第14話 松谷先輩

  

 麻奈は職場で机のパソコンに向かっていたが、少し前から手は止まっていた。

 麻奈の意識は家に置いてきたマロの元へ飛ぶ。昨日、立烏帽子を外し、髪を切ったことで、見た目ばかりは現代人に近づいたが、中身は変わっていない。

 平安貴族そのままだ。

 冷蔵庫に驚き、電子レンジを疑い、水洗トイレを絶賛し、テレビの虜になったマロを一人で家に置いてくるのは怖かった。怖かったが、仕事を休み続けることもできない。

 今朝のことを思い返す。

 マロの朝も、マロなりに忙しい。

 念仏を唱えたり、星の名前と唱えたりと、麻奈が理解し難いことで、マロの朝は彩られている。

 顔を洗っている麻奈に、西を向いて手を洗いたいとマロが言い張った。仕度を急ぐ麻奈はキッチンの水場で洗えば西向きだと言い捨てる。普段に比べ、早起きしたにも関わらず日頃の手順でできない焦りから手元が狂う。飛び出すように麻奈が家を出る時には悠々と前日の日記を綴っていた。

 駐輪場に辿りついて初めて、自転車は駅の駐輪場に金曜日から置きっ放しだったことに気付いた。

「……黒ちゃん」

 コンロの火を使っていないだろうか。電気の配線を弄っていないだろうか、何かにつまづいて頭を打っていないだろうか、ベランダから落ちていないだろうか。

 心配の種は尽きない。

「黒ちゃん」

「はい!?あ、松谷まつたにさん……」

 肩を叩かれ、ようやく呼ばれていたことに気付いた。隣の席に座る先輩が心配そうに麻奈の顔を覗き込んでいた。

「ごめんなさい!」

「黒ちゃん、昨日休んでいたけど、具合がまだ良くなってないんじゃない?無理して今日来てる?」

 関西の訛りが残る優しい声で麻奈を気遣う。

「ごめんなさい。もう、本当に大丈夫なんですけど」

「無理しないで。今日はもう定時で帰りなよ。ここ最近、調子がよくなかったみたいだし」

(……気をつけていたつもりだったんだけどなぁ。仕事にプライベートを持ち込まないように)

 何が原因だったのか、知られていないのが唯一の救いだった。

(彼氏に振られたせいで調子が悪かったなんて、そんなの恥ずかしくて先輩には絶対に知られたくない)

 麻奈はちらりと先輩を見る。

 先輩は、一言で表すなら爽やかな男性だった。シャドーストライプの紺色のスーツに濃い緑のネクタイを合わせ、整えられた髪でいかにも仕事ができそうな風体だし、事実、麻奈が仕事で誰かを頼らなくてはならない時に真っ先に浮かぶのは先輩の顔だ。

 ジャージを着た平安男児とは雲泥の差だ。

(先輩の彼女は、幸せな人なんだろうなぁ)

 こう思ったことは一度や二度ではない。

(クリスマスもきっと、彼女が喜ぶような演出を考えて……って、私はマロと過ごすのかな。クリスマスも?)

 去年も、その前もずっと、同じ彼と過ごして来たクリスマス。今年、彼は別の女性と過ごすのだろう。先輩は彼女と過ごすのだろう。一方、自分は、我儘な平安貴公子のお守りをして過ごす。

(クリスマスが終わったら、年末年始……。今年は実家に帰ろうかと思っていたけれど)

 彼と別れたとは、家族にまだ伝えられていない。

(マロがいるから、今年は帰れないよね。一人で何日もおいて置けないよ)

 家族には会いたいが、帰れない理由を見つけて安堵する。実家を避けているのではない。彼と別れたということが言いにくいだけではない。彼と別れたと知った家族の哀れみに満ちた目をみることが怖いのではない。

 マロを一人置いて、実家に帰れない。それだけだ、と頷く。

「やっぱり黒ちゃんまだ具合悪そうだね」

 先輩は心配そうに麻奈を窺っている。慌てて首を横に振る。

「い、いえ。あともうちょっとですから!がんばります!」

 言って麻奈はパソコンの画面に向き直る。あと、二時間で終業時間になる。

(体調、悪い訳じゃないけど、今日は早めに帰らせてもらおう)


 体調不良と誤解されていたのをいいことに、終業時間に職場を飛び出した。

 金曜日から最寄り駅近くの駐輪場に残したままになっていた自転車の鍵を外す。金曜日の夜から今日まで怒涛の展開だったと溜息をついた。しかし、感傷に浸る間なく、自転車に跨り、家路を急ぐ。

 マロと出会い、対応に追われているうちに気が付けば月がかわっていた。十二月の日暮れは早い。駅についた時には、辺りはもう真っ暗だった。

 自転車を漕ぎながら、ふと怖くなる。

 自転車のか細い電灯。太陽を失った闇に心もとない。

(どうして昨日今日出会った男を一人で家に残して来たんだろう)

 当然、マロを職場に連れていけないと思ったから、家に置いてきた。それはマロが他に行くあてのない平安貴族だと麻奈が勝手に思い込んでいただけで、マロが麻奈の思っている通りの人間ではなかったとしたら。

 悪意ある人間一人置いて、家を出てきたとしたら。これまでのどうしようもなく我儘な王子様ぶりは麻奈を信じ込ませようという演技だったとしたら。

 家の無事を一刻も早く確認したい。

 足に力を込める。自転車のスピードが上がった。

 神社の脇道をいつも通り走り抜け、横目で神社の社殿を見る。

(神様)

 神社は闇に包まれていて、社殿もぼんやりとした影しかつかめない。

(マロは私の願いを神様が叶えてくれてしまったから、いるんですよね)

 生まれてこの方、麻奈に天啓てんけいなど下ったことはなく、今回も麻奈の問いに神様からの返答はない。

 嫌な予感に指先がかじかんできた。家に帰りたいような、家に帰りたくないような、相反あいはんする二つを抱えて自転車を漕ぎ続ける。

 マンションの自室を見上げる。三階。カーテンは開いたままで、レースのカーテンの向こう。室内は明るい。

 マンションの駐輪場に自転車を止める時、物悲しい音色が聞こえた。聞き慣れないが、かすれた笛の音のようだった。どこかの家で小学生が下手な縦笛の練習でもしているのだろうか。

 マンションのエレベーターに乗り込み、自室がある三階のボタンを押す。

 エレベーターから降りた時、一段とその笛の音は近くなった。

 嫌な予感がする。ゆっくりと、自分の部屋に向かって歩く。笛の音はどんどん近づいてくる。

 鍵を差し入れ回す。自分の部屋の、玄関の戸を開ける。音が一際大きくなった。音の出どころは、この部屋の中だった。

 麻奈は大急ぎで、靴を脱ぎ、六畳間に向かう。六畳間の戸を開けるとソファーに腰掛けたマロが横笛を吹いていた。

 麻奈に気付いたマロは、笛から口を外す。

「遅いぞ。待ちくたびれたじゃないか」

 ずるり、と肩から鞄が落ちて、麻奈もその場にへたり込む。

「……今日から仕事だからって言っていたよね」

「言っていたな。でも宿直とのいではないんだろう?女房勤にょうぼうづとめとも違うようだし。昼には仕事が終わっていたんじゃないのか?」

 マロにとって仕事とは、急ぎの案件もなく、宿直でなければ昼に終わるものらしい。

「私の仕事は朝から夜までなの。普段はもっと遅いの。今日は特別早く帰って来たの」

「そうか」

「……マロ、ずっと笛吹いてたの?」

「ああ。しばらくはてれびをみていたが。元の世界に戻った時に笛の腕を落としていることは避けたいと思って」

 ここでは漢詩を学ぶことも、蹴鞠の練習もできないからな、と付け加えた。

 マロにとって笛の技能とは職務上必要なものらしい。しかし、ここは現代日本。すぐ傍に様々な形態の家族や人が住む集合住宅。

「……マロ、気持ちは分かるけど、家の中で笛の練習はだめ。近所迷惑になるから」

 麻奈の言葉にマロは眉尻を吊り上げた。

「僕の笛が迷惑だと?先の帝に当代一とお褒めいただいたこともある。その僕の笛が他人の迷惑になるというのか?」

 麻奈は先ほどのあの掠れた不安定な笛の音色が良いと思わなかったが、マロの世界では大絶賛されるという。

「上手い下手じゃないの。ともかく、家の中じゃ笛を吹いちゃだめ」

「家の中で笛を吹いてはいけないなぞ意味がわからん」

「マロの家と私の家じゃ住宅事情が違いすぎるから。マロの家は広かったんでしょ?」

 今にも怒り出しそうなマロを宥めて、麻奈は溜息をつく。

「それはまあ、そうだろう」

 マロは憮然と頷く。

 麻奈が思い描く平安時代の貴族の邸宅といえば、庭に大きな池まであって舟遊びができそうな大邸宅のイメージだ。

 一方この麻奈の部屋は。

「でも、この家はすぐお隣に別の人が住んでるっていったよね」

「聞いたが?」

「エレベーターからまっすぐ廊下があったでしょ。マロも覚えているよね」

 マロは頷く。

「あの廊下の奥から、エレベーターの前までの間に、いくつもこの部屋と同じような部屋があって、他の人が住んでいるの。で、下の階にも上の階にも家があるでしょ。その中には夜から仕事でこの時間は寝ていたい人もいるわけ。それなのに、音が聞こえたらどう?眠れない人だっているでしょ。だから、家の中じゃだめ。絶対、だめ」

「じゃあ、僕はどうやって君が帰って来るまでの時間を過ごせばいいんだ。体よく監禁されているようなものじゃないか」

「私は別に監禁してないでしょ」

「外に行く場所がないんだ。家の中にずっと閉じ込められていたんじゃ、監禁と変わらない」

 麻奈は溜息をつき、立ち上がる。

「……わかった。まず、ご飯食べてから、笛の練習ができそうな場所を探そう」

 マロの顔がぱっと明るくなる。

「食事か。昼のも悪くなかったぞ」

 ミニテーブルの上には昼に食べたらしいグラタンの紙皿がそのまま置かれていた。

「それは、良かった」

 麻奈はまた溜息をついてその紙皿を持ってキッチンに向かう。

 自転車を漕いでいる間に感じていた杞憂はどこかに消えていて、一瞬でも怖いと思った自分が馬鹿らしく思えた。

 結婚するよりも前に手のかかる子供を預かるようになった気分だ。

 まだ子供なら可愛げがある、と自分の考えに首を振る。

(いい大人なんだから、自分の食べた分の片づけくらいしてくれてもいいのに)

 米を炊こうと炊飯器を見る。

(お米も炊いておいてくれたらいいのになぁ)

 米を量って、流水で研ぎ、炊飯の用意をして、炊飯器のスイッチを入れる。

 根っからの王子様であるマロにこの作業を願うことは、酷なのだろうか。

 何回目かも分からない溜息をついて、麻奈は冷蔵庫から豆腐を取り出した。


 夜ご飯の後、約束通り笛の練習が出来そうな場所を探して歩いた。

 近所の公園では、どうしても人家が近い。結局、市役所の傍にある運動公園の端で落ち着いた。ここなら夜間に人の通りもなければ人家も遠い。

「ここならいいんじゃない?」

 麻奈の言葉を聞くなり、マロは立ったまま笛を吹き始めた。

 夜の闇に、吐息に乗った笛の音色が響く。

 麻奈は少し離れたベンチに腰を下ろした。電灯に照らされた息が白い。

 いつ終わるかもわからないマロの笛を聞きながら、ぼんやりとしていたが、手元の携帯が震えた。

 携帯を開くとメッセージが一件届いていた。

 差出人の名前は『松谷先輩』。

『お疲れさま。明日も無理しないで、手伝えることがあったらいつでも言って』

 麻奈は溜息をついた。

 優しい先輩を騙して帰って来たような気がして、申し訳なく思う。

(大丈夫です。ご迷惑をおかけしました。明日からはがんばります……っと)

 返事を打ち込み、顔を上げるとマロがこちらを見ていた。逆光で、マロの顔までは見えない。いつの間にか笛の音が止んでいたことに気が付かなかった。

「どうしたの?寒くなった?」

「何をしていたんだ?」

「職場の先輩から連絡があったの。だから、それに返事していたの」

「ふうん」

 言うとマロはまた麻奈に背を向けて笛を吹き始めた。細い月が暗い空に浮かんでいる。

 月を見ながら、笛を聞く。

 風流とかみやびだとかは、こういうことなのだろうか。

(寒い、早くマロ吹き終わらないかなあ。曲の終わりが全くわかんないよ。他の曲始めたの?全くわからない。なんでもいいから早く終わって)

 一生をかけたとしても、このおもむきが理解できるようになるとは思えなかった。


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