第7話 マロかちょんまげ
今日は日の光差し込む過ごしやすい天気だが、やはり冷たい冬の風が室内に入ってくる。長い時間、戸を開けたままではいられない。外から時折、遠くで笑う子どもの声がする。
狩衣烏帽子姿の男と、パーカーとジャージ姿の女がミニテーブルを挟んで向かいあっている。
しばらく無言で向かい合っていたが、このまま黙ったままでいるわけにもいかず、麻奈が
「私は、麻奈。
「女が
男は首を横に振る。
「どうして?」
名乗らなければ互いのことがわからないままに話すようではないか。
「女の名を知るのは、家族と、夫となる男だけだ」
やはり、麻奈の知る常識と、男の常識とでは大幅な
「あなたの育った環境では、そうだったのね。私はこれまで、初めて会った人には自己紹介をしろと、名前を言うようにと教わって来たの」
男は黙ったまま、首を振った。麻奈は慎重に、言い聞かせるように言葉を選ぶ。
「ここはたぶん、あなたの家からは遠い所なんだと思う。でも、ここは私の家で、私はあなたより、このあたりのことを知っているから、あなたが家に帰る手伝いもできるかもしれない。だから、お願い」
やや間があって、男が口を開く。
「
「それがあなたの名前?」
「職名。名前は、おいそれと出していいものではないから」
(名前のガードがかたい)
しかし、それで諦めるわけにもいかないので、麻奈は食い下がる。
「お願い。教えて。何度も聞いたりしないから。あなたが家に帰れるように、いろんな人に協力してもらうためには、どうしても必要なの」
男は眉根を寄せて険しい顔をしている。名乗ることを躊躇っているようだ。男と麻奈の目が合う。男の目は、麻奈を探っている。
「……お願い。貴方の名前を教えて」
麻奈の言葉に、男は観念したらしい。男の唇が動く。
「……藤原、
「ふじわらの、よしとし」
音を繰り返すと男は頷いた。
彼の育った環境では自分の名を出す機会はないらしい。しかし、こうして話すのにも、何か呼びかける名が欲しい。
では、あだ名で呼び合ってはどうかと麻奈は思い付く。最初に男は権中納言と役職を名乗った。だが、麻奈に職名のようなものはない。
「私の職名はないし。会社じゃ肩書だけは主任だけど。うーん……じゃ、あだ名で呼び合うことにしよう。私のあだ名はね、高校の時のあだ名なんだけど、マメ子っていうの。手芸とかが好きだったし、名前がマナだったから。私のことはマメ
「……思いつかない」
「じゃあ、私が決める」
「わかった」
私が決める、と言ったものの、男にとって自分の名前は隠すべきもののようだから、名前から取るというのも気が引ける。
しばらく考えてみたが、
「……マロっていうのはどう?」
結局、見た目からとったあだ名を提案した。断られてしまったら、あだ名の候補はもう『ちょんまげ』くらいしか思いつかない。
「構わない」
「良かった。断られたらどうしようって思ってたの」
今度はマロが麻奈に問いかける。
「ここはどこだ?」
マロがずっと問いたかった質問だろう。しかし、その言葉にうまく返せるような答えを麻奈は持ち合わせていない。
「どこって言われると埼玉だけど」
「先ほどきょうとはあると言ったな。きょうととはなんだ?」
玄関でのやり取りの際、麻奈が口に出したことだ。
なんだ、と言われても、京都府だ。と思うが男が聞きたい答えではそれではないだろうことは麻奈にもわかる。
「京都は京都だよ。お寺や神社がたくさんあるんだけど」
京都の様子を伝えるうまい表現が見当たらない。清水寺など寺社仏閣に舞妓さんに八つ橋、懐石、修学旅行。思い浮かぶことが多すぎる。
「
「内裏って、
「
マロは鼻息荒く麻奈に問いを重ねる。
「帝って。天皇陛下が住んでいるのは東京の皇居だと思うけど。御所は百年以上前に天皇が住んでいた所だよ」
「帝がいらっしゃるのは京ではないのか?帝に
「そう一度に聞かれても。あ、そうだ」
麻奈は振り返ってテレビの電源を入れた。土曜サスペンスの再放送が流れる。少し画素の悪い映像と、一昔前の髪型をした女優。
「なんだ、これは!板の中に人がいるぞ!」
「これはテレビだけど……残念。京都が舞台のやつじゃなったかぁ」
『……さん、本当のことをおっしゃって』
「板の中の人間がしゃべったぞ!」
マロは立ちあがってテレビの裏を覗き込む。しかし、テレビの後ろに人など立っていない。
『犯人の行動は、まるであなたを庇っているみたいよ……』
マロは画面に近づいてみたり、テレビのスピーカーに耳を寄せてみたりと忙しい。
自分の見たいものや知りたいものに答えをくれる存在を思い出した。ソファーの横に置いていたノートパソコンを引っ張りだして電源を入れる。しばらくコンセントも繋いでいなかったパソコンはゆっくりと時間をかけて起きあがった。
『だって、しょうがないじゃない!あの人が、まさかそんな……』
ソファーに座り直して、インターネットに接続する。検索する語として京都、と入力しようとした所で指を止めた。かわりに違う音を入力する。
都、内裏、帝、公卿。
マロの口から出た言葉の数々が脳裏に過る。
麻奈もマロの恰好が、歴史の授業に出てくる平安貴公子の姿であることくらいは分かる。
『F』『U』『J』……
(ふじわらのよしとし)
検索をかけると画面が変わった。画面にでてきた文字。
(藤原佳敏)
麻奈の心臓は
検索結果として個別ページのタイトルが並ぶ。一番上の検索結果に麻奈はカーソルを合わせる。
『藤原佳敏(ふじわらのよしとし)は平安時代中期の公卿、作家。「鹿中将物語」の作者…』
家族の名前が並ぶ中、父の欄には麻奈でさえ歴史の授業で習った記憶のある名前が書いてあった。兄弟も多い。佳風、康子、敏行、佳嗣、香子……。
(僕の身分なんて後でいくらでも分かる。名乗る必要はない)
(僕が前左大臣の子と知ってのことだろう!)
役職名もつらつらと並べて書かれているが麻奈にはよくわからない。
(正三位って何よ……従三位?左近衛?右近衛?権中将ってこれ何?こんなに役職ってコロコロ変わるものなの?)
書いてある文章を流し読みするが、歴史に
ある数字で、麻奈の目は止まった。
生没年。生まれた日と、死んだ日。
「マロ」
マロはテレビから視線を外して麻奈を振り返る。彼の中で、すでに『マロ』は彼に呼びかけるものであると落ち着いたらしい。
「……どうした?」
「マロって、今、年はいくつ?」
藤原佳敏が死んだとされる年から、生まれた年を引く。引き算があっているのなら享年は二十七。
「次の春で二十六だけど」
「……そっか」
麻奈は単純に引き算をしたが、昔の人の年齢は、数えだか満だか別なルールがあったはずだと思い直す。
しかし、どうやってもその数字は彼の死が近いことを意味している。
麻奈がその藤原佳敏のページで分かったことは決して多くない。ただ、どれもどうしようもなく重たい内容だった。
「年がどうかしたのか」
マロは不思議そうに首を傾いだ。その問いには首を振り、麻奈は別の質問で返すことにした。
「マロの、お父さんってさ…」
麻奈の問うた名前にマロは大きく頷く。
「父を知っているのか?!」
「えーあ、うん……名前だけ」
歴史の授業で教わった。
千年前の、政治家として。
マロの顔が
「そうか!それで?その父の居る所へ帰るには、どうすればいい?」
麻奈は頭を抱えた。安堵の表情を浮かべたマロに突きつけなくてはならないことが、とても心苦しかった。
距離だけならここから新幹線含めて四時間。
時間は千年。
「マロ、あのね。落ち着いて」
「僕はいつだって落ち着いている」
麻奈は首を横に振って、手元にあるパソコンに目を落とす。藤原佳敏に関するページからリンクが伸びている父・左大臣のページへ飛ぶ。麻奈の様子に何かを察したらしいマロは、麻奈の隣に腰をおろした。
「これはね、マロの、お父さんについて書かれたページ」
「……どういうことだ?」
言って麻奈の手元を覗き込む。
「読める?」
マロは麻奈の見ている画面を読み解こうとするが、結局、首を横に振った。
「いや、読めない。それぞれの字は読めるが、意味がわからない」
「そう、これはね」
マロが父だと言った男に関する記事を読み上げる。最初についた役職から適当なところまで、子供たちの名前や、妻たちの名前。ただし、没年は除いて。
「確かに、父のことだ」
「ここに書いてあるのは、お父さんの生まれた年。そして、今は……」
この日から、千年と六十年後の未来。
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