浮遊する最果て

村谷由香里

第1話

 重く暗い空気が、向かい合うふたりを包んでいる。

 彼女は口を固く結んだまま、決して僕の方を見ようとはしなかった。僕は戸惑い、目を泳がせた末にコーヒーカップに視線を落とす。食後に飲んでいたカフェラテはすっかり冷め、カップに膜を張っていた。

 壁に掛けた時計の秒針の音だけがやけに大きく聞こえる。規則正しく、沈黙を責めるように鳴る。その針が一周回りきる頃、

「別れて欲しいの」

 耐えられなくなったように、彼女が顔を上げた。

 張り詰めた静寂が壊れ、重たい空気は終わりの色を纏ってふたりの間に横たわった。僕は冷めたカフェラテから、視線を動かさなかった。驚くことは何もない。もう、わかりきっていたことだ。


 ここ数ヶ月僕らは「付き合っている」とは言い難い状況だった。連絡もほぼ取らず、たまにどちらかが会おうと声をかけても、都合がつかずに話は流れた。すれ違いばかりが続き、そのうちお互い誘うこともしなくなった。

三ヶ月ぶりに声をかけたのは、僕の方だった。

このままでは二度とこの関係の軌道修正ができないと思ったからだ。だが僕はどうやら考えが甘かったらしい。

 最寄り駅に着いた瞬間から、酷く居心地が悪かった。久しぶりに会ったから感覚が掴めないだけだと自分に言い聞かせて、なるべく優しい言葉と笑顔で彼女に接した。それでも途切れる会話と合わない視線に、次第に空気は重くなっていった。軌道修正なんてもう、とうの昔にできなくなっていたのだ。そして彼女は当然のように、別れて欲しいと、そう言った。

「……どうして」

 僕は形式的に、乾いた声で聞き返す。

「こんなのもう、付き合っていないのと同じでしょう」

 単調な声が返ってくる。僕は顔を上げ、彼女を見た。ようやく視線が合う。その、色素の薄い、少し垂れた優しげな目が好きだった。まだ好きなのかと問われれば、僕は肯首しただろう。彼女は苦しげな表情を浮かべている。泣きそうにも見えた。僕はただ、もう取り返しがつかないと、そう思った。

「そうだね」

 僕は再び目を伏せ、薄く笑った。

「仕方ないよ。ここのところ随分……すれ違っていたからね」

 だから、仕方がない。繰り返すように、僕は呟く。

 そして彼女は部屋を出て行った。いずれ彼女と一緒に暮らすことを見据えて借りた2DKの部屋が驚くほど広く感じられる。ダイニングの椅子に座ったまま茫然としているところに、電話の着信が入った。

 地元の市外局番に、少し怪訝な思いを抱きながら僕は通話ボタンを押した。


    *


 生まれ育った海辺の町に帰ってくるのは正月以来、半年ぶりだった。僕の住む町からここまで車で一時間程度だ。気軽な距離だが、盆と正月以外は滅多に帰ってこない。そんな道のりを、僕は昨日の夜から一往復半走っている。昨日は父が倒れたという連絡に慌てて駆けつけた。そして今日は、父の葬儀に出るために帰ってきた。

 車の窓を開け、国道から海を臨む。海はすっかり夏の様相だ。水平線の彼方では絶え間なく強い光が揺れていた。深い青が空との境でひしめきあう。風は水分を存分に含んでいて、いつもよりも潮の匂いが濃く感じられた。生まれ育ったふるさとの色と香り。父とふたりで過ごした町の、色と香りだった。


 父は、何の前触れもなく死んだ。

 病を患っていたわけでも、何か不幸な事故に巻き込まれたわけでもない。ただスイッチが落とされたように、彼の身体は機能を停止させた。突然倒れて、それっきりだったそうだ。

 僕は彼の死に目にあうことはできなかった。この町に辿り着いた時にはもう、すっかり青く冷たくなった父が病院のベッドに横たわっていた。線香の煙とシーツの白さだけが、やけに鮮明に視界に映った。

 バイパスを降りると、海は一層近くなる。海岸沿いを走る。横断歩道を渡っていく小学生はみんなよく日焼けしていて、浜辺で拾った流木を抱えている子どももいた。上空からはカモメの鳴き声が聞こえ、堤防では猫が何匹も転がってくつろいでいる。道路の脇に立ち並んだ家の窓はみんな白く汚れていた。風に乗って塩がこびりつき、膜を作るのだ。懐かしい町を、ぼんやりと眺めていく。ふいに、鞄の中の携帯が着信を告げた。斎場からだろうと思った。実家に着いたらすぐに折り返そう。古い家は、もう目の前に見える。ただいまと言う声に応える人は、いない。

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