第8話 うどんをほぐす


「そんな筈がない!つい昨日だって父と話したんだ!まさか、あり得ない!」

 マロは勢いよく立ち上がった。

「だってそうじゃないか!昨日はいつも通りに出仕して、父とも顔を合わせて、それから頭弁の家で開かれた宴会に参加して…酒は飲んだが、それだけだ!平生へいぜいと何一つ変わらなかったはずだ!」

 自分に言い聞かせるように記憶を辿る。麻奈は否定することもせず、頷きながらマロの悲痛な訴えを聞いていた。

 麻奈に言い聞かせた所で、現状が何一つ変わらないことはマロ本人も分かっているだろう。それでも訴えずにはいられないマロの気持ちをんで、黙って聞いていた。

 マロの言う昨日は千年前のことで、マロの居た場所は千年前の京都であって今の京都ではない。麻奈に言われた所で信じることは困難だろう。

 麻奈はノートパソコンを閉じて脇に置いた。

「本当だ!頭弁に馬を借りて、家人を置いて走った。京を、都を離れているはずがない!そんなの……嘘だ!夢だ!こんなのは夢だ!夢なんだ!」

 昨日の自分が、神社の神様に願ったこと。

 自分の願いが叶ったことと引き換えに目の前の男は全てを失った。

 マロに自分が願ったせいだろうと告白することは、どうしてもできなかった。謝罪の言葉だけで済むようなものではない。謝って許されるようなことではない。

 マロは何度も夢だ、あり得ない、と繰り返す。

 麻奈も、あり得ない、と思う。

 しかし、それ以上に。

 麻奈にとっては、目の前にいるマロが現代人だ、と思うことのほうが難しい。服装や恰好だけではなく、根本的な部分が、言葉にできない何かが、麻奈の知る現代人とは異なっているように思えた。

「僕はこんなこと願っていない!どうして、僕がこんなことに!」

 マロの声はほとんど泣いている。

 麻奈も、本当に王子様という存在を望んだ訳ではない。

(王子様とは言いませんから素敵な人に出会えますように)

 恋人と別れて良かった、と思えるくらい良い人に出会えれば、それでよかったのだ。

 神社。

 麻奈が願って、マロが現れて、馬が闇に消えた神社。どうしても一度、今日中に神社を確認しに行く必要があると麻奈は思った。

 マロはとうとう訴えるのを止めた。やめて、その場に崩れ落ちて泣き出した。

 慰める言葉が見当たらない。せめて声が外に漏れないようベランダの戸を静かに閉めた。洗濯物の山からタオルをとってマロの横に置くと、そっと六畳間を出た。

 自分が傍にいたところで、どんな励ましにもならないだろう。

 神社へ行きたい。

 しかし、今の状態のマロを部屋に残してこのまま神社へ一人で行くのは躊躇われる。

 もうじきに日が暮れる。マロはチョコ菓子を食べていたが、トイレで出し尽くしているだろう。自分も、何か食べなくては。たとえ食欲がなかったとしても。

(マロに何か、温かいものとか食べさせたほうがいいよね…)

 冷蔵庫を開ける。卵とスポーツドリンクなどの飲料、調味料しか入っていなかった。長い間自炊をしていなかったと改めて気付かされる。

 次に冷凍庫を開けると冷凍うどん玉と刻んだ分葱わけぎ、冷凍ささみとほうれん草が出て来た。

「うどんなら、できそう」

 冷凍庫にある食材の確認をしている間に、洗濯機を回していたことを思い出した。

 脱衣所に向かえば確かに洗濯と乾燥は終わっていた。乾いた衣類を四畳間の寝室にまとめて放り込み、今度は手洗いだけで済ませていたニットとパンツを洗濯機に入れる。このまま干すにはやはり抵抗があったので、洗濯機のおうちクリーニング機能を使ってもう一度洗うことにした。

 脱衣所を出て、廊下に戻ると、部屋の外まで漏れ出るマロの声は小さくなっていた。

(……私が出かける前に、やっぱりマロに何か食べてもらおう)

 ささみを電子レンジで解凍し、鍋に湯を沸かす。解凍されたささみを一口大に切って鍋に放り込む。分けてゆでた方がおいしいだとか、袋にうどんの作り方が書いてあったが読まずに作り進める。ささみの色が変わってから凍ったままのうどん玉を湯に入れる。うどんがほぐれてきたら麺つゆと冷凍ほうれん草を入れ、さらに火を通す。全体に充分火が通ってから分葱をふりかけ、卵を二つ落とす。卵の白身が白く変わった所で火を止めた。

 どんぶりを二つ取り出し、盛り付ける。なんとか卵もそれぞれのどんぶりに分け入れることができた。

「あ、お茶も入れ直したほうがいいよね」

 やかんに水を足し、再び火にかける。盆にうどんを二つのせて六畳間へ向かった。

 マロは最後に麻奈が見たときと変わらない体勢でいた。彼の姿に湧き上がってくる感情を隠すために、明るい声を出した。

「マロー。お腹空いてない?」

「空いてなどいない!こんな状況で腹など空くか!」

 マロの慟哭どうこくが大きくなった。

「そうかもしれないけど、せっかく作って来たから良かったら食べてよ」

 ミニテーブルの上にうどんを置く。

「ほら、好きな方とって。中身は同じものだけど」

「要らない!要らない!これは夢だ!腹なんて空かない!」

 マロの叫びを否定するように、うずくまったままのマロの胃が泣いた。

 やっぱりお腹空いてるじゃん、と出かけた言葉を飲み込む。

「マロ、食べて。食べてみて。食べてみてダメなら残せばいいから」

 台所でヤカンが声を上げた。麻奈はマグカップを持って火を止めに行く。紅茶を入れ直して部屋に戻るが、まだマロは突っ伏したままだ。

 麻奈は一つ、溜息をつく。

 言いたくはなかった。この言葉を言えば、マロが逆らえないことがわかっていたから。

「マロ、一口でもいいから、食べて。食べないなら、すぐにここから、私の家から出て行ってもらわないとだよ」

 麻奈は心を鬼にしてそう言った。マロは、驚いたように顔を上げて麻奈を見る。涙でれた目は真っ赤になっていた。

「私、これから出かけるから。昨日から全くご飯を食べてない人を置いておけないでしょ」

「……どこに出かけるんだ」

 マロは泣くことも忘れて麻奈に問うた。

「明るいうちに昨日、私がマロを見つけた所に行ってみようと思うんだけど。その近くで私は馬を見たの。何か手がかりが見つかるかもしれない。……ご飯を食べてさえくれれば、マロはここで待っていてもいいよ」

 嫌々、とマロは首を振る。

「僕も、行く」

「わかった。じゃあ、一口でいいから食べて。一緒に行こう」

 マロは起き上がってミニテーブルに寄る。マロが麻奈の前にあったうどんと自分の前にあるうどんを見比べているのがわかって、

「どっちでも、好きなほうをとっていいよ」

 と言ってやった。マロは迷いながらも、麻奈の前にあったうどんを引き寄せる。

 マロがその後もなかなか箸をつけなかったので、麻奈は先に食べ始めた。マロは麻奈が食べている姿を、目を丸めて見ている。マロの顔を視界に入れないようにしながら麻奈は食べ進めた。

 しばらくして、視界の隅でマロの手が動いた。恐る恐るうどんを口に運ぶ。箸の使い方がわからなかったわけではないようだ。

 麻奈は箸先で絡まったうどんをほぐす。

「マロ」

 マロを見ないまま、マロに呼びかける。

「きっと、私がマロを見つけた場所に何か手がかりがあるよ。わたしも、マロが元居た所に、マロの家に帰れるようできる限り手伝うから」

 それが、願ってしまった自分のできる唯一の贖罪しょくざいだろう。

 もし、神社でも何の手がかりが見つからなければ。

 悪いほうに想像してしまってはだめだ。

 見つかる、はずだ。

 うどんをほぐして、卵の黄身を崩す。

 麻奈が少し顔を上げると、マロの目と合った。麻奈は微笑んでみせる。

「……だから、ちょっとは安心して食べてね」

 マロは麻奈の顔をじっと見ている。

「うどんがのびちゃうから、食べれるだけ食べて。……それから、また。マロは顔を洗ったほうがいいね」

 言って麻奈はマロから視線を外し、自分の箸を進めた。しばらくマロがこちらを見ている気配がしたが、やがてマロの箸も進みだす。

 麻奈が食べ終わる頃には、汁まで飲み干されたどんぶりがマロの前にあった。


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