その三
文庫本に飽きたわたしが、そろそろ臭いがきつくなってきた少女だったものの金髪を一本一本抜いていくお遊びをしていると、控え目に扉が叩かれました。このような遠慮がちな反応は、わたしの知っているかぎり一人しかいません。
「用件を言ってください」
相手も用件もわかっていましたが、わたしはわざわざそう聞き返します。同時にノックの数が増えます。もっとも、その力は弱いままでしたが。
「そんな風に叩かれても開けません。ちゃんと、用件を言っていただかなければね。見ず知らずの不審者相手に開ける扉はないんですよ」
扉がより強く揺すられますが、当然、わたしは見向きもしないまま、金の髪を抜く作業に戻ります。動かなくなったあとも、癖っ毛は勝手に丸まるのだなと感心しながら、一本一本、丁寧に抜いていきます。後ろから聞こえてくる扉を叩く音を無視し続けました。
それから小一時間、少女だったものの後頭部辺りの毛髪を抜き終えたところで、扉の外の音が止みました。先ほどから、叩くのも止めて見苦しい啜り泣きが響いていましたが、それすらもなくなっていました。わたしは息を殺して、扉の傍に近付き耳をそばだてます。大方の予想通り、僅かな息遣いが伝わってきます。ちょうど、単調な遊びにも飽きはじめたところだったのでさっさと扉を開けることにしました。
外には間の抜けた様子で口を開く三十絡みの女が、薄水色のシャツにベージュのショートパンツという姿でその場に座りこんでいました。年よりも幼げに見える大きな目と口には、無知な赤子にも似たあどけなさが目立ちました。わたしは飛び切りの笑顔を作って話しかけます。
「ああ、誰かと思えばお母さまだったんですか。何の返事もなかったから気が付きませんでしたよ」
お母様は曖昧に微笑んだあと、手に持ったスケッチブックに素早く文字を書きこんでいました。わたしはその余り時間を、紙に書かれた文字が見えないふりをすることと次に喋る際に目の前の女性に口を向けないように喋ろうかと考えるのに費やしていました。ですが、いざ白紙に書かれた文字が示されると、反射的に視線を向けてしまいました。
『ごめんなさい。だけど、私は喋れないから答えられないの。今度は少しでもいいから扉を開けて外を確かめてくれないかしら』
口の端から嘲笑が漏れだしそうなのをなんとか抑えながら、わたしはいかにも反省したというような表情を装ってみせます。
「すいません。以前もそのように言っていただいたのに、ついつい忘れてしまって申し訳ありません」
これは何度目の、忘れてしまって、だったでしょうか。頭の中で思い出して一つ一つ数えている間も、お母さまはスケッチブックに言葉を書きこんでいきます。
『忘れちゃったんだったらしょうがないわ。今度から扉を開けてね』
やけに丸みを帯びた文字が失笑を誘いそうになります。この母親は、なにがなんでもわたしを笑い殺したいとでも思っているんでしょうか。被害妄想とわかりつつも、そんな風に錯覚してしまいそうでした。
「はい、わかりました。次からは気を付けさせてもらいますので」
頭を下げながら、ようやく一息吐くように口元を緩めます。その間も、母親はスケッチブックに一生懸命なにかを書きこんでいました。ゆっくりと頭を上げると、既に書きこみは終わっているようでした。
『それでココアちゃん……あの、その……部屋の端にいる動かなくなったお友達のことなんだけど。扉の端にいる私にもすごい臭いが漂ってくるんだけど、大丈夫?』
丸っこい文字で書かれた文章には迷いが滲み出ています。鉛筆で書かれていますので消しゴムを使うことだってできるはずですが、お母さまはそうしないまま、わたしに自分の意見というやつを晒してみせます。真っ当な人間が使いがちな心配というやつらしいのですが、わたしはその態度に密かにむかっ腹を立てています。もちろん、表には出さないように細心の注意を払ってはいますが。
「まず一つ、訂正を。このカナリヤちゃんですが、別にお友達なんかではありませんよ。ただの知り合いです。爺やの言い方だと、不法侵入者というやつです。面識くらいはありましたけど、友達だって思ったことは一度としてありませんよ」
その言葉をお母さまはどこか寂しげに受け止めました。この馬鹿正直な態度にわたしの苛立ちは益々増していくばかりでしたが、その分表情を歪ませてあげれば釣り合いが取れるかしらと思いながら言葉を選んでいきます。
「次に臭いですが、お母さまは耐えがたいと思っていらっしゃるようですけれど、わたしは逆に好ましいとすら思えます。前々からこういう臭いを放つものが欲しいとずっと考えていたのでちょうどいいくらいです」
満面の笑みを浮かべてみせるわたしに対してお母さまの目は怯えの色を宿し始めます。それとともにスケッチブックに素早く鉛筆の芯を落としていき大袈裟な動作で掲げます。
『そんな風に言っちゃだめよ。元々は生きていた人だったのよ。それに爺やからも聞いたけど、カナリヤちゃんが動くのを止めてしまったのはココアちゃんが……』
お母さまの文は途中で切れていました。その先に書かれるはずであった言葉は予想できます。おそらく、書くに書けなかったのでしょう。部屋の端っこにしっかりと証拠が転がっているにもかかわらず、まだ、自分の娘がそうした認めたくないのでしょう。つくづく救えない人だと、わたしは思います。
「お母さまは優しいですね。別にいいんですよ。直接書いてくださっても。わたしがカナリヤちゃんの息の根を止めた、とね」
肌を真っ青にするお母さまを見て、わたしの心に少しずつ悦びが湧いてきます。
「だって、わたしはちっとも後悔してませんし、悪いとも思っていないんですから。むしろ、息の根を止めた自分を誉めてやりたいくらいです」
悲壮な顔をするお母さまにわたしは口元を弛めるのをなんとか押えました。やがて、鉛筆がスケッチブックの上を走りました。
『それはいけないことなのよ、ココアちゃん』
その言葉にわたしは大きく微笑みました。
「いけないをいけないと信じているお母さまみたいな生き方がずっとずっと大嫌いでした。きっとこれからもずっとね」
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