第10話 アイスクリームのない国
麻奈はもう一度目を強く瞑る。
(神様、どうかお願いです。彼を元の世界に、元いた場所に帰してあげてください)
何度も強く願う。お賽銭の額も、願う熱量も、昨日の朝、自分が願った時より段違いだ。
(今度こそ!)
目を開けて、横目でみる。しかし、まだマロはそこにいて、同じように熱心に願っていた。
絶望的な気分で、麻奈は目を伏せる。
神様は願いを叶えてくれなかったようだ。
麻奈は一礼して神前から離れ、神社の境内を散策する。
何か。
何か。
彼が帰る、手がかりになりそうな何か。
(あ、馬)
石で造られた神馬の像のままで立ち止まる。麻奈が見る限り、それほど古いものではなさそうだ。
「馬の像か」
背後で声がしたので、驚いて麻奈は振り返る。疲れた様子のマロが立っていた。
麻奈の願いも、マロの願いも神様に届かなかったようだ。
麻奈は、唇を噛んで神馬に視線を戻す。なんでもないよう振る舞うため、浮かんだ疑問を口にした。
「でも、この馬、ちょっと小さいよね」
ドラマなどに出てくる馬はもっと大きかったように思う。
「そうか?こんなものだろう。ちょうどこの位だ」
マロに言われて、日本在来の馬は見慣れているサラブレッドよりも小さいとどこかで聞いたことを思い出した。
この神馬の像は、在来種をモデルに造られたようだ。
「そっか。……でも昨日みかけた馬はどこにいったんだろうね。あっちの石段からこっちの方に入っていったと思ったんだけど」
広くはない境内。すぐに人家の壁に当たってしまう。
馬は、どこへ消えたのか。
社殿、小さな境内社、ベンチ、絵馬奉納所、葉を落とし去った木々、消防団と大きく書かれた小屋。
神社の由来が書かれた案内板にも、この神社が特別と思われるようなことは何も書かれていなかった。
冬の夕暮れ。間もなく日も完全に落ちる。
神社として、変わったものは何一つ見当たらない境内の中。風にさらされ、木々は悲しく泣いていた。
麻奈は神社の端にあるベンチに腰をおろした。冷え切った硬いベンチの感触が布越しに這い上がってくる。神社の中を何周もしているが手がかりらしいものは何も見つからない。
麻奈は、溜息をつく。
何も。
何も見つからなかった。
なぜ彼がこの神社のすぐ傍に倒れていたのか、手がかりになるようなものは何も。
彼の存在を理由付けるようなものは何も。
「マロ、座って」
麻奈に促されて、必死の形相で境内を歩き回っていたマロは麻奈の横に座る。項垂れたマロの顔は絶望に歪んでいる。
「マロ、聞いて」
マロは俯いたまま、かすかに頷く。
「手がかりは見つからないね。……マロの家に帰る方法がわからない、そうでしょ。明日は日曜日だから明後日、月曜日。本当は私、仕事だけど有給とるから。警察だとか、いろんな所に行ってみよう。誰かマロのことを知っている人がいるかもしれない」
「……僕は、こんな場所、知らない」
マロは首を振る。
「でも、いろんな可能性を探してみなきゃ」
「僕は、どうしてこんな所にいるんだ?どうして。こんなこと、僕は願っていないのに」
マロの悲嘆につられるように、麻奈の口が滑る。
「マロ。分かった。マロの行くところが決まるまで、私の家に泊まったらいいよ。夜はソファーで寝たらいいし、夏布団も使って」
ばかなことを言ってしまった。なんの因果で謎の男を自分の家に置くのか。
もういい、これ以上言うなと思うのに、口から言葉が勝手に出てくる。
「でも、条件が三つあるの」
「条件?」
「一つ目、さっきいた部屋の隣の部屋は、私の寝室だから入らないこと」
身元不明(平安時代の貴族ということになってはいるが)の男を家に置くことに抵抗はある。この一線だけは絶対に越えさせない。
(そもそも、条件なんて言い出さなければいいのに)
「二つ目、うちの中でも外でも何かよくわからないものに触る時には一度私に聞くこと。使い方を間違えると、大事故になることもあるから」
ガスコンロなどをわからないままに触られて火事など起こされては困る。
(そもそも、家に置いておかなければいいことなのに)
「三つ目、うちにいる間は毎日お風呂に入ること。少なくとも二日に一度は髪を洗うこと。この三つが条件……どう?」
(私のせいだから、だよ)
マロは首を横に振る。
「僕には、条件を断ることなんて、できない」
他に、行ける場所がない。頼るあてもない。断われば、外で野垂れ死ぬだけだ。
この寒空の、神社の下ででも。
自嘲するようにマロは笑った。
「……そんなことないよ。私が連れて帰ってきちゃったから、こんな形になってるけど、実際どうしようもなかったら誰かが保護してくれてるよ」
「誰が保護してくれるというんだ」
「警察とか福祉事務所とか」
「それらは僕の言うことを信じてくれるのか」
マロの問いに即答することができなかった。
マロの言っていることは、現実離れしている、と麻奈も思う。
千年前の貴族で、他の貴族の家で酒を飲んだ後、酔いながら馬を走らせていた所までの記憶はある。しかし、その後、倒れていたのは麻奈の近所の神社で、彼の意識が戻った時には麻奈の部屋の玄関だった。
神社の傍で倒れていたところ、酔っていた麻奈が家まで連れ帰った、ということ以外の説明がつかない。
記憶が混濁または喪失している身元不明の現代人として扱われるのではないか。
(……信じては、もらえない気がする)
誰にも。
身に覚えのある、自分以外の誰にも。
「……どう、だろう」
小さく麻奈は答えた。
麻奈の答えを薄々分かっていたマロは噛みしめるように何度も頷く。
「……僕だって、信じられないんだ。そう。そうだろうな」
マロは顔を上げた。麻奈をじっと見つめている。
縋るような、眼差し。
「……君は、僕が言っていることを信じているか」
「私?私は……」
視線にさらされ胸が痛んだ。ベンチに触れている所から、寒気がせり上がってくる。鼓動が早くなり、冷たい氷の粒が体中の血管を駆け巡るような心地。やがて、氷の粒は心臓に至る。
(だって、きっと)
「信じてるよ。マロのことを。嘘は言っていないって」
(私のせいだから)
麻奈の答えに、マロは破顔する。
「そうか」
麻奈はマロに応じるように笑顔を作ろうとするが、上手くできない。
行く当てのないマロが可哀想だと思う。帰る場所がない。それは勿論、哀れに思う。ただ、それだけなら麻奈自身が背負う理由にはなり得ない。
自分の業を突き付けられている。
彼がここにいることを理由づけるようなものは、自分が願ったことのほかに、何も思い浮かばなかった。自分が迂闊に願ったために、目の前の男はここにいる。
そう思うから、自分の軽率さを恥じ、彼を元の世界に帰すよう、神様に願った。もう十分願った。願った筈だ。しかし、彼は帰ることができなかった。
「ならば、僕を信じないだろう他に頼るよりも、僕は君を頼みにしたいと思う。君の提示した条件に従おう」
麻奈は眼の前が真っ暗になった。
自分の体が小刻みに震えていることに気付いていた。
寒い。怖い。
「うん」
自分の身勝手な願いで、悪魔を地獄から呼び出した後。悪魔はその見返りに何を求めるのだろう。
「……帰ろう。マロ。私の家に。途中で買い物もしていかなくちゃ。夜ごはんがないよ」
言って麻奈は立ち上がった。マロも立つ。二人並んで神社の鳥居をくぐり、境内を出る。
「先ほど食べたぞ」
「さっきのうどんは遅い昼だよ。」
「あれは、うまかったな。その前の茶色いものも。初めて食べた。あの甘い水も」
茶色いものとはチョコ菓子のことだと麻奈は解釈した。チョコは、彼の体の糧とはならなかったとは思うが、気に入ったのなら何よりだ。
「チョコは分かるけど、うどんも食べたことなかったの?味付けが違うのかな。」
三倍希釈麺つゆはさておき、うどんは昔からあるもののように思っていた。
「ちょこ、があの茶色いものか。うどん…はくたく…?よくわからないな…」
未来のことを考えなくても良いように、今のことだけを考えられるように、麻奈は積極的に会話を続けようとする。それは、マロも同じだった。
「マロってどんなものを食べていたの?」
「魚が多かったな」
「どうやって食べてたの?煮るの?焼くの?」
「煮る?魚は焼くものだろう」
「煮魚とかしなかったの?」
「記憶がないな」
「へえ。煮魚おいしいのに。甘じょっぱくて」
「魚は塩辛いものだぞ。甘じょっぱい?」
「砂糖と醤油で……」
言いかけて、麻奈は口ごもる。
自分はマロと話しながら歩くことで未来から意識を逸らしたいが、マロは疲れているかもしれないと思い至った。
「スーパーまで、ちょっと歩くよ。マロ、先に家へ帰ってる?」
マロは歩きながら首を振る。
「……僕も、行く」
一人でいるよりは、とりあえずの話し相手となる麻奈の傍にいたかった。
「それで、しょうゆとは何だ?砂糖は、ごく稀に頂戴したが…」
「え?醤油ないの?大豆でつくるんだよ」
詳しい工程はわからないが、大豆から作られていることは知っている。
「大豆から作る調味料。醤(ひしお)か?どうだろう、味噌とは違うのか?」
「味噌は味噌だもの」
「そうか、味噌は別にあるんだな」
あとは、と言ってマロは大豆製品を思い出そうとしているようだ。
砂糖を稀にしか食べられず、醤油のない世界から来た王子様の隣を麻奈は歩く。
二人の歩く横を、文明の利器たる車がヘッドライトを点けて走り抜ける。日が完全に落ちた暗い道を街灯が照らす。
(そりゃあ、チョコを食べたら驚くよね)
昔の王子様もお姫様も、考えものだ。
そんなアイスクリームの歌があったことを頭の隅でぼんやりと思い出していた。
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