第17話 雪がつもれば


(ほんっとーにお金がかかるお貴族様だよ……)

 会社で麻奈は溜息をついた。昨日マロを病院に連れて行ったが、戸籍も住民票も存在を証明するものが何もない以上、当然自費診療になる。自分と同じ診断名にも関わらず、診療後に請求された金額は保険証を使った自分と桁が違う。まさか、最高額紙幣が複数枚飛ぶことになろうとは。

(でも薬も何にも飲ませずに家で寝かせておくわけにもいかなかったし)

 自分に言い聞かせながら溜まったメールを一つずつ開封する。

 メールに書かれていた会議の日程と自分の予定を合わせるべく予定表を開く。

(その日は……午前中なら大丈夫)

 予定表を目で追っていて、思わず声を上げた。

「あ、そうだった」

 出張。麻奈の勤める部署では毎年春に宿泊を伴う出張がある。去年は三泊四日だった。当然今年もある。

(マロ……どうしよう)

 一人で家にマロを数日間残していくことになる。出張は特別な理由なく断れるようなものではないし、かと言ってマロを一人で残しておくのも、と頭を抱える。

「どうしたの?」

「松谷さん」

 先輩が顔をこちらに向けていた。思っていたより大きな声がでていたらしい。

「いえ、その……今年も大阪出張だなぁと」

 ああそれ、と先輩は頷く。

「今回その出張メンバー、黒ちゃんと俺と課長みたいだよ。よろしくね」

「よろしくお願いします。松谷さんがいらっしゃるなら心強いです」

 その言葉に照れくさそうに先輩は笑った。お世辞のつもりではなく、心から先輩が一緒だと思うと安心する。 

「俺、去年は他の仕事と被っていけなかったからさ、色々教えてよ」

「教えられるほどのことなんて何にもないですよ」

「またまた」

 でも、そうだ。自分の心配はない。就職してから毎年のように行っている出張だ。今回は先輩もいる。

 一方、マロは一人で数日間過ごすことになる。

(本当に火事とか事故とかは勘弁してよー)

 今日はまだ体調が回復していないだろうし、マロの体調が良くなるのを待って説明しよう。

 出張はまだまだ先のことだ。そのころには、マロも自分の家に戻っているかもしれない。

 そう思っている間に、出張の日は刻一刻と近づいてくる。

 インフルエンザからもすっかり回復したので、部屋割りを元の通りに戻したが、マロはしばらく自分のベッドがないことへの不満を述べていた。いついなくなるのか分からない赤の他人のためにベッドまでは買えない。しょうがないでしょ私のベッドなんだから、と軽く流している間にまた暦が変わっている。

 年度末近い三月。一月と二月にはらはらと雪が舞うことはあったが積もることはなかった。雪の少ない都心。このままこの冬は過ぎていくのかと思いきや、ニュースは一日中夜から強くなる予報の雪に対する注意喚起に忙しい。

 麻奈の会社も交通機関が止まる前にと早期退社をするよう指示が入った。

(雪ぐらいで大げさな)

 雪が多い所で育った麻奈は未だに関東人の、と言うより都心の人の雪に対する仰々しいまでの警戒が理解できない。雪なんて、降って当然のものなのに。

 しかし、雪で電車のダイヤが乱れ、人に囲まれ動けなくなるような車内に押し込められるのは勘弁願いたい。麻奈も多分に漏れず、家路を急いだ。

 列車の窓に映る薄墨を何層も重ねたような空。小さな無数の粒が舞っている。

(あ、降り出した……)

 真っ白な雪の粒。都内の雪は夜からの予報だったが、県境を跨ぐと違うらしい。

(傘なんて、持ってきてないや)

 最寄り駅のホームに降り立つと一層寒さが増していた。雪も勢いを増している。ホームから見える景色は一面雪を被っていた。この土地にここまで雪が降るのは珍しい。

 改札口の向こう。ダウンジャケットのジッパーを首元まで上げている男に目がいった。ダウンジャケットの下はスウェットと踵を潰したスニーカーとどこかだらしない印象の男。麻奈はその男に駆け寄る。男は麻奈に気付いて眉を寄せた。

「なんで?」

 男に向かってかけた第一声はこの言葉だった。男、マロは体の陰になっていた傘を出して見せる。

「テレビを見ていたら、多くの会社とやらが早めに帰るよう促したと言っていたからな。それで、外を見れば雪が降っているし、玄関に傘が置いたままだったから、もしやと思い。えきから帰って来るということは聞いていたからな」

 ニュースで多くの会社が早期帰宅を促したと言っても、麻奈の会社が同じように指示を出しているか分からないではないか。

「うちの会社、今回たまたま帰宅していいよって言ってくれたけど、毎回じゃないよ」

 友人や他の現代人相手であれば、携帯でメッセージを送ればわかることだが、遠くからマロに伝える連絡手段がない。マロのためにわざわざ携帯をもう一台契約するわけにもいかない。

「そうだったのか。まあ今回は結果として問題ないな」

「でもやっぱり連絡手段あったほうが良いよね」

 二人並んで駅の出口を目指す。

「人を寄越せば十分だろう。文遣いの小僧とかいるんじゃないのか」

「そんな人件費ありません」

 会話が少しくすぐったい気がした。マロの顔を見上げると、胸が微かに、けれど確かに高鳴った。

 しかし、すぐにあることが脳裏を過った。マロがここにいるということは、自宅には誰もいないということになる。そして、麻奈はマロに家の鍵を預けていない。

「マロ、嬉しいんだけどさ……家の鍵は?」

「家の鍵?」

「いつも私と出かける時、私いつもマロの前で鍵かけているよね?」

「僕はかぎなんて持っていない」

 つまり、玄関の戸に鍵を掛けず、開けっ放しで出てきていることになる。血の気が一瞬で引いた。

「もう!急いで帰るよ!」

「まあ待て。今日は寒い。こんびにでまたおでんとやらを買って帰ろう」

「まーたーこんどー!お豆腐も使い切らなきゃいけないし!」

 雪はあっという間に世界を覆っていく。自転車はまた駅の駐輪場で待機だ。マロは肝心な所が抜けていて、傘を一本しか持ってきていなかった。結局、肩を寄せ合いながら一本の傘に入ることになり、傘からはみ出した体に雪がかかる。コートに積もった雪が解け、服に染みる。

「雪道なんだから、スニーカーちゃんと履きなよ、ほら」

「うわ!急に止まるな!首筋に雪がかかったじゃないか」

「そのままで歩いてたら雪に靴取られるよ、かかっちゃったついでに履きなおしなって」

 鼻の赤くなったマロの顔を見て、麻奈は笑う。どれくらいマロは駅で自分を待っていたのだろう。

 少しときめきそうになったが、その間ずっと玄関の戸が開きっ放しだったと頭を振る。

 いつ終わるかも分からないこの関係。足元から冷気が昇って来る。パンプスの中で冷え切った足にもう感覚がない。

 靴をしっかり履きなおすため屈んでいたマロが起き上がるなり、掴んだ雪のかたまりを麻奈に向けて投げた。

 麻奈のベージュのコートに白い雪が散る。

「っちょっと!いい大人でしょ!」

「油断していた方が悪い。思い知ったか」言ってマロは意地の悪い笑みを浮かべた。

「最悪ー!首に雪がかかったのは私のせいじゃないでしょ!」

 麻奈は屈んで雪を掴むなりマロの肩に投げた。衝撃ではじけた雪の粒がマロの顔まで飛んだ。

「あ!また君はそうやって慎みのないことを!」

「私に慎みなんてもとめないでくださいー。やられたらやり返すんですー」

 言いながら麻奈は傘を持ったまま走って逃げた。

「待て!僕が持って来た傘だぞ!」

 マロは雪を掴んだまま追いかけてくる。

「その雪の玉を捨てたら入れてあげる」

「いや、僕のほうは二回雪が当たっているんだぞ!あと一回僕に攻撃権があるはずだ!」

「もう、マロ普段どんなテレビ見てんの。置いてっちゃうよ」

 マロと過ごすことに、慣れていく自分。いついなくなるかわからない人間なのに、マロがいることに慣れていく。

 笑いながら、心の隅で切なく思った。

 この降り積もる雪もすぐに消えてしまうにちがいない。


 結局、部屋は鍵がかかっていなくとも、何事もなかったようだ。帰るなり、麻奈はノートパソコンを引っ張りだし、マロに向ける。マロも麻奈がこの機械を弄っているところは度々見ている。調べものや、なかなか手に入らないものを取り寄せるのに使うらしいと理解している。

 麻奈がマロの素性を理解するために用いたのもこの道具だった。この薄い板を繋いだだけの道具の中におびただしい情報が溢れている。

「ここで電源を入れるの。マロ、押してみて」

 取りあえずの工程を踏まなければ麻奈は解放してくれないようだ。マロは麻奈に言われた通り、ボタンを押した。

「で、起動したら、これ。このマークの所にこのカーソルを合わせて、そう。二回カチカチって押して。これがメール画面」

「はぁ」

 受信箱にはずらりと通販サイトからの広告メールが並んでいる。麻奈が通販に利用するためのアカウントだった。

「今から試しに私からこっちへメッセージを送ってみるね」

 言うなり麻奈は自分の携帯を操作し出した。「で、このボタンを押すと新着がないかわかるの」マロの手からマウスを取り、操作すると新着メールが表示されている。

 本文は短かった。

『マロ、読めてる?』

 マロは麻奈を見て溜息をつく。

「読めている」

 なぜこの距離でこんなやり取りをしなくてはならないのか。もうじきずっと追っていたドラマも始まる。

「いいから!じゃ、それをメールで返事して!こっちのところにカーソル合わせてまたクリックするとそう、この画面。なんでもいいからマロ、言葉を入れてみて!」

 マロはキーボードに手こずりながらもなんとか言葉を入力した。マロの打ち込んだ文字を見て、そうだったと思い返す。

『よめる。むへなり』

(マロの言ってることはわかっても、マロが書いたものは読めないんじゃん)

 少しがっかりしたが、全くやり取りができない訳ではない。少なくとも自分が伝えたいことはマロに伝わる。

「……で、このボタン押すと」

 麻奈の携帯の画面が光った。新着メッセージが届いており、パソコンに書いた文字がそのまま表示されている。

 マロは思わず声を上げた。

「便利だな!文を届ける人もいないのに一瞬だ!」

「そうなの、だから何かあったらこれで連絡とるようにしよう」

「なるほど、ここで書いたものがそちらまで飛ぶんだな」

 麻奈が夜ご飯を作っている間、頻りに携帯電話が鳴った。マロが短文のメールをいくつもいくつも送ってきている。文面を見ても、理解できないものが多い。

「届いているのか、返事が一向に来ないぞ」と六畳間から声が聞こえる。

「届いているから、夜ご飯できるまでちょっと待って」

 麻奈は声を張り上げ、一つ溜息をつく。いけない玩具を与えてしまったようだ。先ほどからパソコンを離さない。

 プロメテウスの火。昔、先輩が行き過ぎた科学技術の暗喩として口に出していた言葉を思い出した。確かに連絡がつくようになったのはありがたいが、面倒も増える。このメール攻撃がいい例だ。

 しかし、必要な物だったと頷きながら、出汁に味噌を溶いた。

 マロがしばらく追っていたドラマの最終回。すれ違ってきた男女が最後の最期に結ばれる。

 集中して見ていた所でどこからかテレビの音以外の音がなった。鳴り続けている。人が見ている時に、とマロはのろのろと体を起こし音の出所を探す。ミニテーブルの上で先ほどのメッセージのやり取りにもつかった麻奈の携帯が音を鳴らしながら震えていた。

 この小さい物で遠く離れた人と会話ができるという。携帯の画面に表示されている文字『松谷先輩』。

 マロの目の前からぱっと持ち上げられた。見上げれば麻奈が耳に当てている。

「はい、黒川です」

『あ、黒ちゃん?雪大丈夫だった?黒ちゃん家まで遠かったでしょ?』

 電話の向こうからかすかに聞こえる声は確かに男のものだった。

「大丈夫でした。今もう家です。はい。ええ、ええ」

 会話の途中で時折、麻奈は笑った。自分が目の前にいるにも関わらず、誰かと楽しそうに会話する麻奈にマロは少し苛立ちを感じた。しばらくして麻奈は電話を切る。麻奈を見上げていたが、その麻奈はマロの隣に腰を下ろした。麻奈の視線はテレビに向いている。マロもその視線の先、テレビに戻した。

「この俳優さん、かっこいいよね。誰だっけ。名前が出てこない」

「僕に聞くなよ」

「マロ、しっかり毎週見てたでしょ」

「見ていようが名前なんて気にしていない。顔は分かる」

 物語終盤、プロポーズのシーンでテレビの画面いっぱいに鍵が映った。

「あ、そうだ」

 今日のように鍵を閉めないまま、マロが出かけるようなことがあっては困る。

 麻奈は四畳間の箪笥から小さな封筒を持って来た。

「はい、これ」とマロに手渡す。封筒の中には家の鍵が一つ。なんだこれは、と言いたげな視線に答える。

「この部屋の合鍵。今日みたいにマロも出かけて誰も家にいなくなる時や、一人で先に帰って来る時とかに使って。外から鍵を閉めたり開けたりできるの。日中出かける時とかはこれを使って。これがあれば玄関のドアが閉まっていても開けられるから」

「鍵?」

「絶対、絶対なくさないでね。なくなっちゃったら鍵取り替えなきゃいけないし」

「努力はする」

「努力するじゃなくて!ほんっとうになくしちゃだめだよ!この鍵があれば悪い人とか不審者だってこの家に入れるようになっちゃうんだからね」

 分かったのか、分かっていないのか。鍵をしばらく見つめていたが、すぐにテレビのほうに向きなおってしまった。

 自分はマロに甘すぎるかもしれない。マロのことも不審者と言えば不審者だと思う。平安時代から来た貴公子など嘘くさいにも程があるし、現実的にあり得ないと思う。けれど、そう思わなければ説明できない事象がいくつもある。確定的な証拠はないにしろ、本当なのではと麻奈が信じられるだけの状況は揃っていた。

 平安貴公子と現代OLの冗談のような同居生活はいつまで続くのか。

 ベランダの外、雪は音もなくしんしんと重なり積もる。月は雲に隠れていて見えない。

 ドラマは大団円で幕を閉じた。終わった後、マロは鼻を鳴らして、思っていたよりもあっけなかったな、と言った。

 ドラマはそういうものだと思う。過程が面白いのであって、最終話は大体盛り上がらない。それくらいがちょうどいいんでしょ、と答えた。

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