第4話

 それから月に二度、僕は海辺の町に帰り、彼女に会いに行った。初夏が過ぎ、梅雨を迎え、その梅雨も明けた。夏が盛りを迎えていた。晴れ渡った空の青の色は一層濃く、深みを増している。この季節になるとこの町が一層懐かしく感じられる。幼い頃の、夏休みを思い出すからだ。


 車で海沿いを走りながら、祖父のことを思い出す。

彼が亡くなる前、夏場はよく一緒に海に出かけた。祖父の趣味は絵を描くことで、彼のスケッチブックにはこの町の海の絵が何ページにも渡って描かれていた。

 祖父は時折筆を置き、岸にしゃがみ込んで右手を海に浸す癖があった。「何をしているの」と尋ねると、祖父は僕を見上げ、眩しそうに目を細めた。

「おまえのおばあさんに挨拶をしているんだよ。会いに来たよって」

 祖父は答える。僕は目を大きく開いて、深い青緑色をした海底に視線を向けた。

「おばあちゃん、ここにいるの?」

 祖父の皺だらけの手が、波に遊ばれて揺らいでいる。水流にたゆたう彼の手は、優しく開かれていた。

「彼女はここからきたんだ。だからきっと、ここに帰ってきている」

 祖父は僕の問いに、呟くように答えた。その意味を分かりかねた僕は、困った顔で首を傾げる。祖父は笑っていた。おいで、と僕を隣に座らせる。僕も右手をそっと、海に浸した。

「おばあちゃんに会わせてやりたかったよ」

 呟くように祖父は言った。僕の右手を包み込む柔らかな波は、微笑むように光っていた。ふと、僕の目が岸辺に揺れるものを認める。

「クラゲだよ、おじいちゃん」

 ぱっと顔を上げて僕は言う。祖父はくしゃりと顔を歪めて笑い、頷いた。

「おまえは、ずっとここにいるんだよな」

 祖父は独り言のように呟くと、濡れた右手をシャツで拭い、絵筆を手に取る。柔らかな波間に祖父は、浮遊するクラゲの姿を描き加えていた。


    *


「お隣さんから花をもらっちゃったんだけど」

 高台の家を訪ね、僕は実家でもらった百合の花を彼女に差し出した。純白の百合だ。リボンもついていない無粋な花束だが、白い可憐な花は涼しげで美しかった。

「あら、いいの? わたしがもらってしまって」

 彼女は大きく目を見開いて、花と僕を交互に見る。僕は眉を下げて頷いた。

「もう墓にも仏壇にも新しい花を供えてしまって……悪くなってしまうともったいないから」

 そう言うと彼女は安堵したように目を細めて花を受け取った。僕は彼女に促されるままに玄関を上がり、居間へと向かった。彼女は棚から花瓶を持ってきて、

「百合は夏の花ですもんね」

 と言う。僕はそうなのか、と頷いた。

「よく知ってるね」

「好きな花だもの。百年、百合が咲くのを待っていた男の話を知ってる?」

「夢十夜」

 そうよ、と彼女は目を細めた。


 青い花瓶に活けられた百合の花は、海を臨むこの家にとてもよく馴染んだ。僕がぼんやりと花を見ていると、

「お待たせしました」

 と、彼女がそうめんのざるを僕の前に置く。丸く溶けた氷につやつやと光る白い麺が絡んでいる。

「薬味はねぎと生姜で良かったかしら」

「十分だよ、ありがとう」

 僕はガラスの器にめんつゆを注ぎながら笑みを返す。ねぎとおろし生姜を器に入れた。空調の効いた部屋でも、麦茶を注いだグラスはすぐに結露して水滴をしたたらせる。彼女は付け合わせに、と鶏のささみとトマトときゅうりを和えたサラダを並べた。ごまとマヨネーズを和えたソースは、微かにわさびの香りがした。

「夏だね」

 僕は窓の外に視線をやりながら言う。

「夏は好き?」

「好きだよ。この町で生まれ育ったから」

 僕の答えに、彼女は満足したように頷いた。

「わたしも夏が好きよ。夏の海は特別だから」

「海が好きなんだね」

「ええ。海の月って書くの、わたしの名前」

 海月。僕はその字面を思い浮かべて頷いた。紅野海月というのが、彼女の名前のようだ。

 彼女と会うのはこれで四回目になるが、僕はあまり彼女のことを知らない。踏み込んで尋ねることができないのは、僕らの曖昧な関係性にある。友人、と呼ぶのが正しいのだろうが、その言葉にはめることのできない感情が僕の中にありすぎる。藍色の袖無しブラウスから覗く白い二の腕を、僕は落ち着かない気持ちで見ていた。すぐに窓の外に目をやる。窓ガラス越しに海が見える。海原に射す日差しはあまりに強く、金色に反射する光の波は身悶えする姿のようで、狂おしい気持ちになった。

 しばらく、黙々とそうめんをすすった。めんつゆを注いだ器もそのうち結露を始め、テーブルに丸く水の輪を作った。

「ねえ、場所を変えましょう」

 海月がおもむろに言った。え、と僕は顔を上げる。彼女はつるつると残りのそうめんをすすってから、

「隣の部屋の方が、海がよく見えるから」

 上目づかいに僕を見て、少し微笑んだ。

「良かったら」

 僕は頷いた。それは何か、特別な合図であるような気がしたのだ。彼女ははにかむように「行きましょう」と言って、席を立った。

 招かれたのは六畳の寝室だった。

 大きな窓ガラスは微かに青く染められている。町並みの向こう側に、空と海が遠く広がっていた。

「毎日ここで、海を見るの」

 ベッドに腰掛けて彼女は言った。僕はその隣に座る。ぴったりと、彼女は肌を寄せてきた。こんなに暑いのに、その素肌には全く熱が籠もっていない。しっとりと柔らかな白い肌。対する僕の身体は内側から熱を帯びていた。心臓が早鐘を打つ。窓からは白い日差しが差し込んでいた。彼女は立ち上がりカーテンを閉める。白いカーテンは、窓から差し込む青い光を微かに光を通し、光は波のように揺らいだ。僕は顔を上げる。彼女は僕の顔を見て微笑んで見せる。覆い被さるように体重を預けてきた彼女を受け入れ、僕は艶やかな髪をそっと撫でる。彼女は頷いた。僕はみずみずしい紅色の唇に、自分の唇を重ねた。

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