第3話 王子様が落ちてた
「もう仕事やめたい」
慣れ親しんだ友人の前だからこそ
「学生の頃ってほんと楽ちんだったよねー。とりあえず授業だけ受けてればいいし」
友人は頷きながらグラスに残っていたビールを飲み干した。
「今だったら本当にテスト勉強だってなんだってできちゃうのに」
麻奈はテーブルに突っ伏す。
「もっとまじめに勉強していればよかったって今になって後悔してる」
「していたら人生変わっていた気がするわ」
「青ちゃん。もう
「結婚の予定は?」
「未定」
「相手は?」
「いない」
友人は大きな声で笑った。友人もすでに麻奈の近況を知っている。
「じゃあ当分先だね」
「もうやだー!疲れたっ!」
麻奈はテーブルに突っ伏したまま、
しかし、すぐに跳ね起きる。個室の戸が開き、追加注文した料理と飲み物が運ばれてきた。麻奈と友人の前に何杯目かのビールが置かれた。
店員が戸を閉め、密室に戻ったと同時に友人はビールに手を伸ばす。
「寿退社ねえ」
言いながら友人は酒を口に含む。
「私は結婚しても仕事はやめないかなぁ……」
「なんで?」
麻奈は友人の顔を食い入るように見つめる。
友人も結婚をしたら仕事を辞めたいと思っているものだと思っていた。
「青ちゃんも仕事めんどいとか、学生の頃は良かったってよく言ってるじゃん。
「給料よくはないわよ。それにまだよくわかんないし」
友人はビールのグラスを気だるい様子で眺めている。
「私だって仕事が好きで結婚しても続けたいっていうんじゃないけど」
「じゃあなんで?」
「このご
「でもさー。そんなの私達も同じでしょ。私達が働いていたって何が起こるかなんてわからないじゃん」
それはそうだけどさ、と友人は話を切った。
「で、
「……それは」
思い出すことなどしなくても、あの日のことは目と耳に刻み込まれている。あの日の彼が、麻奈の前に帰って来る。もともとそこにあった空気のように聞き慣れていた声。
(お前といるのは楽だけど、なんか違うなって思って)
(お前のことを嫌いになったわけじゃないし、感謝もしてるけど)
「ヤナが……他に好きな人ができたって」
彼は、自分ではなく職場の後輩を選んだ。
結局、自分の存在は彼にとってそれだけの存在だった。長い時間を過ごすうちに、自分という存在は、彼にとって空気などではなく、ただの石ころに変わっていた。
自分だけが、その事実に気付いていなかった。
「まあ、三十越えて振られるよりはいまのうちで良かったんじゃない?」
「……青ちゃん。そうかもだけど、全然慰めになってないよ」
「でも事実でしょ」
けろりとしている友人を
促されるまま、麻奈は半分以上呑み込む。
「七年は長かったわね。当たり前のようになっていたものがなくなるんだもん。私には想像もつかないくらいしんどいでしょうよ。でも、あいつのせいであんたがずっと不幸な振られた女のままってのは悔しいわ……私が」
「青ちゃん」
「早くいい人見つけなさいよ。そんで、あんな男別れて大正解だったって笑ってやりなさいよ。今日はもう、体の中、全部中身をお酒に入れ替えるくらい呑むわよ、私も。あんたも」
言って友人はグラスの中身を飲み干した。
「そうする」
麻奈もそれにならってビールを胃に流し込む。
友人はふ、と笑顔を見せた。
「大丈夫、麻奈。いいことあるよ」
「……ありがとう」
友人のやさしさにこたえるために麻奈も笑う。
「案外、帰り道で王子様見つけちゃうかもしれないじゃん」
「ええー。こんな酔ってる状態じゃやだよー」
「ま、それもそうかな。次を頼まなきゃ。麻奈、次何のむ?」
終電近い電車内は混みあっていたが、駅に停まる度に人は少しずつ減っていく。皆、それぞれの帰る場所に向かうため、電車を降りる。
麻奈はドアに体を預けながら、窓ガラスの向こうに過ぎ去る景色を眺めていた。
灯り一つ一つに人が住んでいて、生活しているんだなぁ、と改めて
楽しくて、楽しくてたまらなかったから一人になった後にやってくる寂しさが一層重い。
先ほどまで笑っていた顔を
今日、友人の前で泣いてしまうものだと思っていた。心の中に詰まっていたものを全部吐き出すつもりでいた。
吐き出して、吐き出して楽になりたかった。
しかし、当初の思いとは裏腹に、友人の前では涙が出てこなかった。
窓ガラスに映った自分の姿を見ている今、涙が出てきた。
(酔ってるなぁ…)
人もまばらになっているとはいえ、車内にはまだ他の人もいる。
麻奈は鼻を
感情の
ハンカチを鞄から出すこともせずに指で涙を払った。
ドアが開く。降り立った最寄り駅は一段と冷え込んでいた。上りの電車は最終が行ってしまったので、隣のホームの灯りは消えている。いつも賑やかな駅が、どこか寂しい。
僅かな人の流れにのって麻奈は改札を出る。
(自転車は、いいや……)
この感情に酔いながら歩きたかった。
店舗のシャッターが閉まっていても明るい駅前通りを過ぎ、角を曲がれば、夜の住宅地に自分のヒール音だけ響く。いつもは少し早歩きになる暗い道を歩く。涙で電灯が
神社の横道。朝の神社とは雰囲気が一変した境内で、木々は寂しく揺れている。泣け、と麻奈に
(なんで私だけこんな目に……)
もういっそ、声を上げて泣きながら帰ろうか。
口を開きかけた瞬間、麻奈の心臓が跳ねた。出しかけていた声も、涙も瞬時に引っ込んだ。
背丈の小さな馬がこちらへゆっくりと歩いてくる。麻奈は自分の目を疑ったが、間違いなく小柄な馬だった。
(……ポニー?)
馬は麻奈に
(誰かが飼っていたのが逃げちゃったのかな…。でもなんか
完全に泣き出すタイミングを見失い、しばらく馬が消えた闇を見つめていた。
しかし、
(やっぱりだめだ。帰ろう。とりあえず帰ろう)
ヒールの音を鳴らしながら歩き出す。
(酔ってる。これは私が思っているより酔ってる)
神社の脇道を抜けると陸橋から降りてくる車とぶつかる交差点に差し掛かる。
麻奈はそこで再び足を止めた。今朝、神社へ参拝するときに自転車を寄せた生垣。
男が生垣の中に半ば突っ込むようにして仰向けで眠っていた。
(案外、帰り道で王子様見つけちゃうかもしれないじゃん)
ただの酔っ払い、で片づけることが麻奈にはできなかった。
麻奈は背後の神社を振り返った。夜の闇の中、鳥居の奥で社殿は静かに眠っているようでもあり、
麻奈は再び男に視線を戻す。
「どうしよう」
陸橋を降りてきた乗用車が赤信号で停止する。信号がかわり、止まっていた車は一斉に流れ出す。
麻奈はその場から動かなかった。
麻奈の背後にある神社は、静寂を抱いたまま、そこに座している。
朝の光を浴びて白く浮かび上がっていた神社は夜の空気の中で別の場所に変わってしまったようだ。車が走り抜けていく度に広がる音を、神社の沈黙が呑みこむ。
麻奈は目の前の光景から目を背け、歩き出そうとしては振り返ることを繰り返していた。
麻奈の葛藤など走り去る車のテールランプは知らない。自転車も視線をかすかに投げたが、何食わぬ顔で通り過ぎる。
麻奈だけがこの場から離れられずにいる。この場から、この状況から。
「……どうしよう」
もう何度目か分からない言葉を繰り返す。
きっと自分が神様に願ったからだ。
いや、でも決してそんなことはありえない。
ただの偶然だ。
けれど、偶然にしてはタイミングが良すぎる。
ではやはり自分が願ったからだ。
思考はずっと同じ場所を行ったり来たりだ。
学生時代に国語や歴史の教科書でみたような着物姿。夜の闇にも白く塗られた男の顔は紛れずに浮かぶ。
脳内の血管が急に太くなったように
(王子様とはいいませんから、素敵な人に出会えますように)
今朝、麻奈が背後の神社で願ったこと。
目の前にいる男の姿はまさに千年前の王子様そのものだった。
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