その二
「お嬢様、お茶を持ってまいりました」
聞き覚えのある皺がれた声が耳に入ってきました。普段のわたしであれば、二回ほど門前払いしたうえで三回目でようやく渋々入れるという行程を取るのですが、今日は久々に肉体労働に従事したのもあり酷く喉が渇いていました。わたしは鼻をハンカチで押さえながら、埃が振りかかったノブを掴んでから引いてみせました。
「おやおや、これは珍しいですな。普段であれば、もう二回は追い返されますのに」
「安心して。今度来たときは今日の分を足して、五回追い返すから」
今後の予定をつらつらと語ってから、お盆の上から茶の入った湯呑を受け取り口に含みます。淹れたてのせいか、舌と喉が焼け爛れそうになりましたが、それよりも水分補給による欲望充足が勝りました。爺やは慣れているせいか、軽く肩を竦めるだけに留めます。年々白くなっていく肩の辺りまで伸ばされた毛髪と左右に伸びた貴族風の髭の老人は、いつ見ても変わらぬ黒いスーツを着こなしながら肩を竦めてみせます。
「相変わらずですね。いつ来てもお変わりになられないのはさすがと言いますか」
瞳の奥の色を細部まで読み取ることはできませんでしたが、概ね、しようがない小娘だ、という色合いが大半を占めています。老人のわたしに対する決めつけは甚だ不愉快なものに感じられましたが、その侮りはこの男が持つ数少ない美点の一つに思えました。もっとも、そんなことは一度として口に出したことはありませんし、今後も言わないでしょうが。
「やっぱり、あなたの二つの目は節穴ね」
「いやいや、手厳しいのもお変わりになられないです。それでこそお嬢様」
つまらないおべんちゃらを口にし続けようとしたところで執事が言葉を止めました。そして、一瞬だけ眉を顰めたあと、鼻を押さえ足元を覗きこみます。
「これは」
「なに、とか聞こうとしてたら時間の無駄だから止めてね。見ればわかるでしょう。こんなもの」
床に倒れているのは黄金色の癖っ毛の女の子のようなものでした。こんな回りくどい表現をするのは、彼女が既に息を止めてから小一時間が経過していたからです。
「ええ。それはわたくし程度の頭でも、充分理解できますが」
「それだけわかれば充分でしょう。そして、あなたはこの家の使用人。やることはもうわかっているでしょう」
淡々と告げたあと、残りの茶をゆっくりと胃へと流しこんでいきます。飲みはじめた時よりは幾分か冷めてはいましたが、やはり、まだ一定の温度を保っていました。
「お嬢様。一つお聞きしてもよろしいでしょうか」
「もう、一々回りくどい。そんな確認取らずにさっさと本題に入ればいいじゃない」
「そう仰られるのでしたら、言わせていただきますが」
爺やはずるずると前口上を口にしたあと、静けさを宿した二つの節穴でわたしを見つめました。その後、再び少女だったものに視線を落とします。
「この綺麗な髪の毛のお客様に手をお下しになったのはお嬢様ですか」
その視線の先にあるのは、黒い点が出はじめた白い首の後ろ側に走った四本の線と、喉の付近に目立つ二つの大きな痕でした。
「それがこれからあなたのやることになにか関係するのかしら」
別段、答えても問題なかったのですが、面倒だったのと素直に答えるのが癪だったのもあって、はぐらかそうとしました。爺やはあの不愉快な鼻で笑うような目でこちらを見下します。
「ええ、大いに関係ありますとも。別の犯人がいるのでしたら、それを探さなくてはなりません。官憲の方々を幾人か呼び寄せなくてはなりませんし、草の根分けてでも探し出さなくては旦那様の沽券に関わりますからね。もしも、お嬢様が手を下したというならば、無駄な犯人捜しをする必要もなくなりますから、手っ取り早く済みます」
自分の眉に皺が寄っていくのがわかります。わざわざ、爺やの言うことを聞いてやりたくはありません。しかし、見ず知らずの他人、それもおそらく男たちが入りこんでくるのは、更に耐がたいものでした。しばらくの間、頭の中で天秤を上下させたあと、大きく溜め息を吐きました。
「はいはい、わたしがやりましたよ。だから、さっさと片付けてちょうだい。これでいいかしら」
「はい、仰せのままに」
満足気に頷く使用人の態度は、なによりもわたしの心を逆撫でましたが、かといって、もう一つ動かないものを増やすのは、この決して広いとは言えない部屋の中では邪魔なことこの上ありませんし、なによりも動かなくなった少女風のなにかを片付ける手間が省けなくなります。
爺やはわたしの傍を通り過ぎたかと思うと、少女だったものの腰に腕を回そうとしました。しかし、すぐさま不可解な物にでも会ったかのように、大きく眉を顰めてみせました。その後スラックスに包まれた両足で踏ん張り屈みながら身体を震わしましていましたが、ほどなくして床に落ちている物から距離を取ったあと、首を左右に振ってみせました。
「ダメですねこれは。わたくし一人では持ち上げられません」
「あなたって随分と非力だったのね」
わたしの冷笑に、爺やはしょぼくれたように頭を下げてみせました。その姿を見ながら、彼がもっと重いものを持っているところを知っていたので、重量とは違う他の要素が少女だったものの移動を邪魔しているのだと察します。もちろん口にはしませんが。
「どうしますか。片付けるというのならば、何人かこの部屋に入ってもらう必要がありますが」
「けっこうよ。誰も入れないで」
そうなれば、おそらく屈強な男たちが入ってくるのでしょう。そういう健康的な輩というのがわたしがもっとも苦手とする手合いでした。
「悪い病気にかかってしまいますよ」
「人が入ってくるよりはマシよ」
言いながら足元を見下します。顔形は気に入りませんがこの臭いは嫌いではありません。
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