第4話 キスなんてなくても王子様は起きる

 僅かな隙間から室内へ染み込むように冬の日差しが侵入しんにゅうする。

 その光の下で麻奈は目を覚ました。

(……カーテンちょっと空いてた)

 昨日の酒が残っているのか、頭と体が重たい。今日は仕事も休みだ。無理をして起き上がる必要はない。

(今日は、ゆっくりしよう……)

 もう一度眠り直そうと寝返りを打った時に青い何かが視界を横切よこぎった。濃いブルーのニット。目で追えば自分の腕。

(あー……服着たまま寝ちゃってたかぁ……)

 差し込む日差しが昼近いことを麻奈に教える。箪笥の上にある時計を見ればやはり正午しょうご近い。

 服を着たままということは、シャワーも浴びずにベッドへ倒れこんだということになる。

(お風呂入って、すっきりしてからまたゆっくりしようかな)

 麻奈は重い体を起こした。寝室としている四畳間のドアに手をかける。

 背筋を小さな稲妻いなづまが走った。

 何かを忘れている、と脳が警鐘けいしょうを鳴らした。その警鐘を振り払うように勢いを付けてドアノブを回す。

 一瞬、声を上げそうになったのをなんとか喉の奥に押し込む。四畳間の入り口に立てば、脱衣所の戸、キッチン、玄関までまっすぐに見通せる。

 その玄関で仰向けに人が倒れていた。

 目の前を閃光せんこうが駆ける。

 カメラのフラッシュのようだった。

 意識が覚醒する。記憶が震えながら時の流れをさかのぼっていく。

(そうだ……タクシーが通りかかって……運転手さんに玄関まで運ぶの手伝ってもらって……)

 部屋の奥に一人で運ぶことは断念して、申し訳程度の夏布団とコートをかけて玄関に寝かせた。

 麻奈の脳裏にフラッシュの絶え間なくかれるテレビ映像や新聞記事が踊る。

 二十八歳会社員、痴漢容疑で逮捕。

(いやいや、男じゃないし)

 いつか見た謝罪会見の映像。

(何にもしてないけど)

 女性アナウンサーの真剣な表情。

(そのまま放っておいたら凍死しちゃうかもと思って)

『容疑者は意識のない男性を自宅に連れ込み……』

(昨日は寒かったし、この人も意識がなかったし!)

『人命救助と思っていた、酒に酔っていて正常な判断ができなかった、などと供述きょうじゅつしており……』

(なんで連れて帰ってくるのー!??)

『警察は事件の全容解明に全力をそそいでいくと……』

(それこそ警察に電話していれば充分だったはずだよ!!なんでわざわざタクシー?!深夜割増料金払ってタクシー?!)

 顔の真横で何かが動いた気がして、心臓が跳ね上がる。

 慌てて振り返ると、壁に掛けられた鏡に自分の顔が写っていた。

 くたびれた顔をしているが、昨日塗り重ねていたマスカラなどは綺麗さっぱりなくなっている。

(どうすんの!?本当に王子様なはずないよ!!とりあえず化粧は落とす理性はあったのに!!神様が王子様連れてきてくれちゃったはずないじゃん!なんでそこの理性は働かなかったかなー?宴会衣装だよ!こんな着物!!)

 麻奈は恐る恐る男に近づく。

 しかし、布団の隙間から覗く着物の生地は宴会の余興よきょうと考えるにははなはだ程度が過ぎているように思える。ただの余興に顔まで白く塗るものだろうか。所々白塗りが崩れているが、元は歌舞伎役者や舞妓のような真っ白い顔だったことは窺える。

 気持ちばかりが焦って解決策が見当たらない。

(もう一度寝るからその間に帰ってくれないかな!?夢だってことにならないかな!?)

「……ん……うぅ」

 着物男の口からため息のような声が出た。麻奈は飛び退くように男から離れて後退る。

(まずいよ!ダメだよ!起きちゃう!!)

 焦る麻奈をよそに、男は寝返りをうつ。

 肘を立て、体を起こそうとする男の頭から烏帽子えぼしが落ちた。烏帽子の下は短髪をハードムースなどで固めているものかと思っていたが。

(ちょんまげ!)

 息を呑んで男を見守る麻奈と、顔を上げた男の目があった。

 男の体から、夏布団やコートがすべり落ちる。

 男は白塗りの顔に一瞬驚いたような表情を浮かべたが、慌てる様子もなくゆっくりとした所作しょさで烏帽子を正した。

 麻奈は、まだ声も出ない。

 男は落ち着いた様子であたりを見渡す。男の目線を追った麻奈は、流しに食器が残ったままだ、と頭の片隅で思った。

 男の目が麻奈へ戻る。

「……ここがどこかはわからないが、まぁひとまず白湯さゆを一杯貰えるか?」

「え?」

褒美ほうびは後にとらす。早くしろ」

「あ、はい」

(さゆって白湯?)

 麻奈は慌てて流しにヤカンを置く。水道のレバーを上げれば音を立てて水がヤカンの中に落ちる。蛇口じゃぐちから水が出る。普通で、見慣れた、当然のことだ。

 しかし。

「何の音だ!」

 男は勢いよく立ち上がって麻奈の横に立った。

「や、水を……」

 背が高い。

 昨日ここまで男を連れてくることを手伝ったタクシーの運転手も、「いいガタイした兄ちゃんだねぇ」としきりに言っていたことを思い出した。

 体格差に胸が高鳴ったのもつかの間。

 違和感。

「水だと?!」

「ちゃんと水道料金、払ってますもん」

 麻奈が蛇口のレバーを下げると水は止まる。当然のことで、止まらないなら業者を呼ぶなりしなくてはならない。

「止まった……」

 先程から麻奈の鼻先をくすぐる違和感。

 麻奈はヤカンをコンロに移してスイッチを押す。ボッと音を立てて青い火がともる。

「うわ!」

 男は後ろに飛び退いた。

 ガスコンロに火がつくことは決して珍しくはない。そのように作られたものだ。

 麻奈はヤカンから湯気が昇るのをぼんやりと見守る。

 湯気の向こう。

(あ……なんか……)

 違和感の正体が、少しずつもやの向こうから現れる。

 くさい。

 生ゴミのような。

 ずっと風呂に入っていない人のような。

「んん!?」

 麻奈はヤカンから目を離し、男を見る。臭いの先は、間違いなくこの男だった。

 麻奈の好みとは離れているが、見目みめは良い男のようだった。すっと通った鼻筋に、切れ長の目。白塗りの顔や服装、雰囲気から判断し難いが、年の頃は近いようだ。

 男の両目に麻奈が映っている。

(イケメンって、いい匂いがするものだと思ってた)

 何かが、麻奈の足元から崩れていく。麻奈にもわからない何かが、取り返しのつかないことになっていく。

「あの。お名前伺っても、良いですか?」

 頭が割れるように痛む。

「何だと?」

「え、いや、だって。突然、見ず知らずの人間の家にいたわけじゃないですか。驚くのが普通かなって思うんですけど」

「僕の身分なんて後にわかることだ。名乗る必要はない」

 ヤカンの音に呼ばれ、麻奈は男に背を向けた。コンロの火を消す。食器戸棚から、マグカップを二つ取り出し、湯を注ぐ。

「私……は、紅茶に、しますけど」

 紅茶、と男は繰り返す。紅茶が何か分かっていないような口ぶりだ。

 頭の中で警鐘はかつてないほどの音量で響き渡っていた。振り返ることが、怖かった。

 現代日本に生きる成人男性で、水道の蛇口から水が出てくることを、コンロに火がつくことを、紅茶を知らない人は何人いるのだろう。

「飲んでみますか?」

 男に背を向けたまま、麻奈は尋ねた。

「毒ではないだろうな?」

「……私も、同じものを飲むので」

 缶を取ろうとする手が震えていた。遊園地で買ったクッキー缶の中にティーバッグが入っている。

 歯の根が合わないほど、自分が震えていることに麻奈は気付いていた。

 白いマグカップにティーバッグを沈める。透き通る茶色が滲み出して、真っ白だったカップの底を染めていく。適当な所で紐を引いて、もう一つのマグカップへティーバッグを落とす。

 マグカップの中身は、同じ色に変わった。

「どうぞ」

 麻奈は二つのマグカップを示す。好きな方を選ぶよう男に伝えた。男は手近にあった方ではなく、奥にあったカップを取る。

 麻奈は残されたカップを持ったまま、男の方を見ずに六畳間に入った。脱ぎ散らかした服を拾い集めながら、ミニテーブルにカップをおいて座り込む。

 冷や汗が止まらない。

 激しい鼓動が抑えきれない。

 男も部屋に入ってきた。他人の部屋だというのに、男の態度は堂々どうどうとしたもので、部屋の中を物珍ものめずらしげに見ながらソファーの上で胡座あぐらをかいた。

 麻奈は両腕に抱えた衣服を抱きしめる。

 まだ、支えきれない。

 ミニテーブルに額をつけて、安定を探す。頭がガンガン痛む。吐き気もやってきた。

 原因は昨日の酒だけではない。いや、今の事態は結局のところ昨日の酒のせいかもしれないが。

 いくら見知らぬ人の家で目覚めたとはいえ、言葉をつくせば穏便おんびんに事は運ぶかもしれない。その人が、宴会の余興でこのような格好をしているだけの人であれば。

(……もっと、とんでもないことになったかも)

(なんで私ばっかりこんなことになっちゃうんだろう)

 昨日の自分は、王子様が欲しいと神様に願った。

 王子様でなくても良かった。

 王子様である必要はなかった。

 自分を愛して、大切にしてくれる誰かであれば。

 やるべきこと、確かめるべきことは山ほどある。カップの中の紅茶が冷めて、飲み頃になったら。この紅茶を飲み終えたら、向き合わなければならない。

 どこから手をつければよいかわからなくなった洗濯物の山より大きな山と。

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