第15話 インフルエンザともののけ
麻奈はマロと二人で過ごした。クリスマスも、年末年始も。
離れて暮らす家族は麻奈と恋人の関係が続いているものだと思っている。年末に帰れないと伝えた時にも、年始の挨拶の折にも、恋人と別れたと言えなかった。
クリスマスのショートケーキや年越しの天ぷらを前にマロは始終上機嫌だった。年始の雑煮も餅が四角いことに驚いていたが、あっと言う間に餅の大袋が一袋消えてしまった。
平安貴族は現代の一庶民よりずっと寂しい食生活だったのだろうか。ただの白米でさえもマロは喜んで頬張る。米の柔らかさが違うと言う。
マロは一向に元の世界に帰る気配を見せないが、この奇妙な同居生活に麻奈も慣れてきた。
ただ、月の食費と水道光熱費は大きく跳ねあがった。通帳を見る度に溜息が出る。二人分になってしまった食費を可能な限り抑えたい。自炊が格段に増えた。最近は会社に前日の残りを詰めた弁当を持って行っている。
年明けてから年度末に向けて麻奈の仕事量は増えたし、家に帰ったら帰ったでマロの世話に追われる。気が付けば二月も終わりが近い。
(夜ご飯、どうしよう……)
今日も満員の電車に揺られながら帰宅を急ぐ。
今日は一日中、体が怠かった。頭も割れるように痛む。手の甲で額に触れるが楽になる気がしない。立っているうちに膝と腰の関節が痛んで来た。
(これ、絶対に体調が良くないやつだ。風邪ひいたかも。夜ご飯、マロの分は、駅のコンビニで何か買って帰ろう。自分のはいいや……)
食欲もでなかった。
まだ火曜日で週末まで遠いというのに。
「ただいま……」
鍵を開けて家の中に入ると、緊張の糸が切れたように体中の痛みが増した。
しばらく、玄関にしゃがみ込んでいると、麻奈の帰宅に気付いたマロが六畳間から顔を覗かせた。
「どうした?」
「んー……ちょっと。マロ、これ、マロのご飯」
言いながら麻奈はコンビニのレジ袋を掲げた。
「温めて貰ってきたから、もう食べれるよ」
マロは麻奈に近寄り、レジ袋を受け取った。マロがレジ袋に目を落とすと、前に好きだと言ったハンバーグドリアが入っていた。
レジ袋から麻奈に視線を戻す。麻奈はマロを見ないまま肩で息をしている。
「どうしたんだ、体の調子でもおかしいのか」
マロの声さえも耳に障る。
「ちょっと、ちょっとね。ともかく、マロはご飯食べてて」
「君の分は?」
レジ袋の中にはハンバーグドリア一食分しか入っていない。
麻奈は力なく首を振る。
「今日は、私、顔だけ洗ってこのまま寝るけど、マロはどうする?お風呂入る?」
日頃、風呂に入れ風呂に入れと言う麻奈が風呂に入らずに寝るのは余程のことだとマロにも分かった。
「いや、僕は別に」
マロは慌てて首を横に振る。
「そう、じゃあごめんね」
言うと麻奈はよろよろと立ち上がって脱衣所にある洗面台に向かう。化粧を落とすとそのまま寝室に行ってしまった。
麻奈の背中を見送ってから、マロは固唾を飲み込んだ。一度も自分を見なかった麻奈に、胸がちりりと不安で焼かれた。
しかし、ハンバーグドリアをこのままおいて置くこともできないので、六畳間に持って入り、ミニテーブルの上に広げた。
少し冷めたンバーグドリアを口に運んでいる間にも、隣の部屋から音が全くしない。普段であれば、麻奈が部屋に入ってしばらくは物音が聞こえるものだが、今日は全く聞こえない。
マロは部屋を隔てる壁から、テレビ横の仏像に視線を移す。阿弥陀如来は穏やかな微笑を浮かべていた。
麻奈は部屋で横になっていたが、ちっとも体は楽にならない。熱も上がってきているようだ。今が何時くらいなのかも検討がつかない。
暗闇の中、眠りと覚醒の間を意識が揺れ動きながら、麻奈は時折、笑いたくなるような衝動に駆られていた。かと思えば、悲しくて悲しくてたまらなくなる。全身の倦怠感と痛みを前に思考が繋がらない。
(このまま、私、死んじゃうのかな)
今度はただ、ただ不安がこみ上げてくる。
熱を抱えきれなく、涙が浮かぶ。
(ヤナにも振られて、何にも良いことがないまま、たった一人で、私は)
「マメ子」
部屋の外から麻奈を呼ぶ声がした。
「何?」
体を起こさずにそのまま返事をする。
「ちょこを食べてもいいか?」
マロの問いに、どっと力が抜けた。
「いいよ。好きなだけ食べな」
「マメ子」
「何?まだ何かある?」
言い方に少し棘が出てしまった。
しばらくの沈黙。
「君は何も食べないのか?」
「要らない。要らないよ」
(面倒。本当に、面倒)
「しかし……」
「大丈夫だから、マロはこの風邪がうつらないように離れていて。マロにうつったほうが大変だから」
返事がなかったので、また麻奈は意識を手放そうとする。しかし、寝室の戸が開いた。
「え?」
思わず目を開ける。
逆光で顔は見えないがマロが四畳間の入口に立っている。
麻奈の目が眩んでいる間に、マロは寝室に入って来た。
「……ちょっ!」
麻奈が制止する間もなく、マロは麻奈にペットボトルの水を差し出した。
「この部屋に入るなと言われたことを忘れたわけじゃない。後に叱られてもやむなしと思う。しかし、水くらいは飲んだらどうだ」
「……ああ、うん。ありがとう、マロ」
マロの手からペットボトルを受け取るが、手に力が入らず、キャップが回せない。
黒いマロの影が、麻奈の手からペットボトルを取り上げた。キャップを取って、再び麻奈の手に戻す。
「……ありがと」
(誰かがいるって、いいなぁ)
それがたとえ、戦力外の王子様であったとしても。
冷たい水を飲むと、すっと体が楽になった気がする。
マロの影は、麻奈が飲んだことを見届けると戸の向こうに消えた。部屋は再び真っ暗な空間に戻る。
マロの後ろ姿が何故か、目を閉じた後も暫く脳裏の映像として離れなかった。
翌朝になっても麻奈の状況は変わらず、体が重い。熱を測れば、四十度近かった。ここ数年見たこともない数字が体温計に表示されていた。
会社に高熱のため病院に行ってから出勤すると電話をかけ、心配そうなマロを置いて近所の病院へ向かった。
「インフルエンザですねー!インフルエンザ!」
と明るい調子で医師に診断名を付けられた。
インフルエンザがこんなに辛いものだとは思わなかった。振り返れば最後にインフルエンザにかかったのはいつだっただろうか、思い出せない。
調剤を待ちながら、職場に相談したところ、今日から週明けまで休むようにと伝えられた。
コンビニでスポーツドリンクやインスタント食品などを買い込み、家に戻れば、上機嫌のマロに迎えられた。
平日の日中、麻奈が家にいることは、まずない。
マロにとってみれば、麻奈は唯一のはなし相手だ。日中、職場で誰かと話す機会のある麻奈と違って、麻奈と会話しなければ、マロは誰とも喋らないことになる。麻奈が帰るなりマロは今日見たドラマやらニュースの内容について延々と喋り続ける。
ドラマについてこの世界の女は喋り過ぎで
けれど、誰かと話をしたいというマロの気持ちは麻奈にもわかる。普段は可能な限り、マロの話を聞くよう努めていた。
(だけど、今日はとてもじゃないけど、無理)
麻奈はマロとの会話をそこそこに
熱を持った肌の上を冷たいパジャマの生地が滑る。パジャマに着替えるのもやっとだった。ベッドの上に体を横たえる。ベッドのマットレスよりも、深く、深く、体が沈んでいくような心地がした。
視界は真っ暗になり、意識は遠ざかる。
全身の痛みと熱に
黒い服を来た家族や親戚が皆、肩を落として泣いている。鼻を啜る音があちらこちらから聞こえる。父も、母も、妹も、弟も、皆泣いている。自分はそれを上から見ていた。
僧侶の読経の声。
(これ、私のお葬式じゃん)
と思った瞬間に目が覚めた。
咄嗟に自分の体を確認する。重い体の感触。自分の体はベッドの上にあった。汗で張り付いた前髪を払う。
麻奈は、溜息をついた。
夢から覚めたのに、読経の声は止まっていない。夢の原因はこの声で間違いない。もうこの声の主が誰か、分かっていた。
痛む体を起こし、立ち上がる。六畳間の戸を開ければ、マロが床に座り、仏像を向かって手を合わせていた。
麻奈の姿にマロは顔を綻ばせる。
「もう具合は良いのか?」
「良くはないけど。マロ、お経なんて唱えないでよー、すんごい夢見ちゃったじゃん」
マロは不思議そうに首を傾げた。
「
「物の怪?」
予想外のマロの言動に、完全に虚をつかれた。
(物の怪って……唐傘おばけとか河童とか、そういう系?)
今の会話のどこに物の怪が関係するのだろうか。
「病は物の怪の仕業だろう。本来なら調伏のために
マロは、病の原因を物の怪と考えているようだ。そのため、物の怪を追い払うための祈祷が必要だと言う。
一方の麻奈が思うに、インフルエンザは決して物の怪ではない。頼りたいと思うは導師ではなく現代の薬と自分自身の免疫機能だ。
「導師の伝手なんてないけど、物の怪じゃなくて、インフルエンザっていうウイルスのせいだから。もう薬も貰ったからどうにかなるよ」
「どう考えても物の怪のせいだろう」
マロは頑としてインフルエンザウイルスを認めず、物の怪の仕業だと言い張る。
しかし、マロの意見を受け入れ、読経の中で眠れば、また同じような夢を見そうだ。
(体が辛い時に見たい夢の内容じゃないってば)
麻奈は溜息をついた。伝える内容を変えるしかない。
「昨日の夜、お水ありがとう。お経より、あのお水のほうが、嬉しかったよ。私、お経聞きながら寝るなんてなれてないから、かえって気が散っちゃうし」
「今まで、導師を呼べなかったのか?」
哀れむようなマロの目に、突っ込みたい気持ちもするが、飲み込んだ。
(やり取りの方が面倒な気がする。もうなんでも良いから横になりたい……心安らかに)
「うん、まあそんな感じ。だから、私の心配はしないで。マロのご飯。まだ冷凍庫に入っているでしょ。好きなの食べていいよ。チャーハンでもなんでも」
「君は?」
「スポーツドリンクあるし、大丈夫。もうちょっと休んだら、大丈夫だから」
マロの寂しげな顔に気付かないふりをして、六畳間の戸を閉める。六畳間と寝室の間の壁に体を預け、目を伏せた。
体調が悪い時に誰かが家にいてくれることは、頼もしく思う。昨夜ほどに、マロの存在をありがたいと思ったことはなかった。
(でも、できれば、手のかからない普通の人だったら良かったのに。平安時代の王子様とかそういうんじゃなくて、本当に、普通の、話が分かる人だったら)
溜息をついて、麻奈は寝室に戻った。
(物の怪とか、そういうこと言い出す人じゃなかったら)
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