第2話

 二十年ぶりの葬式で、初めて喪主を務める。親戚もほぼいないに等しい中、僕は右も左もわからぬまま慌ただしく葬儀を進行した。葬儀社や寺院との事務的な手続き、会場設営、ほとんど見知らぬ父の関係者からの弔電や弔辞の確認、弔問受付まで、これで大丈夫なのかと不安に思いながらも取り仕切っていく。

 花環と鯨幕が現実味もなく別れを演出している。弔問客は、悲しむよりもまず戸惑いを隠せない様子で、呆然としている人も多い。

「突然のことで何と申し上げていいか……」

「まだお若いのに、お気の毒に」

 みんな口をそろえて言う。無理もないことだ。父は亡くなるにはあまりに若く、そしてその死はあまりに唐突だった。僕は丁重に挨拶を返し、頭を下げる。

 気疲れと緊張で悲しみに暮れる余裕はほとんど与えられなかった。だがそれを差し引いても、僕は父の死にあまり衝撃を受けていないようだった。茫然自失とすることもなく、死因を深く探ろうという気も湧かなかった。予感があったというわけではない。ただ、父の早すぎる死を、僕は何処かで仕方がないと思っている。

 理由は明確だった。父方の家系は、短命なのだ。

 いつからそうなのかは知らないが、祖母は父を産んで間もなく亡くなったし、僕が小学校に上がる前には、祖父も亡くなった。ふたりとも突然に、静かに人生の幕を閉じたと聞く。祖父が冷たくなって眠っていたのと同じ霊安室で父が眠っているのを見た時、ふと、これは決められていたことなのかもしれないと僕は思った。こんなことになるとわかっていれば、もっと頻繁に帰ってきたのに、とも思った。そして、常盤千歳なんていう、いかにも長く生きそうな名前を持つ僕も、いずれは父と同じようにある日唐突に短い天寿を全うするのかもしれない。

 戸惑いに包まれた会場で、葬儀はぎこちなく、しかし粛々と進められていく。

 離婚して出て行った母とは、最後まで連絡がつかなかった。何処に連絡したらいいのかすら、僕にはわからなかった。母が僕と父のもとから離れて十五年以上経つし、その間、僕が彼女に会ったのはたったの二回で、当時僕はまだ小学生になったばかりだった。あのとき母は僕に連絡先を教えようとはしなかった。幼い僕は僕で、彼女の住んでいる場所や新しい電話番号なんてものを極力考えないようにしていた。それはあまりに下手で意味のない現実逃避だった。

 母はもう、父のことなど忘れてしまっているかもしれない。

 もしかしたら、僕のことも。


    *


 父が亡くなったのは水曜日の夜で、葬儀は金曜日に執り行われた。事後処理のために、僕は土曜と日曜も海辺の町に残った。土曜日は雨で、僕は父の傘を差して挨拶回りに向かう。

 帰ってきて玄関に傘を置くと、綺麗に並べられた父の革靴が視界に入った。傘も靴も、持ち主がいなくなったことを感じさせない。部屋の中も父がいた時の状態のままだ。何処かにまだ父の姿があるようにも思える。

 これからは頻繁に帰ってきて、父の遺品を整理しなければならない。そう考えて改めて、僕はたったひとりの肉親を亡くしたのだと、実感した。祖母と祖父を見送り、母が出て行き、父までいなくなった。主を失った家は、やけにしらじらしく、広く感じられる。ふと、自分が住むアパートの一室を思い出した。出て行った恋人との未来が欠け、驚くほど広くなった僕の部屋。

 僕はひとり残されていた。周りにはもう誰もいない。家族も、家族になりたかった人も。何の寄る辺もない。僕はそのまま、しばらく座り込んでいた。


 雨上がりの日曜日、寺院への謝礼を終え、少し町を歩く。町は僕が子どもの頃から発展も退廃もしていない。海以外に特別なものなんて何もないのだ。漁業が盛んである。特産物は魚介類である。夏は海水浴場が少しにぎわう。それだけ。

 初夏の午後の日差しはもう、真夏のそれとあまり変わらなかった。漂白するような強さで僕を焼く。アスファルトに映し出された影は染みつくように黒い。

 僕は町が一望できる海辺の展望台へ向かった。切り立った崖に作られた自然の展望台だ。階段を淡々とのぼっていく。海鳴り。カモメの鳴き声。潮の香りが微かに届く。

 幼い頃、父に手を引かれてこの階段をのぼっていたことを思い出した。

 父と母の関係が駄目になった頃だ。父はいつも、頂上を見据えていた。目を細め、眩しそうな表情を浮かべて。その顔は笑うようにも泣くようにも見えた気がする。何を見ているの、と尋ねたことは一度もなかった。今になって、尋ねてみたいと思った。父さんは、あのとき何を見ていたんだ。

その問いかけが父に届くことは、決してない。

 ふいに胸を締め付けるような痛みを感じた。視界が揺らいで、鼻の奥がつんと痛んだ。僕は一度立ち止まり、あの頃父に握ってもらっていた右手を、ひとりで握りしめた。当時の父のように頂上を見据えて、次の段に足をかける。遥かに広がる空と海が、上から下へ徐々に広がっていく。

 青く開けていく視界、そして――


 そして、矢庭に現れたその姿に、僕は、小さく息を飲んだ。


 はじめに映ったのは、透けるほど白い肌と折れそうに細い手足だった。肩まで伸びた黒い髪は緩やかなウェーブを描き、風が吹くたびに白いワンピースが膨らんだ。彼女は木製の手すりに沿って歩く。目前に広がる海も相まって、まるで水の中をたゆたっているようにも見えた。彼女の周りだけ、重力が失われてしまったような、そんな軽やかな歩調だった。存分に水気を含んだ風が、ふいに冷たく感じられた。薄い雲が太陽を覆い、日差しがわずかに翳る。視界に広がる青の明度が落ちた。潮の流れのように、柔らかな水の風がもう一陣。雲が千切れ、光が揺れた。水面の反射光を思い出す。海鳴りはずっと耳の奥で響いている。僕は少し息を吐いた。吐いた息が泡になって、水上にのぼっていく様を幻視する。その向こうで、彼女は漂うように歩く。

 苦しい、と思った。

 溺れる、と思った。

 彼女はふわりと立ち止まり、手すりに両手を置いて海を見据える。微かに吹いていた風が、ふいに止まった。その時だった。突然、彼女の身体が、ぐらりと傾いだ。棒立ちになっていた僕は現実に引き戻され、慌てて駆け出す。彼女の細い腕を掴んだ。その手は柔らかく、冷たかった。彼女は、はっと目を見開いて僕を見た。「大丈夫ですか」と、僕は彼女をすぐ側のベンチに座らせながら尋ねる。

「すみません。少し立ち眩んだだけです……ありがとうございます」

 彼女は僕を見上げ、小さく笑った。透けるほどに白い肌。大きな瞳は黒く潤み、薄い唇の鮮やかな紅色が際立って見えた。あどけなさの残る少女のような顔立ちをしている。僕と同じくらいの年齢か、もしかしたら、少し年下かもしれなかった。

「熱中症かもしれません。ここで待っていてください」

 僕は彼女にそう言うと、少し離れたところにある自動販売機に向かった。スポーツ飲料を買って彼女に手渡す。彼女は「ご親切にありがとうございます」と、はにかむように笑った。


 日曜日の展望台には、僕ら以外に人の姿はなかった。

「このあたりに住んでらっしゃるんですか」

 僕の問いに彼女は小さく首を振った。肩のあたりで黒髪が揺れる。彼女は海とは逆側の、高台の方角を指さした。

「あのあたりです。ここまで、時々歩いてくるんです」

「歩いて? それは随分な距離になるんじゃないですか」

「慣れてしまえばどうってことはないんです。でも今日はちょっと油断しました。こんなに日差しが強いだなんて、思っていなかったから」

 そう言って彼女は、眩しそうに目を細めた。彼女の視線の先には海がある。僕も倣って、まっすぐに海を見た。一本の途切れのない水平線。穏やかに見えるその表面をよく見れば、幾重にも折り重なった波が揺れ、さざめきあっている。焼け付くような日差しを受けて、震えるように、閃くように。

 厚い雲に太陽が隠されるのを待って、僕は立ち上がった。

「一緒に行きましょう。僕の家はすぐ近くなんです。車でお送りしますよ」

 僕の申し出に、彼女はその大きな目を見開いた。

「そんな、そこまでお世話になるわけには……」

 彼女は首を振ったが、自分の気が収まらないから、と僕は食い下がった。これは親切などではなく、お節介の類いであるかもしれない。少なくとも、僕は純粋な親切心だけで申し出たわけではなかった。ひとりで来た道をひとりで歩いて帰るのが寂しいと思ってしまったから。そして、彼女のことを、もう少し知りたいと思ったからだ。


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