第18話 傾くまでの月
今日から麻奈は出張のため、二泊三日金曜日の夜まで帰ってこない。自社の出資するイベントで大阪まで。マロを一人残して行くのは不安だが、仕事に連れていくこともできない。
麻奈は立ち上がり、小型のスーツケースを引いた。
「じゃ、マロ。火とか本当に気を付けてよ」
振り返って、何度目かも分からない注意を繰り返す。麻奈を見送るため、玄関に立つマロは上下ジャージ姿で背中を掻いている。髷を結わなくなった髪はぼさぼさで伸び放題になっていた。
「言われるまでもない」
マロの返事に麻奈の不安は増すばかりだ。こんなに生活力のなさそうな男を自宅に一人で三日間も置いて良いものだろうか。現代常識が著しく欠如している成人男性。悪い予測はいくらでもできる。金曜日に帰ってきたら、家がなくなっているかもしれない。普段ならば、少なくとも夜には自分が帰って来る。一度、家の中は自分の監視下に戻って来る。
「金曜日は燃えるゴミの日だからよろしくね。忘れちゃったら仕方がないけど。出かける時はちゃんと戸締りしてよ」
わかったわかった、とマロは手を振る。
「じゃあ、行ってきます」
そう言い残し、不安そうな顔のまま麻奈は玄関の戸を閉めた。鍵が外から回される。
しばらくマロは玄関に立っていたが、小躍りしながら六畳間に戻る。麻奈が帰ってこないということは、自分だけの自由な時間が二泊三日も続くということだ。冷凍庫の中に麻奈が目一杯グラタンなどのレンジで温めるだけの冷凍食品を詰めていったし、冷蔵庫にはカレーも鍋一杯に入っている。炊飯器は夕方にご飯が炊きあがるようタイマーがセットされているし、お菓子も多めに置かれている。
マロは手始めにポテトチップスの袋を破る。約束された自由な時間。口煩い麻奈はいない。ソファーに寝ころび、テレビを見ながらポテトチップスを頬張る。
(マメ子、十日に一度くらい出張とやらに行けばいいのに)
日中は、我が世の春が如く自由な時間を満喫していたが、夕方近くになると、飽きがでてきた。自由な時間と言うが、それを言うなら麻奈が帰って来るまでの時間は自由だった。菓子のほかはいつもと全く変わらない。ポテトチップスやチョコレートを食べ過ぎて、少し気持ちが悪い。どうして菓子を食べ過ぎるなと麻奈が言うのかようやくわかった。
開いたままのポテトチップスの袋をテープで止める。いつも麻奈がマロの食べかけの菓子をこうして閉じていた。
日がでているうちに笛の練習にでも行けば良かったと思いながら、ノートパソコンを引っ張り出す。電子メールが来ていないか確認するが、メールの新着はない。麻奈からの連絡がない。
台所で電子音がした。麻奈がセットしていた米が炊けたらしい。冷蔵庫の中からカレー鍋を取り出す。ちょっと胃はもたれているが、せっかくのカレーだ。
炊き立ての米と、電子レンジで温めたカレーをスプーンで口に運ぶ。麻奈のつくったいつものカレーと同じ味のはずが、どこか味気ない。麻奈が家にいる時、何度もおかわりを強請るカレーが、今日は一皿も重い。
(お菓子のせいだ……)
テレビの音と、皿とスプーンがぶつかる音だけが室内に響く。いつも見ているテレビから聞こえる声が、白々しい。
「……つまらないなぁ」
呟いた後に気付いた。麻奈を見送ってから、初めて口から出た言葉だった。
時計を見れば、まだ普段の麻奈が帰って来る時間にもなっていない。普段もこの時間は一人で過ごしている時間だ。晩御飯を早めに取っている他は何も変わらない。
麻奈の作る出来栄えの安定しないコンソメスープやサラダがないから物足りないのだろうか。けれど、カレーライス単品が晩御飯であることも多い。
麻奈が目の前でカレーを食べている姿を想像する。
「女性が男の前で大口開けて物を食べるなよ……」
マロの世界においては、女性が物を食べること自体がはしたないと言われていた。高貴な女性ほど、食事を控える。マロの前でも堂々とカレーを平らげる麻奈とは大違いだ。
今日は、カレーも一皿だけでいい。食べ終わった食器を持ってキッチンに向かう。キッチンの流し台は麻奈が出かける前に片づけていった。
(食器を使ったら、水にだけはつけておいて。洗わなくてもいいから)
記憶の中、麻奈の声に答える。
「食器くらい、洗える」
麻奈が洗っているのを見ていた。黄色いスポンジに食器用洗剤を塗し、皿を洗う。洗い終えた食器は水気切るため籠に移す。最後に緑のスポンジでシンクを磨く。
(どうして、この僕が、こんな下々の仕事を、と思っていただけだ)
麻奈が帰って来なくても、この家さえあれば生きていける。麻奈が居なくても、自分一人で生活できる。簡単だ。
ただ、寂しい。
まだ、一日目も終わっていない。
六畳間のソファーの上に戻る。
「……宿直だなんて、女人がするなよ……女人は家にいるものだろう。人目につくようなことをして、恥ずかしいと思わないのか」
戯言だった。麻奈が顔を晒して外で働く。その対価として、この家があり、麻奈の生活があり、自分がここに居られると分かっている。
麻奈に甘やかされながら、自分はここで
背筋をぞわりと冷たいものが這った。
(松谷さん)
電話相手を呼んだ麻奈の声が蘇る。本当に、麻奈は仕事で帰ってこないのか。電話の相手は職場の先輩だと言っていた。では、麻奈はその先輩と一緒にいるのではないか。
心臓が、膨らんだ。全身を巡る血液の総量が一瞬で増えたような心地がして、途端、息が苦しい。麻奈がかっこいい、と言っていた俳優の顔が浮かぶ。ドラマで見たシーンが脳内で再生される。女優の顔だけ、麻奈の姿に変わっていた。
もう、麻奈がこのまま帰って来ないなんてことになりはしないか。いや、今回の外泊は二晩と聞いている。三日間ではない。けれど、三日あったら。何時に帰って来ると麻奈は言っていなかった。
脳内の映像を振り払おうと頭を振る。
麻奈が誰と過ごしていようと関係ないではないか。麻奈と同居しているのは自分だ。自分の立ち位置がゆらぐことはない。麻奈が最終的に帰って来るのはこの家だ。
自分には、麻奈しかこの世界で頼れる人がいない。麻奈のほか、誰もいない。もし、その麻奈が帰って来なくなったら。この家のほかに家ができたら。
自分の今が、薄氷の上にあったことに初めて気が付いた。麻奈がその危うさを見せないから安堵しきっていた。
電子メールの受信箱を更新する。新規のメールが二通と表示され、一瞬胸が高鳴った。しかし、どちらも通販サイトのダイレクトメールだった。麻奈からのメールではない。
マロは溜息をつく。
数年前に聞いた和歌。自分の元へ帰って来ない男への嘆きを込めた和歌。帰って来ない男を待つ女の歌はありふれた主題だ。
テレビを見ていても面白くない、笛も吹けない、連絡も来ない。待つ身とはこれほど苦しいものなのか。
ソファーに突っ伏すが、麻奈のことばかり頭に浮かぶ。
普段の麻奈が帰って来る時間になったがやはり帰って来ない。
帰ってくる筈の人が帰って来ない不安。
これまで自分が誰かにしてきた行いを突きつけられている。自分は、麻奈ほどの優しさを相手にかけて来なかった。
そもそも、自分は麻奈の帰りを待つことができる身分なのか。家族でもなければ、恋人でさえない。麻奈が自分を保護しなくてはならない理由はどこにもない。麻奈の善意の上に成り立つ毎日。麻奈に、いつ出ていけと言われてもおかしくない。自分達の状況は常に、彼女が蹴り上げる球を持っている。
胸に詰め込まれた石が重くて、今にも潰れそうだった。
気分を変えようと風呂に入ったが気分は一向に晴れない。髪をドライヤーで乾かしても、気分は重い。夜も十一時近くになったが眠気は一向に現れない。
電子メールの受信箱を確認して、麻奈からのメールが来ていないと、気分の落ち込み方が激しい。もう確認しないほうがいいのではないかと思う程だ。
でも、もしかしたら連絡が来ているかもしれない。淡い期待に誘われる。もう一度、もう一度だけ見たら、諦めて寝よう。
電子メールの更新ボタンを押した。新着メール一件。
「あ……」
思わず口から声が漏れた。メールの差出人は、麻奈。
『マロ、一人で大丈夫?私もいないし、使いたいならベッドを使っていいよ』
インフルエンザで体調を崩したとき、麻奈にベッドを借りた。治った後も、麻奈だけベッドがあってずるいとしばらく繰り返していたことを思い出す。
(大丈夫なんかじゃない。寂しい。早く帰ってきて欲しい)
少し考えて、言いたいことと違うことを返信する。
『大丈夫。疲れているだろうから、君も早く休むといい』
もう、今日はこれでメールも来ないだろうと、歯を磨きに行く。
磨き終え、あちこちの照明を落として回る。六畳間の照明を落とした時、まだパソコンの電源を落としていなかったことに気付いた。暗い室内でパソコンの画面が青く光っている。照明はつけずに、そのままパソコンの前に行く。電源を落とす前に、もう一度、受信箱を更新した。新着メール一件。麻奈からのメールだった。本文はただ一言。
『おやすみ』
たった四文字の平仮名によって、潰れそうになっていた胸に空気が入った。今度は胸が膨らんで苦しいが、温かくて心地良い。
目の前の平仮名と、同じ平仮名をキーボードで辿る。もう一度、メールを送った。
麻奈はこのメールに返事など期待していなかったに違いない。けれど、マロは自分でこのやり取りを止めたくなかった。
パソコンの電源を切り、せっかくの許可も下りたので、暗がりの中、四畳間へ向かう。
インフルエンザになった時だけ、入れてもらった麻奈の四畳間。同じ家に住んでいて、同じ石鹸を使っている筈なのに、この部屋は一段と麻奈の匂いが強い気がする。
レースのカーテンの向こうは町の灯りで明るい。マロはレースのカーテンを開けた。外の景色を見ながら、麻奈のベッドに上る。ベッドが小さく軋んだ。仰向けに寝転び、息を吸い込む。
『おやすみ』
瞼に浮かんだのはパソコンの画面。
自分は麻奈に恋をしているのだと、初めて気が付いた。
恋に落ちる順番がいつもと違うので気付かなかった。
いつもは女性の噂を聞いて、噂を頼りに恋をして、手紙を送り、女性の知性を測り、部屋を訪ねる。御簾越しに喋って帰る日を重ねた後、御簾の内側に入って夜を過ごす。相手の顔を見ることができる機会は、御簾内に入った時か、完全に事後だった。顔が分からないまま別れたこともある。
今回はまるで順序が違う。まず、麻奈の部屋で目覚めて、すっぴんの顔を見て、化粧後の顔を見た。麻奈の優しさに甘やかされながら、日々を重ねた。
麻奈が帰って来ない夜になって初めて気が付いた。
恋しい女性の寝所に忍び込んだのに、その人の姿はどこにもない。
『おやすみ』
メールの四文字と麻奈の匂いが頭を占拠する。
良い恋歌の一つでも思いつけばいいのに、思い浮かばない。
月が傾くまで和歌を考えてみたが、結局良い物はできないまま、それでも満ち足りた気分で瞼を閉じた。
サイドテーブルの灯りだけを残したホテルの室内。まっさらなシーツがピンと張られたベッドの上で麻奈は溜息をつく。
心配になってマロにメールをして、返事が来たまでは良かった。パソコンでメールができているということは、間違いなく、マロは家にいて、家も無事だということだ。
しかし、一通目に対するマロの返事が麻奈には分からない。平仮名であることは間違いないし、おおよその意味は分かりそうだが、自分の訳が正解なのかわからない。
(たぶん、早く寝ろ的なことを言ってるんだと思うんだけど。なんかよく分からないまま返事しちゃったけど、大丈夫だったのかな)
今日は仕事で張り切りすぎて疲れた。大勢の初対面の人と話すことは予想以上に体力を削る。体が重たい。もう寝ようと麻奈は照明を切った。部屋は真っ暗になる。
しばらくして、携帯電話が暗闇で光り、メールの着信を告げた。
麻奈は体を伸ばして携帯電話を取った。家のパソコンから送られたメール。
『おやすみ』
今度のメールは、麻奈にも読めた。
「……おやすみ」
少し笑って携帯電話を閉じた。
明朝早い時刻、マロは日差しに起こされた。カーテンを閉じていなかったので、朝日を遮るものがなかった。
二度寝をしようかとも思ったが、起き上がる。
麻奈が、喜ぶことをしよう。
あちらで自分が持っていたものは、この世界で全く役に立たない。笛も、鷹狩も、弓射も、漢籍も、身分も、血も何もかもが使えない。麻奈にとっては意味をなさない。
昨日のうちに冷凍しておいたご飯とカレーをレンジで温める。朝からカレーを二皿分完食した。
マロは家中の窓とベランダの戸を開け、風呂場へ向かう。この世界の常識には疎いが、誰よりもしっかりとテレビをみている自信がある。掃除特番は、既に見飽きる程見ていた。
カビ取り剤と風呂用洗剤は洗面台の棚の中に入っていることは知っていた。
ゴム手袋を嵌め、ジャージの袖を捲り上げ、テレビの中の人がやっていたようにタオルで頭を縛る。
自分は、驕りを捨てなくてはならない。元の世界ならいざ知らず、この世界で踏ん反り返るだけの理由を自分は持っていない。この世界における自分の価値を決定するのは麻奈からの評価だけだ。
元居た世界では、男が外に働きに出て、女が家で帰りを待つ。一方、今の自分達は、麻奈が外に働きに出て、自分が家で帰りを待つ。麻奈と自分は、男女の役割が完全に逆転している。
宿世と言おうか前世の縁か理由あって、自分はこの場所にいる。自分の本意ではない場所に突如来てしまったことは諦めなくてはならないが、この状況全てを諦める理由はない。
元居た世界で、女たちは男の気を引き留めるために苦心した。ならば、自分も麻奈を繋ぎとめるために相当な努力をする。
麻奈に好かれる努力を自分もしなくてはならない。
(それに、まぁ自分も暇だしな)
と、掃除用のスポンジで風呂場の壁を磨きながら、色々と理由付け、理屈を捏ね繰り回して考えてみたが、結局の所、麻奈に褒められたかっただけのような気がした。
その証拠に、悲壮な覚悟などを感じさせないテレビコマーシャルで聞いた明るいメロディーを口ずさんでいた。
ひもいと 甲斐路梓 @mochacco
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