第16話 ゴミ捨て狂詩曲
次に目が覚めた時、特効薬のおかげか体は幾分軽くなっていた。麻奈はゆっくり体を起こし、六畳間に向かう。
六畳間でテレビを見ていたマロは顔を上げた。
「もう、良いのか」
「マロー、ごめんね。だいぶ楽になったかも」
「僕の祈祷が効いたな」
感謝せよ、と言わんばかりにマロは鼻を鳴らした。
「インフルエンザの薬が効いたんだよ」
寝て起きてを繰り返している間に少しずつ体調は回復していく。寝たり起きたりを繰り返しているうちに時間が過ぎていく。
木曜日の夜には六畳間で過ごせる時間も増えてきた。マロにうつさないようマスクを着用していたが、マロは麻奈が起きていると上機嫌だった。やはり女人は顔を隠していなくては慎みがどうたらとまで言っていた。
麻奈は適当に相槌をうちながらテレビを見ていたが、
「あ!明日は金曜日!」
と声を上げた。
毎週火曜日と金曜日はマンションのゴミ置き場に燃えるゴミの収集車が来る日。ちらりと横目でマロの顔を窺う。視線に気付いたのか少し眉を上げた。
「どうした」
「明日、金曜日なんだけど」
「きんようびだとなんだ」
「燃えるゴミをごみ捨て場に持って行く日なんだよね」
「そうか」
「そうなの」
そこで会話が止まる。会話のボールを投げたが見送られてしまった。言いたいことが全く伝わっていない。
「燃えるゴミっていうのはね、鼻をかんだちり紙とか、マロが食べたグラタンの紙皿とか、燃やして燃えるゴミね」
「そうか」
また会話が止まった。 僕が行こうか、という申し出を根っからの平安貴族に期待した所で無駄だったようだ。やはり、意を決して言わなければならないようだ。
「……だから、マロ。ゴミ捨て代わりに行ってくれない?」
マロは露骨に嫌な顔をした。
「……この僕がか」
麻奈は頷く。
「この僕が?」
マロは繰り返した。
「もうこのマンションなら夜のうちから出しても大丈夫だからさ、今行ってきてくれても良いんだけど。場所は知ってるでしょ?夜に笛の練習する時、私がついでに持って行った所、あそこ。覚えているよね」
「この僕に、君の役目を代われと?」
(ゴミ捨てって、私の役目だっけ?)
「役目っていうかさ、家事分担?助け合いっていうの?」
「この僕に下々の仕事をしろと?冗談じゃない」
(下々の仕事?)
その言葉に麻奈の堪忍袋の緒が切れた。
(いっつも私がしてるんじゃん!)
今の今までは小さなことだからと堪えていたが、堰切って溢れだした。
「だってお金稼いでくるのも、ご飯作るのも、洗濯も、掃除も全部全部私じゃない!マロは私に何かしてくれた?私だってやりたくてやってる訳じゃないし!体調が悪い時くらいマロが行ってくれたっていいじゃない!私はマロのお母さんじゃありません!」
言いたいことを全て言ってやったと肩で息をする。マロの顔を窺えば、驚いたように目を見開いていた。言い切った達成感と同時に言い過ぎたかもしれない、と小さな不安が顔を出した。が、その不安はすぐに消える。
「……僕の母はそのようなことをしないが」
マロの返答に、麻奈はがっくりと項垂れた。そうだ、この男は平安貴族。マロの母も使用人に囲まれていることは想像に難くない。以前にトイレの話題になった時、マロ達はおまるのような物(マロは
「……そうかもね」
諦めていた筈のことが顔を上げていたらしい。人は自分が当然と思っている認識をなかなか変えられない。自分ではなく他人の認識を変えようと思えばなおのこと。他人との価値観の衝突は消耗する。現代人同士でも気力がいるのに、千年以上前の常識で生きている人間相手では。黙って家事をし続けることと比べ、マロを説得するほうが面倒で手をつけていなかったことを思い出した。
(来週、火曜日に出せばいいか……)
と諦めた時、ふいにマロが立ちあがった。
「とは言っても、僕もまぁ暇だからな。この数日は特に。今回に限り、行ってやらんでもない」
「え?」
マロの顔を見上げる。口を尖らせてはいるが、特別に不愉快と思っている様子でもない。
「はやくしろ。僕の気が変わらないうちに」
言ってさっさと台所のほうに歩いて行ったので、慌てて後を追う。ゴミを集め半透明の袋に詰めた。
「これか」
ゴミ袋を片手に下げ、スニーカーの
「あ、でもマロ」
なんだ、と玄関のドアを開けながらマロは振り返る。
「ジャケット着ていかないと相当寒いと思うけど」
ドアの隙間から冷たい風が吹き込んでくる。寝間着にカーディガンを羽織っただけの麻奈も寒さに体を震わせたが、ジャージ上下のマロも冷気に驚いたのか勢いよく玄関のドアを閉めた。
「寒いぞ!寒いぞ!」
「そりゃ、寒いよー」
言いながらダウンジャケットを渡す。マロは舌を打った。
「誇っていいぞ。そして僕への感謝を忘れるな。この僕に小間使いのような真似をさせたのは君が最初で最後だ」
(ゴミを捨てに行くくらいで何を偉そうな)
自分の感情はひとまず飲み込む。全く働かないマロをゴミ捨てに行かせる。大きな進歩だ、と自分を納得させる。
「あー、ありがとう」
「心が入っていない」
「ありがとう」
ぶつくさ言いながらマロはジャケットに袖を通し、ドアの向こうへ出ていった。
「いってらっしゃい」
(いつも、私がやってたんだけどなぁ。私への感謝とかは全くないのに)
麻奈の体調もすっかり回復した土曜日の朝。六畳間に入り、マロの顔を見て思わず体が跳ねた。
マロはぼんやりとした顔で、部屋に入って来た麻奈を見上げた。顔が赤い。
「マロ……?」
嫌な予感が背筋を撫でる。まさか、とは思っていた。可能性があることも分かっていた。食事の場を分けたり、極力接触を避けたり、室内でマスクを付けたりと麻奈なりに工夫していたつもりだったが感染を防ぐことができなかったようだ。
「体が痛い……きっとゴミ捨てに行ったからだ」
「ゴミ捨てくらいじゃなりません。私のがうつったんだと思う」
「物の怪が僕のほうに来たんだ」
麻奈は寝室に戻り、体温計を持って来た。
「だから物の怪じゃないってば。はい、これ脇に挟んで」
スイッチを入れ、マロの前に差し出す。怪訝そうな表情で体温計を見るが、目に覇気がない。
「……なんだ、これは」
「体温計。熱を測って」
「測って何の意味があるんだ?」
「良いから早く」
言われてマロは緩慢な動作で体温計を脇に入れた。しばらくの間、やがて体温計が鳴った。
「なんだ?鳴ったぞ」
いつもよりリアクションが薄い。麻奈はマロから体温計を受け取り、画面に表示された数字を見て溜息をつく。
(38.2度……。インフルエンザとは限らないけどさ)
ほぼ家に引き籠っているマロがインフルエンザに限らずウイルスに感染するとしたら、経路はもう限られている。
「……寒い」
麻奈は立ち上がって四畳間に向かう。四畳間とベランダを隔てる戸を開け放ち空気を入れ替える。籠って熱を孕んだ室内の空気と冷たく刺すような外気が混ざり合う。
ベッドのシーツを剥ぎ取り、新しいシーツをかける。自分の掛布団と枕を持ってマロがいる六畳間に戻った。
「マロ、枕と布団持ってこっちに来て」
「何だ、急に」
声をかけてもマロが動かないので、持っていた掛布団と枕を祖ソファーに置き、代わりにマロが使っているタオルで作った枕と夏布団を抱える。
「いいから、早く。こっち」
促されて渋々マロは立ち上がる。
四畳間の、ベッドの上にマロの枕と布団を置いた。マロは訳が分からないと言った様子で四畳間の入口に立ったまま、麻奈を視線で追いかける。
「……たぶん、ベッドのほうが、寝やすいと思うから治るまでこっちの部屋で寝ていいよ。私が隣の部屋で寝るから」
「え?しかし……」
「明日までに熱が下がらなかったら、病院行くよ。マロは保険証も持ってないし、全額自己負担になっちゃうし、できれば病院行きたくないからこっちの部屋で寝て、ちゃんと早く治して」
自分も病み上がりで無理はできないが、さすがにこの状態のマロをソファーで寝かすのは可哀想に思えた。
戸惑いながらも言われた通り、マロはベッドの上で横になった。布団と毛布でマロの体を覆い、部屋を出ようとする。
「マメ子」
弱々しい声に呼ばれて振り返る。
「こちらのほうが断然寝心地がいい。普段マメ子ばかりずるくないか?」
麻奈はちょっと呆れて肩を竦める。
「私のベッドだもん」
部屋を出ていこうとした所で、マメ子、ともう一度呼ばれた。
「なに?」
「病院など要らないから導師を呼んでくれ。物の怪を調伏する」
「こないだ言ったように私に導師の知り合いなんていません」
「僕が死んでも良いのか」
「良くはないからしっかり体を休められるようにベッド貸してるんじゃん。しっかり治してよ」
言って再び部屋を出ようとするが、また引き留められた。何か食べたいと言い出した。「食べたいもの、ある?」
できるものは限られているけど、と付け加えた。
「……カレー」
「さすがにそれは元気になってからね。マロは本当にカレーが好きだね」
食欲があるのは元気の証拠と麻奈は少し笑う。自分が苦しんでいる間はカレーが食べたいなど思わなかった。ゼリーだとか軽い物ばかりが頭に浮かんだが、マロはそうではないらしい。
「おかゆとかで良い?あとでスポーツドリンクも持ってくるから」
言いながら部屋を出ようと背を向ける。
「マメ子」
もう一度、今度は幾分強い調子で呼ばれた。
「……何?」
僅かにマロは言葉を口にするか迷った様子だが、結局、口を開いた。
「もう少し、ここにいろ」
麻奈の心臓が大きく鼓動した。しかし、気の間違いと取り直す。
「ちゃんと寝た方がいいよ」
「……少しの間で良い。どんな話題でも良いから」
麻奈が六畳間の戸を開ける度に嬉しそうに笑ったマロの顔を思い出す。麻奈が部屋に籠っている間、マロは誰とも喋らず、テレビの中で繰り広げられる会話を聞いていた。マロは寂しかったのだろう、と思い至る。
「少しの間だけね」言ってベッドの端に座る。「どんなテレビ見てたの?」
熱で判断力だとか思考力が落ちているのかもしれないが、普段は澄ましている顔を本当に嬉しそうに崩した。
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