第13話 彼を探して三千里

 明朝、まだ日も地平線から顔を出す前に、麻奈は物音で目を醒ました。確実に、隣の六畳間から音がする。

 カーテンの外も未だ闇の中、時計を見ればまだ五時前。溜息を一つついて起き上がる。床に足をつければ、冷たい床に体が震えた。暗がりを手探りで歩き、六畳間の戸を叩く。

「マロ、起きてるの?どうしたの?寒かった?」

 闇の中から声が帰って来る。

「いや、寒い訳じゃない。出仕の支度を、と思ったんだが必要なかったな」

「どんだけ早い時間に出勤してたの」

「いや、この分だと遅刻だった」

 平安貴族の朝は麻奈より三時間近く早かったらしい。とは言え、休日のこの時間に起こされてはたまらない。

「私、もうちょっと寝てもいい?今日は日曜日だし、八時くらいになったら起きるから」

「僕も、そうする」

 それを聞いて、麻奈は寝室に戻る。昨日のことが夢ならばと思っていたが、残念ながら、現実だった。また今日も、騒がしく忙しい一日になりそうだ。

(今日はマロの服とか、買わなきゃだよね。あの着物、洗濯したいし)

 いつまでもあの臭い狩衣姿では、困る。そう思いながら、また目を閉じた。


 日が中天にかかる頃、マロの服を近所の衣料品チェーン店に買いに行った。

 服を一式揃えることも、一苦労だった。身長があるので、ズボンの裾あげをしないで済むのはありがたいが、何しろもれなく質問してくる。これは何だ。どうやって着るのか。質問に答えてやりながら、ジャージやスウェットだけでなく、ズボン、ニットとフリースやダウンジャケットを買い物かごに入れた。マロが自分の家にいつ帰れるのか分からない。真冬の足音は間近に迫っている。無駄になるかもしれないと思いながら、スニーカーも安い物を一足買った。一つ一つの値段は高くないが、まとめると給料日前に痛い出費だ。

 麻奈にとって一番の痛手は何を買っても、何を着せても、マロが烏帽子姿ということだった。麻奈からすれば異常と思うほど、烏帽子をとることに抵抗を見せる。灰色のパーカーとスウェットに烏帽子と浅沓を添えたちぐはぐな装いに、挙動が不審とくれば人々の視線はマロに集まる。

(これならまだ着物姿のほうがましだったかも。統一感はあったし)

 大きなビニール袋二つ分にもなったマロの服。昨日は大人しく一人で荷物を抱えて帰ったが、今日の荷物はマロにも手伝って貰いたい。何しろ、マロの着る物の他に何も入っていない。

「ねえ、マロお願い。片方持って」

 途端、マロは嫌な顔をする。僕がか、と言わんばかりだ。

「お願い。片方は私が持つから」

 麻奈が袋を差し出したまま、足を止める。しばらくマロは黙って麻奈の手を見ていたが、溜息をついて、袋を受け取った。出費をして、溜息をつかれるのは気分が悪い。家までの道中ずっと、重いだの、なぜ僕がだの言っていたが、麻奈は聞こえないふりを貫いた。私も片方持っている、誰のための服だと言いたいが、我儘な王子様を招いてしまったのは自分だと思い、堪える。

 気が付けば日曜日の日も暮れた。光陰矢の如しというが、マロが現れてから一日のうち長い時間と短い時間が目まぐるしく入れ替わる。気が付いた時には、体が疲弊していて、時間が過ぎている。帰ってきてから服を一通り確認したあと、またマロはテレビに付きっきりだ。マロの相手をテレビに任せ、麻奈は夜ご飯を作り始める。

(今日は、カレー。作っておけばしばらくご飯を炊いて、お鍋を温めるだけでいいもんね)

 明日は仕事を休むつもりでいるが、ずっと休み続けることはできない。マロに生活の全てを合わせることは不可能だ。しかし、不安は尽きない。ガスコンロに電気製品、使い方を誤れば危険なものはいくらでもある。帰ってきたら家が無くなっていたなど、笑い話にもならない。

 昨日読んだ、『鹿中将物語』のあらすじを思い出す。後半部に出て来る女性『女君』は『中将』を家に置いて外出してしまう。『女君』が『中将』に振る舞った料理と、麻奈がマロに食べさせた料理は一致する。ここまで偶然が重なるようなことはないと麻奈は思う。物語を読む前に、チョコやうどん、チャーハンを食べさせた。物語を全く知らなかった自分が、物語に出てきたような食事をその通りに出した。偶然、で片付けることができない。物語中の『女君』は自分で、『中将』はマロだと麻奈は思う。その他に理由が考えられない。

 カレーのルウを鍋に投下すれば、カレーの匂いが台所だけでなく、部屋中に広がる。匂いに誘われたのか、マロも六畳間から顔を出した。

「何を作っているんだ?」

「カレー。いい匂いでしょ」

「変な匂いだ。本当に食べる物なのか?」

 マロは怪訝そうな顔で麻奈を見る。マロのいちいちに腹を立てては身が持たない。聞かなかったことにする。聞かなかったことにするのは、得意だった。

「もうちょっとでできるよ。楽しみに待っていて」

「期待できない」

 そう言ったマロはカレーライスが大層気に入ったようで、スプーンが止まらなかった。三日は持つと踏んでいたカレーが、明日一日分にもならない。

「気に入ってくれて良かった」

 マロの食いつきに驚きながら、三杯目のおかわりをよそう。

「そこまで気に入ったわけじゃない」

 マロは少し拗ねた顔をして、目の前に置かれたカレーをスプーンで混ぜる。

「マロが食べたいって言ったら、いつでも作るよ」

 麻奈の笑顔に、マロは何か言いたそうに口を開きかけた。

 しかし、結局マロは言いかけた言葉を飲み込んだ。飲み込んで、カレーを頬張った。


 翌朝。しばらくぶりに麻奈は有給取った。平日に時間ができることは嬉しいが、自分のための時間はとれない。

 今日のマロもパーカーとチノパンに烏帽子を合わせている。足元はスニーカーに変わったが、烏帽子のインパクトを補いきれない。

 マロの服装について麻奈はこの三日あまりの間で諦めの境地に達した。

 マロを連れて、地域の警察署に向かう。

 この世界に彼を探している人はいないのでは、と思う。

(彼はきっと物語の『中将』その人で、『藤原佳敏』本人だと思う)

 しかし、もしかしたら、彼を探している人がいるかもしれない。麻奈が思い込んでしまっていただけかもしれない。これまでの流れは全て偶然が重なっただけかもしれない。マロは記憶喪失になった上、行方不明になっていた現代人かもしれない。

 僅かな可能性に賭けて、行方不明者の照会を依頼したが、該当しそうな届け出はないということだった。彼を探していると思しき届け出がされたら連絡してほしいと頼みこみ、すぐに警察署を後にする。

(いなくなってしまった家族や身近な人を探すための捜索願なんだろうなぁ。目の前にいる人が誰で、どこから来たのかなんて、本人に聞けばわかることってことだろうなぁ。その通りだと、思うもの)

 麻奈は後ろをついてくるマロを振り返る。

 麻奈が窓口で話している間、窓口の中の人も、外で待つ人も、直視はせずとも、マロを意識している。麻奈と話していた人も、ちらちらとマロを窺っていた。

(こんなに怪しい男がいたら、そりゃみんな警戒するわ)

 自分の顔を見られていることに気付いたのか、マロが眉を顰める。

「どうした?」

 麻奈は首を振る。

「ううん。なんでもない。あと、一か所行こう」

 携帯電話で呼んだタクシーに乗り込む。

 マロはタクシーが余程気に入ったのか上機嫌だった。タクシーに乗っている間、運転手に絶えずこの車はどうやって動いているのだと質問攻めだった。運転手は困った様子で曖昧に笑っていた。どうやって車が動いているかなど、麻奈も説明できない。申し訳ないと思いながらも、疲れていた麻奈はマロを止めなかった。

 タクシーが止まる。市役所に来るのは久しぶりで、引っ越しの時以来だった。必要な時は必要だが、用がなければ近づくことのない場所だ。エントランスをくぐって目的の場所を探す。

 振り返ると、マロは農産物を特集した展示物の前で足を止めていた。

「マロ、すぐ終わるからそこ居てもいいよ」

 マロは頷く。麻奈はマロをその場に残し、警察で教えてもらったとおり福祉と書かれている窓口を探す。窓口の傍まで近づくと、眼鏡をかけた男性職員が席から立ち上がった。

「はい、こんにちはー」

「こんにちは、あの、すみません。ちょっと、相談したいことがあって…」

 どうぞ、と窓口の椅子にかけるよう促される。

「ちょっと、今、身元の分からない人を、保護っていうか…家に置いているんですけど…あの、そういう人を探しているとか、そういう相談とか、ありませんでしたか?」

「最近。最近そういう相談とかは窓口には来てないと思うなぁ。人探しってなるとやっぱり警察とかじゃない?身元不明の人だったりで一人で生活できないって人の保護はするけど」

「やっぱり、そうですよね」

「身元の分からない人を保護してるって言っていたけど、もし、お姉さんも困っているなら、行く場所がない人を受け入れる場所もあるよ?」

 行く場所がない人。

 自宅のトイレで泣いていたマロの背中がフラッシュバックする。

(……そうなったら、マロはどうなるんだろう)

 関係ないじゃない、できることはした、と言う自分と。

 自分の身勝手な願いで彼はここにいるかもしれないのに、と問う自分。

 神社で聞いたマロの声がよみがえる。

(ならば、僕を信じないだろう他に頼るよりも、僕は君を頼みにしたいと思う)

 麻奈は、首を横に振った。

「……えっと。またに、します。今は、大丈夫です」

 馬鹿なことを言っている、と自分でも思った。ここで頼んでしまえば楽になる筈だった。

 本当に、自分一人で、背負わなくてはならないことなのか。そう思っても、考えても、マロを放り出すことができない。お願いします、私はこれで、と言うことができない。

 どうしても、玄関で嘔吐する直前のマロの顔が、頭から離れない。

 自分が、飲み込む他ない。麻奈は喉に詰まっていたものを飲み込んだ。

 気を取り直し、もう一つ、聞いておく必要がある。マロのいう、頭弁の馬。

「あ、あの最近、この辺で馬がいたっていうような話とかってあったりしませんでした?神社の傍とかで……」

「馬って、馬?あの馬?この辺で?」

 恥ずかしくてたまらないが、麻奈は頷く。

「いやー聞いてないですね。馬?他の課に聞いてみます?」と後ろでパソコンに向かっていた別の男性職員が首を傾げた。

「あ、いえ。はい。なんでもないです。私の勘違いだと思うので」

 言って慌てて麻奈は席を立つ。自分で自分の耳まで赤くなっている感覚があった。

「そう?……ま、でも。なにかあったら相談に来てください」

 男性職員に見送られて、麻奈は窓口を離れた。足取りは、決して軽くならない。けれど、もう歩けないとは思わない。

 展示物を眺めていたマロに声をかける。

「マロ、帰ろう」

 言えば、マロは疑いもせずに麻奈の後に付いてくる。

「何を見ていたの?」

「いろいろ。この世界は文字を横に書くのか?」

「そうだねー。横書き多いよね。そう言えば。なんでかな?」

「僕に聞くな」

 取り留めのない話をしながら、市役所を出る。

 あとは家に戻って明日からの流れについてもう一度確認しておこう。電子レンジの使い方をもう一度教えよう、と麻奈が考えていたとき。

「マメ子」

 マロに呼ばれたのは初めてだった。麻奈は少し驚いてマロを見る。

「なあに?」

「僕の恰好、そんなに変なのか?誰も彼も、僕を見る。先ほどからすれ違う男は皆、冠を被ってもいなければ、髻も整えていない。君も、そうだ、君も髪は短いし。傷んでいるし、手入れをしていないのか?この世界の者は皆僧籍なのか?」

 麻奈は肩甲骨のあたりまで長さのある髪を茶色に染めている。現代の感覚で言えば、決して短くはない。

「そんなわけないじゃん。えーっとなんていうのかな。百年以上前に外国の文化が入ってきて、いつの間にかちょんまげだとかっていうのが主流じゃなくなっちゃったんだよね。っていうか!私も髪短くなんてないし、わざわざ染めてるんだけど!」

「違うのか?その髪は傷んでその色になっているんじゃないのか?」

「失礼な!お金払って染めてるんだよ!」

 染めた方が良い、と思っているから時間と予算をかけて髪色を保っているというのに。

「女子の髪は烏の濡れ羽色の長く美しい髪が良いと思うが」

 教科書に載っている平安美人のような髪。マロの好みがそこにあるだろうということは分かる。麻奈の考える美だとかおしゃれとは違う。

「マロと美的感覚が違うみたいだからしょうがないよ」

 マロは、その言葉に何度も頷いた。マロも彼なりにずっと考えていた。

「……僕も、僕もこの世界に馴染む努力をすべきなのか?」

 マロの言いたいことがわからなくて、麻奈は首を傾げる。

「どういうこと?」

「僕も、髪を切ったほうがいいのか?切れば、この不躾な視線から解放されるのか?この世界で僕だけ浮いているようなことはなくなるのか?」

「まあ、そんなに目立たなくはなると思うけど……」

 その前にまず、烏帽子だけでもやめてみてはどうか、と提案したい。烏帽子を被らないだけでも見た目の衝撃は緩和されるだろう。

「では、わかった。やむをえない。マメ子、僕の髪を切れ」

 麻奈が口を開くより先に、マロが言い切った。

「え?私、私は、人の髪なんて切れないよ」

「君はどこで髪を切っているんだ?」

「都内の美容室だけど」

「では、そこに連れていけ」

「えーっと、でも……」

 美容室は少し値段が張る。散髪の料金も電車賃も支払うのは麻奈だ。定期的に通っていて、担当の人もいる場所にマロを連れていくことは気が引ける。最悪、新しい美容室を探さなくてはならなくなる。

 麻奈は少し考える。考えて、閃いた。

「……髪切れるところに行けばいいよね」

 向かったのは、駅前通りにある千円で髪をカットしてくれる店。平日の昼間ということもあり、店内は空いていた。他に二人ほど客はいたが、すぐに案内してもらえるようだ。席の用意をしてもらう間に、マロは烏帽子を取って、髪をおろした。

 現代の衣服に烏帽子を合わせたマロを連れて歩く恥ずかしさから解放されると思えば、千円は決して高くない。

 やがて、大きな鏡の前にある調髪用の椅子にマロは案内された。

 麻奈は待合席に腰掛け、雑誌を広げながらマロを待つことにした。

 しかし、雑誌を読み始めてすぐに、店員が躊躇いがちに声をかけてきたので、麻奈は顔を上げる。

 お連れ様が、と困り顔を浮かべた店員の向こう。首から下がすっぽりとクロスに覆われたマロが泣いていた。

「どうしたの?マロ」

 麻奈は鞄からハンカチを出し、マロに渡す。マロはそのハンカチで顔を拭う。霧吹きされた髪が湿ってつやつやと光っている。

「仏門に入るはいずれ果たすべき本願と思っていたが、昨日今日とは思わなかったなぁと」

 髪の毛を切るくらいで仏門に入れるものなのか麻奈は疑問に思うが、マロの嘆きは深いようだった。

「そんな、髪を全部剃り上げて出家するわけじゃないんだから、そんなおおげさな」

「わかってはいる、わかってはいるが」

 涙が止まらない。マロの両目から水が溢れて来る。

「やめる?やめてもいいよ。無理に切らなくったって、いいんだから」

 既に店中の視線が集まっている。ここまで恥ずかしい思いをしたのだ。やめておきます、ということくらい造作ない。

 しかし、マロはふるふると首を横に振る。

「いや、いい……ひと思いにやってくれ」

 麻奈は溜息をついて、若い店員に向き直る。

「ご迷惑おかけしてます。すみませんが、こう言ってるので、お願いします」

「お、お切りして、良い、ということですか?」

 驚いた様子で、店員は麻奈に聞き返した。聞いた通りの内容だと思いながらも、もう一度依頼する。

「はい、お願いします。切ってほしいみたいなので」

 その言葉を聞いて、店員は戸惑いながらもマロの髪に鋏を入れた。髪がはらりはらりと床に舞う間、ずっとマロの忍び泣く声が店内に響いていた。麻奈は待合席に戻り、雑誌を広げながら溜息をついた。

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