Shake Hands

初音

Shake Hands

 戦場の喧噪も、銃声も怒号も、二人の耳にはもう入らなかった。


「どうして…?」


 恭平は尋ねた。

 鉄次郎は、質問には答えなかった。代わりに、


「最期に会えて、よかったよ」


 と言った。


 鉄次郎に突きつけられているのは、自ら腹を斬るか、かつての友にこの身を委ね獄に入るか、の二者択一。三つ目の選択肢として、目の前の男を斬ってこの場を去るという道もある。むしろ、鉄次郎はここまでその第三の選択肢を選び続けて戦場の中を突き進んできた。

 だが、恭平を前にした鉄次郎は最初で最後の選択肢を取る。もう迷いはなかった。

 すべてを捨てて、死に場所を求めて、ここに来た。


 恭平は悲しそうな目をしていたが、鉄次郎の気持ちはわかっていた。故にその手は、腰の刀を抜かんとしている。


「いいよ、恭ちゃん」鉄次郎は自分の刀を握る手に力を込めた。

「俺は、侍だ。侍の誇りは、それだけは唯一捨てないさ。……介錯を頼めるか」

「鉄っちゃん」


 恭平はかつてそうしていたように鉄次郎の名を呼んだ。その声は、震えていた。


「ごめん、ごめんね、おれがあの時……」

「何で恭ちゃんが謝るんだよ。俺は、後悔はしてない。ほら、早くしろよ」


 恭平は刀を抜いた。警察官にだけ帯びることを許された前時代の武器が日の光を受けてきらめく。

 鉄次郎は自分の刀を持ち、自らの腹へと向けた。帯びることを禁じられ、一度は取り上げられたものの、やろうと思えば裏の手段でいくらでもまだ手に入った、侍の魂である。


 鉄次郎は腹へと向けた刀をそのまま突き立て、一文字に裂いた。


「恭ちゃん……」


 友の名を呼ぶ。恭平は、自らの刃で友の首を斬って落とした。



* * *


 四民平等、ざんぎり頭、その他もろもろ。

 明治維新がもたらした変革は、今までの常識を覆すものばかりであった。


「鉄ちゃん、もうすぐ正式に廃刀令が出るって専らの噂だよ」


 恭平は牛鍋をつつきながら昨日新聞で見た記事の話をしていた。


「なんだよ。新政府っつうのはただでさえ俺たちのことを追い詰めてるくせによ。変な服着てふんぞり返りやがって。この上武士の魂まで奪おうってのか。俺は御免だね」


 鉄次郎はふんっと鼻を鳴らした。


「御免だねって言っても、廃刀令が正式に出されたらもう二本差しで町を歩けなくなるんだよ。新政府のやることには逆らえない。おれたち身を持って知ってるじゃないか」

「それでもだ。士族から刀を取り上げるなんて正気の沙汰じゃねえ」

「うん。おれもそう思うよ。……ねぇ、鉄ちゃん、おれ、考えてたんだけど」


 恭平は牛鍋をつつく手を止めた。なんだ食わねえのか、と鉄次郎は自分の取り皿に具材を取り分けた。味噌だれの染み込んだ豆腐や牛肉から、ほんのりとした香りが鼻に抜ける。維新がもたらしたものでよかったことといえば、おいしい牛鍋が食べられるようになったことくらいだ。


「おれさ、警察に入ろうと思うんだ」


 鉄次郎は口に近づけた牛肉を取り落とし、「アチーッ!」と声を上げた。


「け、警察に入るだって?」信じられないとばかりに、鉄次郎は穴の開くほど恭平を見つめた。

「冗談だろ?」

「冗談じゃない。本気だ。警察になるのが、刀を捨てずに済む唯一の道なんだ」

「だからって…!あんなの、侍じゃねえ!ただの政府の犬だ。そんなものに成り下がる気かよ!?」

「犬だって構わない。おれは、刀を捨てたくないんだ。親父の流派を守るには、これしかないんだよ」


 鉄次郎はぐっと口をつぐんだ。牛鍋が煮えるぐつぐつという音だけが響く。


 恭平の父親は、鉄次郎の剣術の師でもあった。だから、ただならぬ恩義はある。

 しかし、その父親もすでに亡い。確かに、恭平が受け継いでいかなければ流派は途絶え、忘れ去られ、後世にその名が残ることはないだろう。廃刀令が正式に発令されれば、殺人剣を教える町場の剣術道場は軒並み取り潰しになるという噂もあった。

 だが、それが警察官であれば、堂々と剣術を使ったり他者に教えたりできる。

 恭平の気持ちがわかるから、鉄次郎は何も言えなかった。代わりに、取り分けた牛肉を口に入れた。


「鉄っちゃん、あのさ、鉄っちゃんも、一緒に入らないか?警察に」

「はぁ!?あちっ、っつ!」


 今度は牛肉が喉につかえ、ゴホゴホとやり出した鉄次郎に、恭平は「ごめん」と小さく謝った。


「おれたち、小さい頃からずっと一緒に行動してきたじゃないか。鉄っちゃんがいれば、警察でも楽しくやっていけると思うんだ」

「何言ってんだ。警察なんか楽しいもんか。だいたい、二人揃って入隊試験に受かる保証もないくせに」

「そりゃそうだな。でもさ、どうかな。考えてみてくれないかな」

「考えるまでもなく、答えは否だ。忘れたのか?俺たちゃ、彰義隊しょうぎたいの生き残り。あいつらにやられて死んでった仲間のためにも、俺は新政府の連中なんかに魂は売らねえ」

「じゃあ、鉄っちゃんは、刀を捨てるっていうの!?」


 そう言われてしまうと、鉄次郎は言い返せなかった。


「ごめん、そういう問題じゃないよね」


 意地悪な質問だった、と恭平は反省した。刀は捨てたくない。警察にも入りたくない。それが鉄次郎だけでなく、新政府に不満を持つ大多数の士族の偽らざる気持ちであるはずだ。

 だが、もうそんな欲張りを言っていられなくなる時がすぐそこまで迫っているのもまた事実。恭平とて、思いつきでこんな話をしているわけではなかった。


「じゃあさ、鉄っちゃん、おれと勝負してよ。鉄っちゃんが勝ったら、もう誘わない」


 鉄次郎は目を見張った。今まで幾度となく恭平とは稽古で手合わせしてきたが、その勝率は七対三か八対二くらいの確率で自分の方が勝ってきた。

 恭平が考えていることがなんとなくわかった気がしたが、あえて言わずに鉄次郎は勝負に乗った。



 恭平の生家でもある山浦家の道場で、二人は向き合っていた。


 竹刀の切っ先を互いの心の臓へと向ける。


「ヤッ!」


 先に動いたのは恭平だ。右袈裟から斬り込んでくるのは恭平の定石。長い付き合いでその動きを十二分に知り尽くしていた鉄次郎は下段から竹刀を振り上げ、恭平の竹刀を払った。そこにできた隙に、ダンッと足を踏み鳴らし前へ出る。

 鉄次郎の面打ちが、パーンときれいに入った。


「ははっ、やっぱり、鉄っちゃんは強いや」

「恭ちゃん……」

「鉄っちゃん、時代は変わる。おれたち、ここでお別れだ。最後に、手合わせできてよかったよ」


 やっぱりだ、と鉄次郎は思った。この為に、恭平は勝負を持ちかけたのだ。


「覚えてるかい?親父がよく言ってた言葉」

「『武士とは忠義。公方様のためにその身を賭して戦うことこそ、誠の武士おとこだ』ってやつだろ?」 

「さすが、覚えてるね」

「当たり前だろ。だからこそ、俺は警察には入らない。例えその結果、刀を捨てることになってもだ」


 恭平はその言葉を聞いて、そっか、と笑った。


「なんだか滑稽だね。おれは刀を守るために武士としての誇りを捨てる。鉄っちゃんは、誇りを守るために刀を捨てる」

「まあ、そうだな。でも、俺たち二人とも、ある意味山浦先生の教えは捨てないってことでいいんじゃないか。俺は先生から教わった義の心を。恭ちゃんは勿論、先生の剣をだ」


 鉄次郎が絞り出したような笑顔を見せると、恭平は右手を差し出してきた。


「なんだよ」

「西洋ではこういう時、互いの手を握るんだって。シェイクハンドっていうらしい」

「はっ、とんだ西洋かぶれだな」


 口ではそう言いながらも、鉄次郎も笑みを浮かべた。右手を差し出し、恭平のそれを握る。


「それじゃあ、元気で」


 どちらからともなく、互いの健勝を祈った。

 二人は、こうして袂を分かったのであった。


 その後、正式に廃刀令が発布された。蓋を開けてみれば、刀の所持自体は禁止されず腰に大刀と脇差しを差して外を歩くことを禁止するものであった。


 それでも、多くの士族は廃刀令に不満を持った。刀を家に置いておいたところで何の意味もない。帯刀してこそ侍であると。


 廃刀令が出てしばらくは、反抗心から従来と変わらず帯刀して歩く者も多かった。鉄次郎もその一人であったが、お咎めなしで過ごす日々も間もなく終わりを告げた。


「そこの者、廃刀令を知らんのか。なぜ腰に刀を帯びている。名を名乗りなさい」


 今まで上手くすり抜けていただけで、ある日ついに鉄次郎は警察官に見つかってしまった。


「高野鉄次郎。だが、知らないね。新政府のクソ野郎共が作ったくだらねぇ法なんてよ」

「貴様、お上を愚弄するのか!」

「俺はそのお上とやらに忠誠を誓った覚えがないんでね」


 鉄次郎はそう言うと、踵を返して走り出した。逃げられればそれに越したことはないが、戦うことになったとしても細い路地に入って一対一で戦わざるを得ない状況に持ち込めば幾分やりやすい。


「待て!誰が去って良いと言った!」


 数名の警察官から追いかけられる。少し先に程良い路地を見つけ角を曲がったが、なんとも運悪く前方からも別働隊が現れて、鉄次郎ははさみ打ちされる格好になった。


 こうなれば、目の前の相手から順に片付けていくしかない。鉄次郎は路地を形作る塀に背中を預け、スラリと刀を抜いた。

 そうかといって、無駄な殺生は鉄次郎も望むところではない。左から向かってくる警察官の刀を払って取り落とさせ、右から来る方に向き直る。相手はすでに刀を振りかぶっていたが、間一髪で鍔元つばもとで受け止めた。

 しかし、そこで背中に隙ができてしまった。刀の鞘と思しき棒で左側の警察官から思い切り背中を突かれると、鉄次郎は体勢を崩した。続けざまに体当たりを食らい、鉄次郎は地面に膝をついてしまった。


 もともとが、多勢に無勢。あっという間に後ろ手に縄で縛られ、鉄次郎は身動きが取れなくなった。


「口ほどにもないな。この刀、没収させてもらうぞ」先ほど鉄次郎に向かってきた警察官は刀を納めると、鉄次郎の前にしゃがみ込み、ニヤリと笑った。


「くそっ、誰が渡すもんか!」

「口の利き方に気をつけろ。本当なら獄に放り込んでもよいところ。これは温情であるぞ」


 獄、という言葉に鉄次郎は身震いした。


「鉄っちゃん」


 その時、後ろから聞こえた聞き慣れた声に鉄次郎は思わず振り向きそうになったが、両手を絞める縄に力を込められ、ぐあっと声を上げるに止まった。

 今まさに、鉄次郎の両手を縄で縛っているのは、恭平であったのだ。


「お願いだ。刀を差し出してくれ。鉄っちゃんが獄で苦しむ姿なんて、もう見たくないんだ」


 鉄次郎にしか聞こえない小さな声で、恭平はそう言った。

 言われなくとも、鉄次郎の脳裏には忌々しい記憶が蘇っていた。

 上野の戦で負けた後、恭平と共に獄に入れられていた一年間。二度と思い出したくもない日々。

 鉄次郎は観念したように頷き、「持ってけよ」と目の前の警察官を睨んだ。


「そうだ、それでいい」警察官はそう言うと、落ちていた鉄次郎の刀を拾い上げた。


 続いて他の警察官が前に出て、鉄次郎の腰から鞘を抜き、脇差しも鞘ぐるみ抜いた。


「ごめんな、鉄っちゃん」恭平は先ほどと同じく小声でそう言うと、彼の上官に続いて去っていってしまった。


 残された鉄次郎は、呆然と、友の背中を見送るしかなかった。




 刀を捨てることになっても警察には入らない、と恭平に宣言した鉄次郎であったが、いざ本当に刀を奪われた今、無気力に日々を生きるしかなくなってしまった。そうかと言って、恭平のように警察に入るのもやはり御免である。鉄次郎は、自分の身の振り方について、ここのところ考えを巡らせていた。


 そんなある日、鉄次郎はかつて恭平とやってきた牛鍋屋に足を運んでいた。

 一人で食べる牛鍋はこんなに味気ないものなのか、と思いながらも、鉄次郎は牛肉を黙々と食べた。話す相手がいないから、隣の席の会話がよく聞こえる。


「また九州の方で反乱があったらしいぞ」

「薩摩が仲間割れしたんだろ。全くあいつらときたら。上野や会津をめちゃめちゃにしてやっと作った新政府だってのに、今度は内輪もめたぁ世話ねぇな」


 昨今新聞紙面を賑わせているのは、西日本で頻発している士族の反乱である。そんな話は別世界の話として鉄次郎は捉えていた。薩摩の連中が勝手にゴタゴタやっているだけだ、と思っていた。鉄次郎は引き続き男たちの会話に耳を傾けた。


「でもよ、新政府に一泡吹かせたいっていう目的は同じだからって、その会津の残党や旧幕府勢の生き残りも参戦してるって話だぜ」

「明るく治める、明治が聞いて呆れるな」


 はははっ、と隣の席の男たちは笑っていたが、鉄次郎はその話を聞いてハッとした。


 戊辰の戦は自分にとって負け戦だった。

 新しい時代になって、友と別れた。刀も捨てた。

 もう、自分には失う物は何もない。

 だったら、最後にひと暴れしたっていいんじゃないか――?


 翌日、鉄次郎は西へ向けて旅立った。


 

 

 明治十年。

 警察の庁舎の中庭では、ゆうに百人を越す警察官が隊列を組んで立っていた。彼らは一言も喋らず、直立不動の姿勢で長官が現れるのを待っている。こんな風に全員集合させられるからには、何か重大な知らせがあるに違いない。誰もがそんな予感を持ちつつも、口には出さなかった。やがて警察官たちの前に長官が現れた。威厳たっぷりに話し始める様子を、警察官たちは固唾を飲んで見守った。


「これより、我らは熊本へ向かう!いよいよ蜂起した反乱士族に、残念ながら新政府軍は各所で敗走を強いられている。今こそ、我ら加勢し、やつらの息の根を止める!」


 おうっ!と警察官たちは声を揃えた。

 拒否することなど、できるはずもない。

 ビシッと敬礼をした警察官の中には、山浦恭平もいた。


 翌日、恭平らは西へ向かって旅立った。



* * *


「鉄っちゃん、どうして…」


 恭平はその場に崩れ落ちた。


 こんなところにいるはずがない。人違いであって欲しい。

 その願いは虚しく打ち砕かれた。


 恭平は、たった今自分の手で殺めた友の亡骸をじっと見つめた。胴体だけになってしまった鉄次郎の、まだ暖かい右手を握る。その腕は、ずっしりと重かった。


「シェイクハンドだ、鉄っちゃん」


 侍は、泣いてはいけない。そう教えられた。

 だが、恭平はもう侍ではなかった。あの時、侍の誇りを捨ててしまったのだから。

 だから、泣いてもいいだろう。


 恭平は人目もはばからず泣いた。

 敵のために泣いたとなれば、どんな咎めを受けるかわからない。

 それでも、恭平は泣いた。


 銃声や咆哮が、再び恭平の耳に入ってきた。

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