第5話 ブルーニットブルース

下々しもじもの者はこのようにして湯を飲むのだな…はじめて嗅ぐ匂いだ。この匂いと色は何によるものだ?」

 男は紅茶を啜りながら麻奈に問うた。

「紅茶っていう葉っぱです」

 麻奈はミニテーブルに突っ伏したまま答える。

 色々と整理して今後の動きを考えたいのに、男が絶えず質問してくるので脳内の整理が追いつかない。

「あの白い袋の中に葉が入っていたのか?」

(どうしたらいいんだろう……やっぱり警察かな)

「そうです」

(でも、警察ってこんな得体えたいの知れない人引き取ってくれるのかな)

「これはどこで手に入るのだ?」

(それとも、記憶喪失きおくそうしつとかだったりするのかな。でも今まで嗅いだことないくらいこの人臭い気がする)

「スーパーで買った安いやつです」

(そしたら病院……?)

「すうぱあとはどこだ?この近くにあるのか?」

(いや、本当に王子様だったり、神様が願いをかなえてくれちゃうなんてそんな)

「ちょっと歩けばつきます……」

(ありえないと思うけど……でもほんとにこれどうしたら……)

 ほう、と言って男はまた紅茶を口に運ぶ。

(しばらく黙ってお茶飲んでてくれないかな。ほんっとうに頼むから)

「そこにあるそれはなんだ?」

 麻奈は男の指の先を追う。男が指さしたのはチョコ菓子の箱だった。しっとりしたケーキ生地きじにクリームを挟み、チョコレートで表面をコーティングした麻奈の朝ごはん代わりのお菓子。

「食べます?」

 言って男に個包装こほうそうになっているチョコ菓子を一つそのまま渡した。

「これは食べるものなのか」

 男はしげしげと袋を眺めていたが、麻奈が制止する間もなくそのまま袋にかじり付いた。当然、歯は袋をすべる。

「えっ!ちょっ!」

「なんだ、これは、食べられないじゃないか。下々はこのようなものを食べているのか?」

 麻奈は箱からもう一つチョコ菓子を出すと袋をやぶき、

「こうやって、袋を破いてから食べるんです」

 男に渡してやった。男はチョコ菓子を口に入れる。

「なんだ!これは!うまいな!」

 大げさな反応をしながら男はあっという間に一つ食べ終えてしまった。続いて、先に渡していた袋を自分でも開けようとするが、切り口に沿って力を加えていないのでなかなか袋が破けなかった。

 麻奈は仕方なしに男の口が触れていなかったほうを破って渡す。男はおいしそうに二個目も平らげてしまった。そのチョコ菓子で乾いた喉を紅茶でひたす。

 紅茶はすでに冷めているが、まだ麻奈は手を伸ばせなかった。

 頭を整理する時間が欲しい。

 しかし、男は麻奈に考える時間を与えてくれない。

「馬!!」

 突然、男が大声を上げた。麻奈も声に驚き、顔を跳ね上げた。

頭弁とうのべんの馬!!」

 男は立ち上がり、ミニテーブルにカップを置いた。

其方そなた、馬を見なかったか!?」

 昨晩、神社の横道でみかけた小さな馬のことだろうか。

「鞍みたいなのがついている馬だったら昨夜…」

「その馬だ。引いて参れ!」

 麻奈は男の高圧的な態度になかなか逆らえなかった。完全に格下の相手だと思って見下していることが口調からも態度からもありありと伝わってくる。しかし、脳内の整理が追いついていない麻奈は、迷いのない男の物言いに戸惑とまどってしまう。

「え、でも…」

 現代人の大半は馬の扱いなどわからない。麻奈も御多分ごたぶんに洩れず、二十年近く前の乗馬体験が馬に触れた唯一の記憶だ。一人で馬を連れて歩くことなどできない。何より馬とすれ違ってから半日近く経っているので元の場所で見つけられるとは思えない。

「もうきっと、誰かに見つかって保護されているんじゃ…」

 日は既に高く昇っている。真昼の住宅街に馬が隠れおおせる場所があるとは考え難い。

(馬が近所にいるなんて大騒ぎになってるだろうなぁ)

「あれは頭弁の馬だ。返さねばならない。急ぎ行方を追え」

(すっごい偉そう。なんなの)

「馬がいたところで馬の扱いなんてわからないんですが」

 麻奈は立っている男に見下ろされている状況に耐えきれなくなり立ち上がる。

「では、僕がひく。案内しろ。出口はどこだ」

 麻奈の都合など構わない強い口振りである。

(とっても腹立つ。出て行ってくれるならそのほうがいいや)

 麻奈は抱えていた衣服をソファーに置く。

「あ、そっちです」

 六畳間をでて玄関へ向かう。

 女物の靴が並ぶ中、男の下足、浅沓あさぐつ異彩いさいを放っていた。男は慣れた様子でそれに足を入れる。

(うわ、靴擦れしそうな靴…ローファーをゴツくした感じ)

 玄関の土間に立った男は振り返った。

「民の生活を垣間見かいまみる良い機会であった。礼を言うぞ」

 酔い潰れて道で倒れていた男とは思えないほど自信に満ち満ちた顔だ。

「あ、はい」

(せめて顔だけでも洗ってから外に出たかった)

 化粧をしていない顔で外に出ることははばかられてマスクを棚から取る。男の顔も崩れたままだが、指摘するのも面倒だった。

 昨日と同じパンプスに足を入れ、鍵を回す。

(この人をあの神社まで案内してすぐに帰ろう。この人が何者か、王子様かなんてどうでもいい。帰ってきてゆっくりお風呂に入ろう)

 マスクを持った手でそのまま玄関のドアを開ける。

 冬の日差しが我先われさきに室内へ飛び込んできた。外の景色がドアの向こうに広がる。マンションの三階から見下ろすありふれた景色。立ち並ぶ電柱にマンション、アパート、一軒家。宅配便のトラック、走るスクーター。

 麻奈は男のあとに続こうとしたが、男は前に進み出ようとしない。足を縫い付けられたように男は棒立ぼうだちになった。

 麻奈は横から覗き込むようにして男の顔を見上げる。男の横顔は、震えていた。

「ここは、何処だ」

「え?」

 男は振り返り、麻奈の肩を強く掴んだ。

「きゃあ!」

 麻奈の手からマスクが落ちる。

 支えを失った玄関のドアが、激しい音を立てて閉まった。

「ここは……ここは何処だ。京は、京はどちらだ?」

 白塗りの顔が歪む。

「え、えっと、京都は西だけど、ここからだと新幹線使っても四時間くらいかかりますけど」

「何を言っている?!何を言っている!」

 麻奈の肩を揺すぶりながら、男は叫ぶように繰り返す。

「昨晩、頭弁の家で馬を借りて走ったんだぞ!京を離れているはずがない!!」

 焦り興奮する男につられて、麻奈の声も大きくなる。

「でも!でも昨日あなたがいたところだって、京都じゃないし!!」

「そんな筈はない!其方、何か知っているのだろう!包み隠さず話せ!!僕に、僕に何をした!」

「知らない!知らない!!あなたのことなんて、私は知らない!」

「嘘を言うな!」

 男は強い口調で吐き捨て、麻奈を玄関の壁に押さえつけた。首を振り、身を捩り、必死の抵抗も男の力には敵わない。

「嘘なんか言ってない!!昨日、あなたが外で倒れてて!このままじゃ凍死しちゃうと思ったから連れて帰っただけ!」

「僕が前左大臣の子と知ってのことだろう!」

 男の顔がすぐ目の前にある。

「本当に私は貴方のことなんて知らない!知らないったら!」

 麻奈は男を突き放そうと男の体に手を伸ばす。

 その時、男の拘束こうそくが弱まった。世界の速度が急激に遅くなる。

 麻奈の肩から落ちた男の手は、すがるように麻奈の二の腕を掴んだ。屈み込んだ男の額が麻奈の肩口かたぐちに乗る。麻奈の背にある壁に当たって男の頭部から烏帽子が落ちる。

 抵抗するために伸ばしていた麻奈の手は、そのまま男を支えるような形になった。

 麻奈と男の目が合う。

 男の目の中にいる麻奈は怯えた顔をしている。

 それ以上に、男の瞳は揺れていた。

 男の目が、麻奈から離れる。男の体が強張こわばった、と思った瞬間、

「おえっ……」

 生暖なまあたたかいものが麻奈の胸元をおおった。

 麻奈は胸元に目を落とす。男の吐瀉物としゃぶつが青いニットを流れている。視覚を追いかけるように感触が走る。ニットを潜り、シャツに染み込み、皮膚を撫でる。全身の感覚が胸元に収束しゅうそくされた。

「きゃああああああ!!!」

 麻奈の口から悲鳴が上がる。

「……っぷ」

 男の口から追い打ちをかけるように、再び未消化のものが溢れ出した。麻奈の青いニットを辿り、チェックのパンツを濡らし、足の甲へとしたたり、玄関の床へ。

 世界に時間が帰ってきた。

 麻奈は半狂乱になって言葉にならない言葉を叫ぶ。

 悲鳴を上げながら靴を脱ぎ捨て、男の体をなかば抱えるようにして廊下を走る。トイレの扉を開け放ち、男を押し込み、体をかがませる。

「……ぐぇっ」

 第三波は、水洗トイレの水の中に注がれた。

 麻奈はそれを見届ける間も無く、トイレの隣にある扉を開ける。洗濯機、洗面所ともう一つの扉。今開けた扉を閉め、鍵をかける。

「いやぁあああ……」

 吐瀉物が広がらないように、顔につかないようにしながらニットを脱ぐ。が、やはり顔に少しついてしまった。

「やだああああ」

 着ていたシャツや下着を洗濯機に放り込む。

 泣きながらすっかり裸になった麻奈はニットとパンツを持って風呂場へ飛び込んだ。

 スイッチを入れたばかりのシャワーは水しか出ない。ニットとパンツにシャワーを当てる。

 お気に入りだった濃いブルーのニット。

 吐瀉物が水圧に浮かび上がり、排水溝に向かって流れていく。

「なんで、私ばっかりこんな目にあうのよっ!」

 ようやくシャワーの水は湯に変わった。麻奈は自分の顔と胸元に向けてシャワーを当てる。

「うええええええん……」

 麻奈は、はじめて声をあげて泣いた。

 恋人との未来はなくなったと知った日から、はじめて声をあげて泣いた。

「なんでっ!なんで私ばっかり!!」

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