ひもいと

甲斐路梓

第1話 鹿中将物語/黒川先生の授業一時間目

「どうしよう」

 冷たい夜風の吹きつける街灯の下、陸橋りっきょうをおりてすぐの交差点。

 麻奈まなの目の前で乗用車は停止している。信号が青に変わった。止まっていた車は動くことを思い出す。

 麻奈の背後にある神社は、静寂せいじゃくに包まれている。夜の空気をまとった神社は、日差しの淡い光に溶けていた朝と全く違う顔を見せる。車が流れる度に広がる音を、神社の深い闇が呑みこんでいく。

 麻奈は、目の前の光景から目を背け、歩き出そうとしては振り返ることを繰り返していた。

 麻奈の葛藤かっとうなど知らない車はすぐ先の車道を走り去る。自転車も視線をかすかにこちらへ投げたが立ち止まらない。

 麻奈だけが、この場から離れられずにいる。

 この場から、この状況から。目の前の、異質いしつな男から。

 車道と歩道の境にある生垣いけがきに、身を投げ出して男が眠りこけている。

「……どうしよう」

 もう何度呟いたか分からない言葉を繰り返す。思考はずっと同じ場所を回っていて、出口を見いだせない。

 きっと自分が神様に願ったからだ。いや、でも。決してそんなことはありえない。偶然だ。けれど、偶然にしてはタイミングが良すぎる。では、やはり自分が願ったからだ。

 学生時代に国語や歴史の教科書でみたような着物姿。

(王子様とはいいませんから、素敵な人に出会えますように)

 今朝、麻奈が背後の神社で願ったこと。

 眠っている男の姿は、まさに千年前の王子様そのものだった。




 * 黒川くろかわ先生の授業 一時間目


 先輩達は口を揃えてこのクラスの授業をとるように、と勧めてくれた。

 チャイムが鳴って、背の高い先生が教壇に現れる。

 黒川先生は灰色の長い髪を後ろで結び、髭を伸ばした何とも浮世離うきよばなれした人だった。

 軽い咳払いのあと、よく通る声でこれからの授業について説明を始めた。

「えー、皆さん、こんにちは。この授業を担当します黒川です。どうぞ、よろしくお願いします。

 さて、皆さんは王子様やお姫様が登場する物語をご存知でしょうか。小さい頃に絵本やアニメ映画で見たことがありますかね。いくつか頭の中に思い浮かべてみてください。

 毒りんごを口に含み、眠りについたお姫様。魔女に不親切をとがめられ、醜い野獣の姿に変えられた王子様。声を失い、最後は泡となってしまう人魚のお姫様。

 では、日本のお姫様と聞いて頭に浮かぶのは、どんなお姫様でしょうか。長く美しい黒髪に白い肌、十二単じゅうにひとえ

 ……今、何人かお答えくださいましたね。そう、かぐや姫。

 竹の中から生まれたたいへん可愛らしい女の子はおじいさんとおばあさんに拾われ、かぐや姫と名付けられました。おじいさんとおばあさんに大切に育てられたかぐや姫は絶世の美女へと成長し、その噂を聞きつけた求婚者が姫の家へ殺到します。しかし、かぐや姫はもともと月の住人であり、物語の結末でおじいさんとおばあさんを置いて月へ帰ってしまうのでした。

 かぐや姫の物語、『竹取物語たけとりものがたり』。その成立は平安時代初期ですから、千年以上の昔から人々に親しまれてきたことになりますね。

 平安時代中期になると、この竹取物語の影響を受けて、数多くの物語が生まれます。

 その中で、この授業ではある物語を取り上げたいと思います。

 作者は時の左大臣さだいじんの息子・藤原佳敏ふじわらのよしとし

 時代や写本しゃほんによって呼び名が変わりますが一般に「鹿中将物語かのちゅうじょうものがたり」と呼ばれる物語です。

 タイトルの由来は諸説あります。本文初頭、「かの中将、さる秋に……」の「かの」に「鹿」の字をあてたに過ぎないというものです。日本人は今も昔もダジャレが大好きですから。

 鹿の字をあてたのは「さる秋」に、秋の季語である「鹿」を掛けているからだ、とかまぁいろいろ言っていますけども、どのみち物語成立よりもずっと後の時代につけられた通り名ですから気に留める必要はないと思います。今のところは。本格的に研究なさるのでしたら別ですよ、もちろん。

 主人公は作中で中将ちゅうじょうとよばれる貴公子、まぁ言ってみれば王子様ですかね。

 中将は、大層な美男で父も有力者であるから女人に事欠かない日々を送っていたそうです。 

 親同士に決められ、同居している妻、つまり正妻もいましたが、その妻のもとへは寄り付かず、方々ほうぼうの姫に手を出していたんですって。

 この物語は前半部と後半部で全く異なる物語展開となることも特徴の一つです。

 前半部は主に中将の女性遍歴を語ることに筆が割かれています。伊勢物語いせものがたりを作者は読んでいたのかもしれませんね。ええ、きっと読んでいて、意識していたんだと思いますよ。

 物語が大きく動き出すのは、ないがしろにされていた正妻・はぎの君が病で亡くなる所からです。

 萩の君臨終りんじゅうの場に中将はいません。中将は妻の命が尽きようとしている時にも、他の女性の元へ通っているようです。

 萩の君の最後を現代語訳して、お聞かせしましょう。


 息も絶え絶えの様子で萩の君は自分の胸のあたりを掴んだ。

『ああ、なんといっても憎らしいのはあの人の薄情さよ。私の命が燃え尽きようとしていることはあの人もご存じのことでしょうに。あの人は何をもってこのような酷い扱いをなさるのか。あの人に自分の行いのむごさを思い知らせてやりたい。世が違えば貴方を相手にするものなどいないと突きつけてやりたい。そう。それができるのであれば、この残り少ない命と引き換えでも構わない』

 萩の君は侍女じじょに仏像を持ってこさせた。乳呑み児ほどの大きさで、中将が日頃祈りを捧げている仏像だった。小刻こきざみに震える手で小刀を持つと、己のてのひらに当て、すっと引いた。最後の力を振り絞り、萩の君は血に塗れた手を仏像に擦り付ける。

 何度も何度も擦るうちに赤々とした血が、金色に輝く仏像ににじんでいく。

『どうぞ、私の願いをお聞き届けください。つまらない女の悋気りんきと侮りなさいますな』

 力を使い果たしたかのように、萩の君はその日のうちに亡くなった。

 それからしばらく経った後、中将は妻のが明け、同僚の家で酒を飲んだ。帰ろうとした時に牛車ぎっしゃが壊れていたので、酔った中将は馬に乗って帰ると言い出した。

 同じく酔って気が大きくなっていた同僚はこころよく馬を貸した。

 家人けにんに向かって家まで競争だと叫び、中将は馬で駆け出した。家人たちを振り切ったところまではいいが、やがて中将は自分が知らない道を走っていることに気付いた。

 元来た道へ引き返そうか迷ううちに、目の前を青く輝くような、見たこともない美しい蝶が通り過ぎた。

 中将は誘われるように蝶を追った。

 萩の君の願いは聞き入れられていた。

 中将は、蝶を追って六道輪廻ろくどうりんねの先へ。


 いやぁ、少しホラーじゃありませんか?

 まぁ、それからはじまる鹿中将物語の後半部は、中将が蝶を追っていった先に辿りついた別世界の話が中心となりますね。

 牛に引かれることなく走る車。触れば知りたいことを教えてくれる文箱ふばこ。食料の長期保存ができるよう冬を閉じ込めた唐櫃からびつ。遠く離れた人と話ができるすずり。女が顔を出して外に働きに出る世界。

 いかがです?私達からすれば別に変わった世界じゃありませんね。自動車、パソコンに冷蔵庫、電話。上級生の女子生徒さんたちの中には今も就職活動真っ只中の方もいるでしょう。そうです、女性が顔を出して働きにでることも、今では全く不思議なことはありません。平安時代の身分ある女性は顔を隠していました。女性の顔を見ることができるのは、本当に親しい間柄あいだがらの人だけです。基本的に異性と話す時には御簾越みすごしに。どうしてもさえぎるものがない時には手元のおうぎで。

 ……庶民は違いますよ。庶民の女性はそのまんまです。

 何もかも平安の時代に生きる人からすれば信じられないようなものに囲まれた世界に中将は一人放り出されてしまう訳で、当時の読者はこんな世界は有り得ないと笑っていたことでしょうね。

 作者の藤原佳敏は少し変わった人として当時の貴族社会で有名でした。まぁ兄弟も変わっている方が多かったので、そういう家族だったのかもしれませんが。彼のお父さんもね、相当強烈な方だったみたいですよ。みなさんもお父さんの名前はきいたことがあるんじゃないでしょうか。

 この時代の物語は作者未詳のものが多い中で、鹿中将物語の作者は藤原佳敏だということがはっきりと残っています。お兄さんやお友達が日記に書いています。

 さて、この藤原佳敏はある時期、二年間ほど宮中へ全く出仕しゅっししない時期がありました。お父さんやお兄さんは『彼は病で』と言っていたようですが。

 中将が訪れた世界は当時の読者からすれば有り得ない世界だった、そうですね?

 しかし、現代人からすれば、どれも決して不思議ではないことばかりです。

 作者の藤原佳敏は未来人だったのかもしれないと笑い混じりに言う人もいるほど、物語の後半部は現代人の世界に似ているんです。

 彼が政治的不在となった二年間に、本当に輪廻の果て、時間の旅をしたのかもしれないと考えると面白くありませんか?

 タイムトラベラー、なんてね。ちょっと言い方が古いですか?おや。

 まぁ、何せよ。次回の授業からは中身に入って行きますよ。教科書、ちゃんと揃えておいてくださいね」



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