第12話 今日はもうおやすみ

 麻奈の部屋。六畳間で麻奈は仁王立つ。

 普段の休日であればゆったりとした時間を過ごしている筈だ。今日は違う。夕食は簡単に冷凍チャーハンを温めて済ませたが、本題はこれからだ。マロは食事以外ずっと六畳間でテレビを見ている。

 マロがテレビを見ている間に麻奈はシャワーを済ませて、上下スウェットに着替えた。

「……じゃ、マロ。約束通りマロにお風呂入ってもらうからね」

 マロはテレビから視線を外し、麻奈を見上げる。

「今日は悪日だろう?本当に入らなくてはならないのか?」

 マロはやはり風呂に抵抗があるようだ。そうでなければ、このようなにおいにならない。

「私の家にいるならね」

 麻奈は毅然とした態度で言い放った。スーパーから荷物を持って帰る間、マロが全く手伝わなかったことが、麻奈の中でしこりになっている。

「わかった」

 渋々ながらもマロは頷いた。

「お風呂に入らなかったら病気になるじゃない。皮膚の病気が怖いって知らないの?」

「悪日に水を浴びると毛穴から邪気が入り込むんだぞ。知らないのか」

 そのような迷信を信じているから、このにおいになっているのだろうと溜息をつく。マロの不平を黙殺し、スーパーで買った下着と弟のスウェットを渡す。

「じゃあ、これね。さっき説明したから大丈夫だよね」

「……ああ」

 返事をすると、マロは六畳間を出ていった。

 マロの足音に耳を欹てる。脱衣所に入ったことを確認すると、ノートパソコンの電源を入れた。マロが風呂に入っている間に、藤原佳敏についてもう少し知っておきたい。

 インターネットの検索画面。再び彼の名前を入力する。表示された彼に関するページを開く。

 左大臣の息子。平安時代中期の公卿・作家……。先ほど読み飛ばしていた項目に目が行く。

「鹿中将物語ってどんな話なんだろう」

 今度は鹿中将物語について検索する。

(平安中期に成立した物語。作者は藤原佳敏。前半部は主人公・中将の恋物語、後半部は異世界の冒険譚で構成される……異世界の冒険譚?)

 物語のあらすじを探す。ありがたいことに要約されていた。内容を流し読みする。

 前半部は現代女性の麻奈からすると、「何この男、殴りたい」という感想しか出なかった。

 一方後半部は。

 麻奈は愕然とした。

 酔った中将が馬を走らせて辿りついた先の世界。後半部に女性は一人しか出てこない。異世界の住人、物語中で女君と呼ばれる女性一人。

(……私?)

 中将は異世界で行く当てのない所をこの女君に拾われる。女君の家は馬小屋のように狭いが、中に居れば冬の寒さも夏の暑さも感じないように作られていた。

(これ、もしかして、私の家?……馬小屋ってちょっと聞き捨てならないけれど)

 中将が食べたことも、見たこともないような食物が溢れていた。とろけるように甘い焦げ茶色の菓子。細長く白い餅のようなものが汁に浮いたもの。しっかり味付けされた茶色い米。白米に嗅いだことのないにおいがする液体をかける料理。

(こっちはチョコのこと?で、お昼のうどん?で、チャーハン。明日の夜ご飯、カレーのつもりだったけど……っていちいち見ていたらマロがお風呂から出てきちゃうっ!もっと読み飛ばさなきゃ)

 日中、女君は中将を残し、家を離れる。中将は毎日、女君の帰りを彼女の家で待つことになる。

(いや、それは、休みが明けたら出勤しなくちゃいけないし)

 都探しなど時を共有するうちに、中将と女君は互いに惹かれ合うようになる。しかし、別れは唐突にやって来る。気が付くと中将は自宅の庭にいた。

(惹かれあうようになる?いやいやいや!あり得ないでしょ!どう考えても!!)

 麻奈の思考を遮るように、悲鳴が響いた。

「うああああああああっ!!」

 続いて何かが落ちるような大きな音。麻奈は急いで脱衣所の前に向かう。

「どうしたのマロ!」

 脱衣所の前の廊下で呼びかけるが、反応がない。

 仕方なく脱衣所の戸を開けるとマロの脱いだ衣類がそのまま床に落ちていた。浴室の磨りガラスに肌色が見える。

 浴室。身元不明の男。転倒死。

「マロ、大丈夫!?ねえ、大丈夫?!」

 磨りガラスの向こうで肌色が、起き上がる。

「……なん、とか」

 返事があったので、麻奈は安堵する。

「なら、良かったけど…気を付けてよ。ちゃんと浴槽にも入ってね」

 言って脱衣所を出ようとするが、その前に床に落ちていたマロの衣類を拾い上げる。はらりと懐紙が舞う。着物の下から龍笛と四十センチほどの仏像が出て来た。

「なに?これ、笛?と仏像……なんでこんなの持ち歩いていたの?」

 脱衣所に仏像を置いたままにしておくのは気が引けて、懐紙と笛も一緒に六畳間に持っていく。懐紙と笛はミニテーブルに置き、仏像はテレビの横に置いた。

 再びソファーに座ってパソコンを開く。

(あれと惹かれ合う?あり得ない、あり得ない。お風呂も一人で満足に入れない人なんて)

 しかし。

(やっぱりマロは、藤原佳敏本人なんだ。マロは……どこかのタイミングでは、帰れるんだ……。帰れなきゃ、この物語がこうして千年前の物語として残っているはずがないから。もっと、ちゃんと、この物語のこと調べなきゃ)

 どれくらい帰るまでに時間がかかるのか。ざっと見では時系列が追い難い。

 読んでいるうちに、マロが脱衣所から出て来たようだ。広くはない部屋。音で分かる。時計をみれば、マロが風呂に入ってから一時間程経っていた。六畳間に入って来たマロの姿に、麻奈は一瞬固まる。ちょんまげは下ろすとこれ位の長さになるのかと感心する一方、濡れた髪がべったりと顔に張り付いている姿は不気味だ。

(スウェット上は裏表逆で下は前後ろが逆!本当に髪の毛を拭いて出て来たの?首回りがビショビショ)

「髪の毛ちゃんと洗えた?温かくなった?髪の毛、拭いた?」

 パソコンを横に置きながらマロに問う。

 拭いた、とマロは答えるが、どう見ても髪から水は滴っている。

 六畳間の入口に立っていたマロはミニテーブルの上を見て、「笛と、懐紙」と呟いた。

「脱衣所に置きっぱなしだとまずいかなぁと思って、勝手にこっちに持ってきちゃった。ごめんね。マロ、紙を持っていたなら昼間これで拭えばよかったじゃない……堅そうだけど」

「失念していた。どれだけ僕が不安で惑っていたか、君は分からないだろう」

 マロに吐瀉物をかけられてさえいなければ、風呂場に駆け込むことはなかったと言いたい所だが、麻奈は飲み込み、話題を変える。

「マロ、笛吹けるの?」

「歌を詠むよりはずっと良い。和歌は褒められた試しがない……あっ!僕の!」

 テレビ横の仏像に気付いたマロは飛びつく。

「持ち歩いていたら重かったんじゃない?」

 麻奈の言葉に、マロは驚いて振り返る。

「持ち歩いていない。僕の家の厨子から持ち出していない」

「え?でもさっき、マロの着物の下から出て来たよ」

「着物のどこに入れておけるんだ?」

 先ほどまでのマロの姿を思い返す。狩衣はゆったりした印象だが、たしかに、この大きさの仏像を入れられるようなスペースなどない。

「それに、僕の念持仏に間違いないんだが、色味が違うというか、金箔が落ちてしまっている……」

「相当な年代物なんじゃないの?」

「まさか。僕が幼い頃に父からもらったものだ」

 麻奈にはそれ以上の年数が経っているようにしか見えない。それこそ千年ほど経っていると言われても違和感はない。納得できる。

 確かにこの仏像はマロの着物の下から笛と一緒に出て来た。マロと仏像を見比べる。仏像のことは今考えてみてもわからない。それより先に、マロをどうにかしなければならない。

「わかった、また後で考えよう。ひとまず、マロ。もうちょっとちゃんと拭いて。それからドライヤーで乾かすから」

「どらいやー?」

「さっき私がしてたの見てたでしょ。あれ。今日は私がやり方教えるから。明日からは自分で乾かしてね」

「あの大きな音がするやつか」

 マロは苦虫を噛み潰す。しかし、マロはこのドライヤーで髪を乾かすということが気に入ったらしい。長く濡れたままでいることが不快で、風呂や洗髪を好まなかったという。悪日に入浴することについて、稀に思い出したように言及することがあっても、以降、風呂に入って髪を洗うことそのものについて麻奈に反対することはなかった。

 歯の磨き方も一から教え、どっと疲れた麻奈はクッションに座り込む。既にソファーは即席ベッドに仕上げた。夏布団とタオルケットにバスタオルで作った枕を添えてある。

 麻奈がベッドを用意している間も、マロはまたテレビを見ていたが、唐突に振り返った。髪は明朝に整えるそうで、マロの長い髪が顔の動きに合わせて広がる。

「なあ。何か、書くものと紙をもらえないか」

「え?どうしたの?」

「毎朝暦を見て、今日の運勢を確認して、具注暦に前日の日記を書き込むんだ。暦がないのは仕方がないと思うけど、日記だけはつけようと思って。今日はすっかり属星を唱えることさえ忘れてしまっていたけど」

 属星を唱えることにどんな意味があるのか麻奈にはわからないが、マロの平安ルールに基づくものと解釈して、あえて聞かなかった。

「ノートとペンでいい?」

 体を伸ばしてラックから真新しい大学ノートとボールペンを出し、ミニテーブルに置いてやった。

「マロ、日記なんて書いているんだね」

「君は書かないのか?」

 マロはノートを広げる。横線が引いてあるノートに戸惑っていたので、横線が縦線になるよう向きを変えてはと提案する。

「小学生の夏休みの宿題じゃないし。もうずっと日記なんて書いていないよ」

「書いておかないと忘れるだろう」

「忘れて困るようなことが、そんなにないからかなぁ」

「そうか……この筆と、墨はないのか?」

「これね、ボールペンっていうんだけど、中が黒いでしょ?もう中にインクが入っているから、こうして……」ノートの端に波線を書いて見せる。「ほら、書けちゃうの」

「便利だな」言ってマロはボールペンで日記を書きだした。

 すると、知っている漢字が連なっているのに全く読めない。

「え?あれ?」

 麻奈が声を上げたので、マロは麻奈を見る。

「マロ、私が言っている事、わかるよね」

「何を今更」

「私もマロが言ってる事が、わかるよ。テレビの内容も分かっているよね?」

「わかる。が、何を言っている?何が言いたい?」

「マロ、ペン貸して」

 ノートの端に縦書きで麻奈は文字を書く。読めるか?とマロに問う。

「こんばんは、おやすみなさい……僕を何だと思っている?」

「じゃあ、これは?今度は左から右に読むの」

 麻奈は今度横書きで文字を書く。

「てれびのおと、よるだから、ちいさくして」

 横書きの文字になじみがないらしく、戸惑っていたが、読めた。麻奈はマロにペンを渡す。

「……はやく寝た方がいいって、書いてみて」

 マロは少し麻奈を見る。麻奈の顔は真剣そのものだ。漢文は男性貴族社会において主流だが、女性には親しみがないだろうと思い、かな文字を使う。

『とくぬへし』

「静かにしてください、は?」

『あなかまたまへ』

 マロのペン先から続くのは、ひらがなに間違いないが、意味が分からない。

 マロは、麻奈の喋っていることもわかるし、麻奈に伝わるよう話もできる。麻奈の書いた字も読める。横書きの文字も、横書きと分かれば読める。しかし、マロが書いたものはまさしく授業で見た文字の運びと響きだ。ひらがなとして読めるが、意味がわからない。

「これ、私、読めないよ?」

「言われた通りに書いてあるぞ。はやく寝た方がいい、と静かにしてください、だろう?」

「テレビのテロップ、横文字なんだけど、どう?読める?さっきと同じ、左から右に読むの」

 マロはテレビに目をやる。ちょうど停電で電車が止まったというニュースだった。乗客が疲労隠さぬ面持ちでコメントしている。

「でん?しゃ?復旧見通し立たず、か?」

 やはり、読めはするのだ。ただ、書こうとすると、現代人に伝わるようには書けない。

 次々とニュースが流れるテレビの横で阿弥陀如来像は穏やかな微笑を浮かべている。

 麻奈が黙ったので、マロは日記を書く作業を再開する。やはり、麻奈には書いてある内容が分からない。四行ほど書いて、マロはノートを閉じた。

「……そろそろ、寝ようか。夜中お手洗いに行きたくなった時、トイレの使い方も大丈夫だよね」言いながら麻奈は立ち上がる。「布団ちゃんと入ってね。どうしても寒くなったら、隣の部屋の戸を叩いて。暖房をつけにくるから」

 部屋の出口に立ち、振り返る。マロが布団に入ったのをみて、照明のスイッチを落とした。

「うわ!急に暗くなったぞ!」

「灯りを消したの。どうする?ちょっと明るくしとく?」

 スイッチを続けて押せば豆電球がつく。周りの影がわかる程度に明るくなった。

「じゃあ、おやすみ。マロ」

 そのまま、そっと部屋を出て、戸を閉める。

 また、明日ね、とは言わなかった。もし、マロが突然消えて、元の世界に帰っていたとしても、そちらのほうが好都合だ。

 今日はとても疲れた。麻奈はあくびをしながら自分の寝室のドアを開けた。睡魔を前に、麻奈は考えることをやめた。

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