこうと心掛けていますよ」


 その答えがまたつぼに入ったのでしょう。声を上げるのを堪えるように息を吸いこんだ音が耳に入ってきました。しばらくの間、息遣いがするのを聞いて、そろそろ扉から離れてもいいかしら、と徐々に飽きだしていたのもあって考えていると、


「ところで君が人殺しをしたと爺やとお母さまから聞いたのだが」


 これから一緒にお茶でもどう、とでもいうような調子のお父様が、わたしの先日成したことを切りだしてきました。


「はい、それがなにか」


 先日まですっきりとすらしていたはずであったのに、なぜだか酷く喉の辺りが強張っているような感覚に襲われます。この一言を吐き出すのにも一苦労という体たらくでした。


「そんなに怖がらなくてもいいんだ。別に僕は責めようとしているわけではないしね。いいや、この物言いは失礼だったかな。君の頭ならばそれくらいのことはわかっているはずだからね」

「いいえ、かまいません」


 精一杯の強がりとともにそう応じながら、わたしは頬から汗を一筋垂らしました。実のところ、今、父が考えていることはよくわかりません。わかりたくもないのにわかってしまうあの母親と違い、この父親はどれだけ探ろうとしても深いところまでわかることはありませんでした。


「そうかい。まぁ、だからといって、特に用件ってやつがあるわけでもない。ただ君が随分と珍しいことをしたらしいと聞いたんで、死体ってやつの厭な臭いに鼻を浸しながら適当な雑談にでもしゃれこもうと思っただけでね」

「それで、先程、開けてくれと」

「そういうことだ。さすが僕の娘だ。物わかりが良くて助かるよ」


 さも満足げな声に馬鹿にされているような気がして、嫌な気分になります。


「要件はわかりました。けれど、部屋には入れませんよ」

「なぜだい」

「前にも言いましたよ。わたしは男が大嫌いなんです。お父さまも同じです」

「知ってるよ。けれど爺やは部屋に入れているだろう。その点、僕は血の繋がりもあるんだから、少しくらい入れてくれてもかまわないと思うのだけれどね」

「爺やを入れているのは、わたしの命を長らえるためです。お父さまは別に必要ないですから」

「嘘だね」


 単純な一言は冷たげな声音で放たれました。思わずわたしは扉の前で固まってしまいます。


「君はさっき言ったじゃないか。いつ野垂れ死んでもかまわないとね。その時の言葉には微塵も生への執着が感じ取れなかった。だったら、君の物言いは嘘に違いない」


 心臓が大きく跳ねます。この向かい合っている扉と同じようにわたしからはお父さまが見えませんが、向こうからはこちらが丸見えであるような状態が不安で仕方ありません。


「無理して生きようとも思いませんけど、わざわざ死にたいとも思いませんよ」

「君はアマノジャクだからね。こちらが手を出そうとすれば一歩下がるし、逆に離れようとすれば興味深げに近付いてくる。僕からすればとても可愛い娘だよ」


 可愛い娘、という言の葉はわたしの内に大きな嫌悪感をもたらしました。しかし、すぐさまそれが心地良さに変わっていきます。


「そういう呼ばれ方は大嫌いです」

「うん、知ってるよ。だけど、逆も然りだ」


 外の扉に手が掛かるのがわかります。


「開けてくれないかね」


 碌なことにはならないわかりました。しかし、その碌でもないことがなによりも魅力的に思えて、気が付けば扉に手をかけて、

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