薄暗い部屋

ムラサキハルカ

その一

 わたしはいつも部屋の中にいます。お外の空気を吸うのがたえられないからです。


 いがいがとした黒い煙みたいなものならまだいいです。けれど、もし間違って、空気のいい山や森にお散歩に行くなんてことになったりしてしまったら……。考えただけで怖気が走りそうです。もっと嫌いなのは夏の浜風……というよりもそれが運んでくるものです。べたついて気色悪いのはまだ許せますが、人がいっぱいいるところに流れるあの清々しさとかいうものはどうしても受けいれられません。なによりも、自分たちを美味しそうな花だと思いこんでいる目障りな蝶々の群れには嫌気が差します。だから、わたしはずっと部屋にいます。端っこの方が埃で薄汚れていて、物はぼろぼろになった文庫本を一冊の他には何も置かず、灯りはあまり点けず、もし点けたとしても切れかけで点滅する電球を吊るす。そんな場所にずっといようと思います。


 人なんて滅んでしまえ、と常々思っているわたしですが、知り合いもいます。あまり好ましくない両親に何かと世話を焼いてくれる爺や、そしてカナリヤちゃんです。最初の三人に関しては、部屋に入れなければ、わたしの生命すら絶たれてしまいそうなのでどうしようもないですが、カナリヤちゃんは別にいてもいなくてもどちらでもいい人です。なのに、結果として彼女は家の中にいます。入れたのではありません。いつの間にか、ここにいたのです。


「こんばんはココア。今日も気持ち悪いくらいに顔が白いわね」

「白人のあなたが言わないでください。その面白おかしい髪型を見たくないから来てほしくないとあれほど言ったはずですが」


 今日もいつの間にかやってきていたカナリヤちゃんの黄金色の癖っ気を指差しながら、嫌悪感を露にします。彼女は濃紺のワンピースを着て立ち、白い素肌の上に置かれた暗めの青い二つの瞳でわたしを見つめます。


「人のトレードマークを全否定するなんて酷いじゃない。あなたはいつからそんな差別主義者になったのかしら」

「ただ自分の意見を言っただけで差別主義者扱いされたらたまったものじゃありませんよ。なによりも、不法侵入者に言われたくありません」


 最近爺やに教えてもらった『不法侵入者』という言葉を使って少しだけ勝ち誇ります。カナリヤちゃんみたいな人は世間では犯罪者扱いされるようでした。ざまぁみろです。


 カナリヤちゃんは自らの色白の頬を軽く撫でながら、機械的な仕種で濃い赤薔薇のような色をした唇を開きます。


「別に今すぐ『不法侵入』の罪で訴えてくれてもかまわないけれど、あなたはわざわざここに警察官を呼びたいのかしら」


 わたしは即答しようとしてからこらえ、三秒ほど考えたふりをして息を吐きます。


「呼びたくありませんね。あなただけでも充分に煩わしいというのに、わざわざ、知りもしない男たちをこの部屋に上げるなんて、考えたくもないです」


 わたしの世界の人口の五分の二は男でできていますが、いるからと言って肯定できるわけではありません。女もそれほど好ましいとは言い難いのですが、男というものはそれに輪をかけて受け入れにくい雰囲気を兼ね備えています。お父様と爺やからほのかに発せられるあのなにかが腐ったような臭いは嫌いではないのですが、あの画用紙に穴を開けて目だと言い張っているものを見たり、かさかさにひび割れた唇から吐き出される別世界の言語を聞いたりしていると、うんざりしてしまいます。知り合いですらその反応なのに、他人ならばなおさらです。しかも、この手の犯罪で指揮を取ろうとするのは、出しゃばった中年男性警部あたりだということが相場として決まっています。かといって、通報した際に、わざわざ女性警官だけで入ってきてください、などという台詞を口にするのはふざけていますし、なによりも、なぜ、そこまでの苦労をわたしが背負わなくてはならないのか理解に苦しみます。だったら、少しくらい我慢したところで一緒のような気がしました。


「じゃあ、あたしはここにいてもいいわよね、ココア」

「はいはい、どうぞ、ご勝手に」


 わたしはアメリカ人みたいに大袈裟に肩を竦めながら、文庫本を持ち上げます。爺やに書庫から持ってこさせた海外文学の訳本は、例のごとく端から端までボロボロになっていました。おそらく、老人の主人であるあの壮年の男が何度も読み返したのでしょう。一瞬、あの瞳を思い出して厭な気分になりましたが、それとともにあの鼻が曲がりそうな臭いを思い出して、できればわたしの身体に移ってくれはしないか、という考えに少しだけ耽りました。


「相変わらず、黴臭い本ばっかり読んでるわね。しかも、こんな暗い部屋で。読めないうえに、目が悪くなるわよ」

「話しかけないでください」

「あら、こう見えても心配しているのよ」

「それこそ余計なお世話ですよ。わたしはこのくらいの薄い灯りでも充分に本を読むことができますし、仮にそれで目が悪くなったとしても、どうせ、この部屋のお外になんて行こうとも思いませんし」


 律儀に答えるからカナリヤちゃんがつけあがるのではないか。そう、わかっていながらも、わたしは口を止めることができません。


 彼女はなにが可笑しかったのか、すぐ傍にいて鼻で笑いだします。


「ココアは怖がりね」

 

 どこか愛おしげですらある声音は、項から臀部までの細い線を真冬の冷や水を肌に垂らしたような感覚とともに伝わっていきます。自然と顔を歪ませている最中、カナリヤちゃんの指先が髪の毛に絡んできました。


「触らないでください、迷惑です」

「相変わらずあなたの髪は黒々としていて綺麗ね」


 嫌がるこちらの言葉など、カナリヤちゃんの耳には届いていないようです。わざとらしく高めた声からはあからさまな媚びが露わになっていて、わたしは睨みつけながら、彼女を心の底から軽蔑するにいたります。


「今すぐに消えてなくなってください」

「いいじゃない。触ったって減るものではないし。あたしたちの仲なんだからさ」


 カナリヤちゃんの表情には相変わらず人形のように色がありません。その声音は三日間鍋で煮詰めたチョコレートのように耳から離れません。とにかく癇に障る不快な声があまりにも気にくわなくて、

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