第6話 シャワーと涙と鼻水と

 男の吐瀉物を浴びた衝撃により、脳内で今までこらえてきた感情が一気に噴出した。

 彼と別れてから、本当はずっと声を上げて泣きたかった。

 付き合っている以上、別れがあるかもしれないということは理解していた。恋人に振られることは珍しくもなんともない話だとも思っていた。

 しかし、いざその珍しくもない話が自分の身に降りかかると、途方もない悲劇だった。悲劇の主人公になるのは簡単だった。

(前日、だったのにな)

 彼と別れたのは、自分の誕生日前日だった。誕生日の前日に会おうと言われて、結婚の話でもあがるのかと期待した自分がいた。

 けれど、結果はこのような形で、彼との七年間に幕を閉じただけだった。

 彼に、言い縋ることが出来なかった。これまでのことはなんだったのかと問うことも、勝手に自己完結をして、自分のことはどうなると責めることもできなかった。

『うん、わかった』

 そう返すことしかできなかった。言い訳じみたことを繰り返す彼に、何も言うことができなかった。

 両の足で自分の尊厳そんげんを守りながら、傷ついてなどいないと虚勢を張ることで精いっぱいだった。

 誕生日の前日。

 これから先もずっと、毎年、誕生日が近づく度に彼のことを思い出すのだろう。

 こんなに悲しいことが、この世にあるとは思ってもいなかった。

 ただ、そのような心地がしていたとしても、その悲劇がありふれた話であると分かっているから、決して必要以上に落ち込まないように、可哀想な女と思われないように他の人に見せ、振る舞ってきた。頭のどこかで堪えなくてはならないと思っていたから、堪えようもなく苦しかった。

 一度、せきを切ってしまえば感情の奔流ほんりゅう矜持きょうじや理性は押し流されていった。

 シャワーの水流が、涙も鼻水も感情も洗い流していく。

 声をあげて涙を流し切ってしまえばすっきりするもので、麻奈は気持ちに落ち着きをとりもどした。思考も徐々に未来に向けたものになっていく。

 男と、自分の、これからのことを考えなくてはならない。

 もうずっと、吐瀉物をかけられる前から、麻奈はあの男が現代人の、麻奈の物差しでは測れない男だと思っていた。

 彼の姿を神社の横道で見つけた時、直感的に、この男の帰れる場所はこの世界の何処にもないような気がした。

 自分が願ったがために彼は、本来の彼の生きるべき場所から取り上げられ、路上に捨てられていたような気がしたのだ。

 玄関で彼の目の中に映る自分を見た時に、麻奈の中で確信めいたものに変わる。他でもない、自分の願ったものが目の前にいて、自分の姿をその目に映していた。

 自分が神様に願っていなければ、男は道端で倒れていることもなく、外界を恐れ、混乱することもなく、見知らぬ女に向かって嘔吐することもなかったはずだ。

 現実的ではない、ありえない、そんな筈はない、そんなことは現実に起こらない。理性は脳内でそう声を上げ続けるが、胸中は、正体の所在もわからないままに、もう彼を認めてしまっている。

 自分が望んで、招いた。

 本物の、王子様だと。

(泣きたいのは、私じゃなくて、それはあの人のほうだよね)

 自分は結局、恋人との未来の外に何も失っていない。

 彼は、自分の一方的な願いのために、おそらく全てに近いものを失っている。

 麻奈はシャワーを止めた。

 王子様が、どこから来た王子様なのか確認しなければならない。本当に、帰る場所はないのか、帰ることのできる場所なのか。

(言葉の分かる宇宙人が来たと思って接しよう。あの人が何者かわからないけど。そのまま家の外に押し出すことはもうできなさそうだし……)

 外を見た時、男の怯え方は尋常ではなかった。演技でできるようなものではない。麻奈もそんな男をそのまま放り出すようなことはできない。

 手洗いを終えたニットとパンツを抱え、風呂場を出る。一旦、洗面台にニットとパンツを置く。後で干す必要がある。体をタオルで拭きながら、棚から着替えを取った。部屋着と替えの下着だけは風呂場の棚に置いておくようにしておいてよかったと心の底から思った。

 溜まった洗濯物を処理するために洗濯機のスイッチを押し、洗った髪をゴムで結ぶ。

「……よし」

 麻奈は脱衣所の鍵を開ける前に気合を入れるため声を出した。鍵を開けて、廊下に出る。

 トイレの扉は開いたままだった。

「……うっく……」

 廊下にでてしまうと、男の忍び泣く声が、いやが応でも聞こえてくる。

「うう……」

 麻奈はキッチンでコップに水を注ぐと、男の後ろに立つ。洋式トイレの便器に取り付くようにして泣いている男の背中は、いかにも惨めで哀れに見えた。

「……はい、お水」

 麻奈が声をかけると男は振り返った。その顔は涙と白粉おしろいと鼻水と嘔吐したものでぐしゃぐしゃだった。思わず目をそむけたくなるようなひどい顔であるが、麻奈は目を逸らさない。

 男は麻奈の顔とコップを交互に見、躊躇ためらいながらもコップに手を伸ばした。男の手に確かにコップが渡ると、麻奈は体を伸ばして男の横にあるトイレットペーパーをいくらか切って差し出した。

「これで、顔拭いて」

 言われた通りに男は顔を拭った。白粉がとれ、ほぼほぼ本来の肌の色が露わになった。先ほどまでの強い態度は何処へいったのか、男は麻奈に従順だった。

「拭いたらここに入れて」

 男は顔を拭ったトイレットペーパーを促された通り、便器の中に入れた。

「もう大丈夫?出るものはない?」

 男は無言で頷く。麻奈は男の横から体を伸ばして水洗レバーを押した。音を立てて水流が便器の中のもの一切を洗い流していく。

 男は音に驚き、体を逸らして壁にぶつかった。何もかもにも怯えているかのような男がどこまでも哀れに思える。

「……服は汚れてないみたいだね。よかった。……大丈夫だから、こっち出てきて。お水飲んで」

 麻奈に促され、男は廊下に出た。

 麻奈はまたトイレットペーパーを持って今度は玄関に向かった。玄関の土間に落ちた吐瀉物をトイレットペーパーで拭き取る。パンプスは辛うじて無事だった。拭き終えた後、落ちていた烏帽子を拾い上げる。

 男は麻奈の一挙手一投足を見守っていた。

「お水、飲んだ?」

 麻奈の問いに、男は頷く。麻奈は吐瀉物を拭き取ったトイレットペーパーをトイレに流した。男はまた音に怯えた。

「もうちょっとお水飲んで。喉、気持ち悪くなっていない?」

 自分がシャワーを浴びている間、水分を摂取せずに吐きながら泣いていたとすれば、相当な水分が体内から抜けているだろう。

 男がかすかに頷いたので、麻奈は流し台まで男を誘う。

「口の中漱すすいで。で、そのまま顔も洗っちゃえば?」

 給湯器のスイッチを入れ、お湯を出す。言われた通りに男は口を漱いだが、給湯器から出るお湯には触ろうとしなかった。麻奈は男の手からコップを預かり、

「大丈夫だよ。温かいお湯だから」

 湯に手を通して見せると、男は恐る恐る湯に触れた。

「大丈夫でしょ?すっきりするから、洗ってみたら?」

 男は怯えながらも袖を濡らしながらも顔を洗った。麻奈は手近にあったタオルを差し出す。

「はい、これで顔を拭いて」

 男がタオルを受け取り、顔を拭っている間に、麻奈は冷蔵庫の中からスポーツドリンクを取り出した。男が今まで水を飲んでいたコップを軽くお湯で流すと、そのコップにスポーツドリンクを注ぐ。タオルと引き換えにそのコップを渡す。

「スポーツドリンク。ちょっと甘いかもしれないけど、飲んでみて」

 顔の白粉もすっかり取れた男は警戒しながらも口にコップを運ぶ。一度、口に入れば、驚いたような表情を浮かべて飲み干した。

「水分補給にはいいから、もうちょっと飲もうか」

 男のコップにもう一度注いでやる。

 ペットボトルに残った分は、そのまま麻奈が自分で飲み干した。シャワー上りで自分の喉も渇いていた。男は麻奈の飲み干す姿を、目を丸めながら見ている。そんなにペットボトルに口をつけてのむことはおかしいことかな、と思うが気にしないことにした。

「じゃ、そのコップを持ってさっきの部屋にいこう。お互い、ちょっと話したほうがいいと思うの」

 麻奈は男に烏帽子を渡すと六畳間に入る。男も烏帽子を被り直してから、その後に続いて部屋に入って来た。麻奈はミニテーブル越しに向かいあうようクッションを置く。

 麻奈は少し苦笑してベランダの戸を少し開けた。六畳間は先ほどの滞在もあってか、男の臭いがこもっている。換気が必要だった。

 閉め切っている時よりも、戸を開けた分、外の音が室内に入りやすい。男はレースのカーテンの向こうが気になるのだろう。部屋の出入口付近に立ったまま、麻奈の背中を目で追っている。麻奈はレースのカーテンを少し開けた。

「……見てみる?」

 麻奈に呼ばれ、男は麻奈の隣に立つ。

 麻奈にとっては見慣れた風景。見慣れた現代日本の住宅地がベランダの向こうに広がっている。

 男は食い入るように外の景色を見ていたが、苦悶くもんの表情を浮かべて目を伏せた。自分の元居た場所との近似性きんじせいを探していたのだろう。しかし、残念ながら見いだせなかったようだ。

「どうぞ、座って」

 男は外の景色を見ないように視線を断ち切ると、麻奈に促された通り、クッションの上に腰をおろした。


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