第2話 神頼み

 女は結婚したら家に入る。

 学生の頃は、古臭い考えだと思っていた。

 社会というものを、仕事から帰って来た父の背中の向こうにしか知らなかったからだ。

 家事をこなしつつ、社会の中で働き続けることなど自分には到底とうていできそうもない。

 ましてや、子育ても加わるとなれば生半可なまはんかな覚悟ではできない。

 家の中でも、家の外でも、休まる時がないではないか。

 ホームは下り電車を待つ人で混み合っている。麻奈は他の場所より比較的空いている場所を探して並ぶ。今日も座って帰ることはできないようだ。

 この電車に乗っている時間は三十分。途中で乗り換えて更に二十分。その後、自転車を漕いで十分。

 二時間かけて職場に来ている先輩もいる。自分だけが特別に長い通勤時間だとは思っていない。

 しかし、他人の体の疲労など分からないし、自分の体の重さしか分からない。

 体の重さが、心までも引き摺る。

 朝目覚めた時に、今日こそ家でご飯を作ろう、と思っていたが、今はとてもそんな気分にはなれない。

(家に帰っても、何もできないな)

 溜息を一つ吐くと同時に、電車がホームに入って来た。

 前髪が電車を追いかけて来た風にあおられる。髪を手櫛で梳きながら、動き出した人の波に逆らわず、電車に乗り込んだ。座ることはできなかったが、ドア近くに陣取ることができた。

 明るい車内と暗い外。

 窓ガラスは車内の光ばかりを反射して、外の景色は闇に溶け込み、あまり見えない。街灯りのみが流れていく。

 己の姿と、ただ通り過ぎていく街灯りを眺める。

 何も考えなくても、町並みは通り過ぎていった。ただ立っているだけで、時間は流れていった。

(疲れた……)

 自然に溜息が洩れる。目を開けていることも億劫おっくうに思え、目を閉じた。

 己の身一つ食い繋ぐために、今日をあと何度繰り返すのだろうか。

 玄関のドアを開け、照明をつける。暗い部屋が微かなまばたきの後、白く照らされる。

「……ただいま」

 部屋に迎えてくれる人は誰もいないと分かっているが、声を出した。

 玄関を入ってすぐに台所。台所と向き合うような形でトイレと風呂の入り口がある。台所のスペースが廊下を兼ねていて、その奥に六畳間と四畳間。四畳間にはクローゼットがある。

 駅から離れた場所ならば、部屋の間取りが広くても、家賃は駅前の狭いアパートとそう変わらない。

 元来、物の捨てられない性格で、物が多少増えても良いようにと広い部屋を借りることにした。が、既に部屋の中は物で溢れかえっていた。要ると思っている物だけではない。処分するべきだと思うものも多いが、処分するのも面倒に思え、そのまま部屋の隅に溜まっていく。

 広い部屋を物で埋め尽くしているのに、帰宅時間の遅い日が続くと、駅に近い物件にしておけばよかったと今さら思うようになっていた。

 朝に時間的な余裕さえあれば、時間に追い立てられることもなく、ゴミ出しを諦めずにすむ筈だ。

(どうせ、帰ってきても寝るだけだし)

 四畳の部屋に実家から持ってきたベッドと箪笥たんす。六畳間にテレビとパソコン、ソファー、ミニテーブルとクッション。読みかけの雑誌や置きっぱなしのマグカップ、数日前に置いた洗濯物などに占拠せんきょされたミニテーブルは本来の機能を果たせていない。

 部屋の隅に手芸用品店で買い溜めした布の山が積んである。

(趣味だって、全然できないし……)

 奮発ふんぱつして買った高性能ミシンもしばらくは動かしてもいない。

 朝脱いだ部屋着など落ちているものを避けながらカーテンを閉めた。片付けようと思っているが、なかなか手が伸びない。次の休みにと思っている間に、部屋はますます散らかっていく。

 今もコートを脱ぎすて、かばんを置くとそのままシャワーに向かった。

 シャワーを浴び終えて部屋に入ると、ちょうど携帯電話が震えていた。画面を見ると、友人の名前が表示されている。

「明日さー、呑みに行かない」

 通話ボタンを押したと同時に友人の声が聞こえ、思わず麻奈は噴き出した。

あおちゃん、いきなりだね」

「麻奈も明後日休みでしょ?」

「うん、休みだけど」

「多少スタート遅くてもいいからさ、呑もうよ」

「えー、疲れてるんだけど」

 疲れていると言いながらも、笑ってしまう。

「学生の時みたいに暇じゃないのは決まってるじゃん。いつだって疲れているし、翌日仕事だって時には明日があるしって思って遠慮しちゃうんだから」

 明日呑むしかないよ、と言い切る清々すがすがしさに麻奈は頷いた。

「わかった。明日ね」

「うん、明日。仕事してなきゃ明日じゃなくて明後日でもその次でもいいんだけどね」

 電話の向こうで友人の笑い声が聞こえた。

「じゃ、また明日」

 電話を切ってしばらく携帯を眺めていると、笑い声を聞いて軽くなっていた心が、鉛を抱えて沈みだす。

 ドライヤーの熱風は憂鬱ゆううつな気分までは吹き飛ばしてくれない。

 思いだしたくないことを思い出しかけている。思考にふたをしようと目を閉じた。

 目を閉じれば朝が来る。

 夜に眠れば、朝が来て起きる。

 毎日毎日、それの繰り返しで、時が過ぎていく。

 他のことを考えよう。

(明日はたしか、ゴミの日だ)

 麻奈はベッドに倒れ込む。

(いい加減、ださなきゃ)

 思ってはいながらも、麻奈はそのまま意識を手放てばなした。


 二週間前、世界は終わってしまったように思ったが、変わらず朝はやってきた。そして、今日も一日が始まる。

 二週間前。

 学生時代から七年間付き合っていた男と別れた。

 理由は実にありふれたもの。

 彼から他に好きな女性ができたと伝えられた。聞けば職場の後輩だという。

 一時いっときの燃えるような恋愛感情からは離れていたが、当然のごとく彼と結婚するものだと思っていた。

 このまま時に身を任せておけば来るべきものと思っていた未来はもう訪れない。それでも生きていくしかない。どこに辿り着けば良いのかもわからないまま、泳ぎ続けるほかない。

「……よし」

 今日は目覚まし時計よりも先に起きることができた。

 いいことが、起こるのかもしれない。

 そう、信じたい。

 カーテンを開けて光を取り込む。冬の日差しは室内に入ってくるのが遅い。

 しばらく溜めていたゴミを持って、いつもより少し早く外に出た。他の家から出されたゴミでゴミ置場に山が築かれている。麻奈の出したゴミも、山の一部になった。手放してしまえばなんてことはない。

 しんと冷えた冬の空気を自転車でかき分けていく。クリスマスと年の瀬近い街並みはまだ寝惚ねぼけているようだ。目覚めつつある街を自転車で突き抜ける。

 いつもと変わらない駅までの道。

 夜中、たまに買いに来る自販機。吠える犬がいる家。

 陸橋のふもとにある交差点を渡れば、いつも時間がなくて脇道を通り抜ける神社。

 しかし、今日は神社横の歩道で生垣に寄せるように自転車を止めた。

 神社は朝日を浴びて白く輝いていた。横目で見慣れていたはずの景色だが、朝のんだ空気の中で神社は特別に神々こうごうしいものに見える。

 鳥居とりいの前で一礼し、参道さんどうを歩く。頬に当たる風が火照ほてりを冷まして心地よい。

 一歩一歩、石畳いしだたみを踏みしめる。

 秋に葉を落とした木々を従えるように社殿は境内をめていた。

 すすけた色の社殿の前に立つ。

(神社に参拝だなんていつぶりだろう。お賽銭さいせんしなきゃ)

 財布を開くと五百円玉しか入っていなかった。お給料日前でちょっとつらい財布の中。迷いながらも五百円玉を賽銭箱に入れる。

 二礼二拍手一礼。

 今日まで無事のお礼だけしてその場を離れようかと思っていた。しかし、彼の顔が脳裏のうりに浮かんだ。

 忘れたくても忘れられない顔。麻奈を振った男の顔。

「……王子様とは言いませんから素敵な人に出会えますように」

 彼と別れて正解だったと思えるくらい良い人に。

 口に出して、気恥ずかしくなった麻奈は社殿から離れた。

「なーんて……」

 何を願っているんだろうと寂しくなった。

 寂しくなったのは、心の底からの願いだったからだ。

 境内を出るときに、もう一度、社殿に向かって礼をする。

(神様、気が向いたらでいいんです。でも、本当にお願いします)

 生垣に寄せていた自転車を起こす。サドルにまたがり、ペダルを漕いで、一歩踏み出す。加速にのって、更に足を踏み出す。

 いつも通り。いつも通りの朝だ。他の人にとってはいつもと変わらない。

(私にだっていつもと変わらないはず)

(いつもと変わらない、ただヤナだけが私の未来と今から消えただけ)

(あいつの横に私以外の女が立っているって、だけ)

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