第9話 二度目の神頼み

 

 麻奈は化粧をする手を止めて、テレビを見ているマロを振り返る。マロも化粧をしたいと言っていたが、麻奈の持っている化粧品の中にマロが求めるような白粉はない。この世界で男性が外出する時に顔を白くする必要はないと諄々じゅんじゅんと説き、なんとか化粧をせずに出かけることの同意を取り付けた。

「ねえ、マロ。本当にその恰好で外に出るの?」

「当たり前だろう」

 化粧まではしなくても、狩衣に烏帽子姿と、どこからどうみても現代日本の町にそぐわない姿。

「弟の服を貸すよ」

 元来、物が捨てられない性格の麻奈なので、数年前に弟が泊まりに来たときの服がそのまま衣装ケースの中にしまってあった。上下スウェット、チノパン、厚手のパーカーに靴下、下着。サイズの不安はあるが、スウェットとパーカーならどうにか着ることはできるだろう。下着は、避けたい気がするが。

「テレビ見てればわかるかもだけど、マロみたいな恰好をしている人はなかなかいないよ」

「いやだ。僕はこの恰好でいく」

 そこまで言い切られてしまえば、麻奈も認めざるを得ない。隣を歩く自分も恥ずかしいだろう。だが、今日半日たらずのうちにマロが負った精神的疲労を思えば、無理に着替えろとも言えない。テレビを見ていたマロの視線が自分に向けられていることに麻奈は気付いた。

「何?」

「目の皮を挟んで、何しているんだ?」

 目の皮。ビューラーで下がり気味の睫毛が上を向くように持ち上げている。

 手伝う、と麻奈が宣言してから、マロの様子はいくらか麻奈に対してくだけたものになってきた。マロから問いかけることも増える。

「目の皮じゃないよ。睫毛を挟んで持ち上げているの」 

「挟んで上がると何か違うのか?」

「目が、大きく見えるようになる、気がする?」

「目が大きくなることはいいことなのか?」

「たぶん」

 目が大きい方が可愛く見えるものだと思って化粧をしているが、異性であるマロにそう問われるとよくわからなくなる。マロの美醜の基準がわからない。

「眉は抜かないのか?」

「ムダ毛は抜いているよ」

 ふうん、と言ってマロはテレビに向き直る。

「男の姿は、皆このような恰好なのか?」

 テレビに映った男性俳優を指さしながらマロは問う。

「そうだね。これはスーツだけど。マロの来ている服よりはこの人の服に近いかな」

「男子がかんむりや烏帽子もせずに人前に出て、恥ずかしくはないのか?見たところ、もとどりもないようだが」

「おしゃれで帽子かぶっている人もいるけど、被っていない人のほうが多いんじゃないかな」

 髻というのがマロの髪型だろうと解釈した麻奈は、

(ちょんまげしてる人のほうが、絶対に珍しいけどなあ)

 と思った。

「……僕みたいな恰好の者は見たことがないか」

「見たことがないってことはないけど、大きい神社とか、映画とかでしか見たことないかなぁ」

「映画?」

「昔にあったこととか物語を俳優さんがその人に成りきって演じるっていうか……説明が難しいね」

「つまり、なかなか僕みたいな恰好の者はいないということだな」

「いないわけじゃないけど。なかなかね。珍しいと思うよ」

 会話する間に麻奈も支度も整った。

「行こう、マロ」

 マロは口を引き結んで頷く。

 麻奈はコートに袖を通す。玄関の戸を開けると夕暮れの町が広がっていた。冬はやはり日が傾くのが早い。麻奈のあとに続いて外に出て来たマロを振り返る。麻奈にはマロの恰好が寒そうに見える。

「大丈夫?寒くない?」

「ああ」

 マロは緊張した面持ちで頷いた。

 麻奈を玄関の戸を閉め、鍵をかける。

 鍵を閉め終えた麻奈が振り返ると、マロはマンションの廊下から燃え盛る夕日を見ていた。

「……夕暮れは、変わらないんだな」

「そうだね。たまに、ちょっと切なくなるよね」

 麻奈がそう返すと、マロは麻奈に視線を戻す。麻奈は少し照れくさくなったので小さく笑って、そのままエレベーターに向かって歩き出した。

「こっちだよ。マロ」

 ボタンを押してエレベーターの到着を待つ。

「これは何だ?」

「エレベーターだよ。これがあれば高低差があるところでも階段使わなくていいから楽ちんなの」

 説明している間に、エレベーターが到着した。

「さ、入って」

 躊躇いながらも、麻奈が先に入ったのでマロも続く。

(閉め切った空間に入ると、まだちょっとマロの臭いがダメだなあ)

 見た目のインパクトさておき、顔は悪くないのに、と思いながら麻奈はマロを見上げる。

 その悪くないマロの顔には焦りが浮かんでいた。

「し、下に落ちているぞ!」

「落ちてるんじゃなくて、下がっているんだよ。すぐ着くから大丈夫だよ」

 麻奈の言葉通り、三階から一階までの距離なのでエレベーターはあっという間に地上についた。

「戸も勝手に開くし、どういう仕組みなんだ?」

「エレベーターの仕組みまでは私もわからないなぁ」

「仕組みもわからずに使っているのか?」

 マロに問われて、返答にきゅうす。

「そうだね。そういうものが、多いかも」

 テレビも、エレベーターも、冷蔵庫も、仕組みを分からないまま、その恩恵に預かっている。

 マンションの玄関を出て、駅までの道を辿る。麻奈の毎日の通勤経路だ。

「うわ!なんだ、これは!」

 軽乗用車がすぐ横をすり抜けた。後部座席に乗っていた子供がマロを振り返る。

「車だよ、マロ。危ないから道の端っこに寄って」

「車?牛が引いていないぞ」

「エンジンで動いているから」

「えんじん?!」

 角を曲がるまで、子供の不思議そうな顔を後ろ姿に残したまま車は走り去っていった。

 エンジンをうまく説明する方法を考えていると、公園に差し掛かる。公園では小学生と思われる子供たちが集まって遊んでいた。

 子供たちの一人が、マロを見つけた。

「うわー!おじゃるだー」

 その名前もあったか、と麻奈は頷く。

「ちげーよ!あれ、おんみょーじだよ!」

 最近の子たちはいろんなことを知っているなぁ、と思いながらマロを見る。

 マロは眉を顰めていた。

「なんだ、陰陽師はいるのか?」

「陰陽師はたぶん、さっき言った映画とかで知ってるんじゃないかな。それを仕事として働いている人には私、会ったことないや」

「それにしてもまぁ、この僕に指をさすとは」

「許してあげて。子どもなんだから」

「子どもの戯言ざれごとにいちいち目くじらを立てるほど、狭量きょうりょうじゃない」

 それでもやはり、マロとすれ違う人たちは皆、驚いたような顔をした後、目を背け、距離を取ってしまう。隣を歩く麻奈は心が痛む。

 マロの姿はこの町中でどうしようもなく浮いている。

 一方、マロは周りをせわしなく見渡していた。自分の元居た場所との共通点を探している。

 神社までの道のりが、とても長く感じられた。

 夕暮れの神社に人気はなかった。麻奈は神社の目の前にある歩道の生垣を指差す。

「ここだよ。ここで私はマロを見つけたの。ここで、昨日の夜、マロが大の字に寝ていたの」

 マロはあたりを見回す。夕方の時間。駅からの抜け道であるし、陸橋を上り下りする車も合わさって交通量が多い。話している間にも麻奈とマロの脇を自転車が走り抜けた。

「こんな所に僕が居たっていうのか?こんな人が通る所に?」

 信じられないというようにマロは頭を振る。

「今はまだ夕方だから。夜になったらそんなに人は通らないから」

 神社の横道は灯りが乏しい。麻奈もこの道を夜に歩くことはできる限り避けていた。自転車で通り抜ける時も、警戒をおこたらず、速度を落とさない。昨日は、特別だった。

「どうやって僕をあそこまで連れて行ったんだ?」

 あそこ、というのは麻奈の家の玄関のことだ。

「さっきからこの道を通りすぎている車の中には、お金を払えば行きたいところまで連れて行ってくれる車もあって。その運転手さんにも手伝ってもらって、なんとか」

 深夜割増料金を払って、とは言わなかった。

「この道で、馬とすれ違ったの。馬なんかこの辺りでみることないからびっくりしちゃった」

 頭弁の馬の行方も気にしていたが、それ以上に今は自分のことでマロは手一杯だった。

 曖昧あいまいに頷くと、自分が倒れていた生垣を見つめる。しばらく時間を置いてから、麻奈はマロを神社へ誘った。

 交差点で行き交う車の音が嘘のように、神社の境内は静まり返っていた。

「マロ、この神社に何か覚えはない?」

「……全く」

 マロは記憶を探すが、思い当たるようなことは何もない。

「じゃあ、何かの気配を感じる!とかない?」

 全く、と深いため息がこぼれる。

「じゃあ、ご挨拶してから境内をみせていただこう」

 社殿の前に立ち、財布を開くと小銭が何枚か入っていた。マロの分を渡し、財布の中の小を全て賽銭箱に入れた。

 二礼二拍手一礼。

 目を閉じて祈る。

 願うことは一つ。

(神様、よく考えもせずにお願いしてごめんなさい。お願いです。マロを元の場所に帰してあげてください)

 目を開いた時、隣にいるマロが元の場所へ戻っていないかと期待していた。

 しかし、薄目うすめを開けて隣を窺うと、必死に祈っているマロの横顔があった。


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