ユメユメアイソーポス

@nekonohige_37

ユメユメアイソーポス

 彼女が目を覚ましたのは温かなベッドの上で無ければましてや冷たい床の上でも無く、上等な皮が張られた椅子の上でした。

 彼女の目を覚ましたのは愛らしい小鳥の囀りでなければましてや薄汚れた罵声でも無く、食器が奏でる涼やかな音色でした。

 目を開けるまでの僅かな瞬間、丹念に切り分けられ散り散りになった意識を集めながら、彼女は鼻孔の奥を擽る匂いに意識を向けます。

 その匂いは何処かで嗅いだ覚えのある懐かしい物で、だけどその匂いの正体が何かと問われれば口を噤んでしまう。

 その匂いの主はとても甘く、そして何処か怪しげな雰囲気を持っていました。

 しかしながらその匂いの正体が判らない彼女は薄く瞳を開け、その匂いの主を探します。

 「夢から覚めたかい? いいや、夢が冷めてしまったのかい?」

 目を開けた途端そんな声が彼女の耳を突きます。

 その声は温かくそれでいて何処か機械的で殺風景。

 白い壁紙に描かれた油絵の様な何処か現実味の薄い、そんな声のを操る主は彼女と向かい合う様に設置された椅子に腰かけ、彼女との間に挟まれた机に乗った料理を食べていました。

 「その分だとどうやら、夢が冷めてしまったんだね。

 それは残念だ、でも、夢から覚めるよりはずっと幸せな事なんだ。

 だって、君は夢を傷つけた訳じゃ無いのだから。

 誰かを傷つける位なら、いっそ自分が傷ついた方がずっとずっと幸せなんだ、君もそう思うだろ?」

 そう言う彼は白黒のスーツに身を纏い、口元に付いたソースをチーフで拭ってから、彼女を庇う様に言葉を繋ぎます。

 「貴方は一体……」

 グラスの中に注がれた葡萄酒を一口含み、鼻を抜ける余韻に目を細めた彼に対して彼女は率直な疑問を投げかけました。

 「僕の名前はユメクイ、今僕は大切な誰かの夢を食べてるんだ」

 そうやって二つ折りになった問い掛けに答えると、ユメクイは綺麗に磨かれたワイングラスをテーブルに置き直しナイフを皿の上に置くと、開いた手で彼女を指さしてから問いかけを返した。

 「さて、僕は君の事を『大体』知っている、でもね、僕は君の『全て』は知らないんだ。

 だから、ここは一つどうだろう。

 君の名前と、そして君がさっきまで見ていた夢について教えてくれないかな?」

 ユメクイの問いに対し、彼女は小さく頷くと口を開き、小さなリスの様な声を丁寧に紡いだ。

 「私の名前はアウル、私はどうしてこんなところに居るの?」

 一つの問いには答え、もう一つの問いに答えるよりも早く、彼女は新たな問いかけを投げます。

 しかしユメクイは問いに答える気が無いのか、小さく首を振ると質問を返しました。

 「アウル、君はどんな夢を見ていたのかな?」

 「そんな事どうでも良いの、答えて、私はどうしてこんなところに居て、こうしてテーブルに向き合って無ければいけないの?」

 「アウル、君は知らないようだけど、物事には順序って物があるんだよ。

 僕は君の最初の問いに答えた、だから次は君が僕の問いに答える時なんだ」

 ほんの少しだけ強い口調で紡がれた問いかけに、アウルは僅かな驚きを浮かべつつも頷くと、一瞬前まで見ていた筈の夢を思い出そうと瞳を閉じます。

 そんな彼女は小さく首を振ると、諦めた様に口を開きました。

 「判らないの、いいえ、私はどんな夢を見ていたのかを忘れてしまったみたい」

 「いいや、それは間違いだ。

 君は夢を忘れたんじゃない、夢を見失ったのだから。

 夢に裏切られ、夢が冷めた……だから君は夢を見失い、途方に暮れて、そしてこの場所にやってきてしまったのだね」

 アウルがどの様に答えるのか見当が付いていたが、それでもその予想が外れると信じていたユメクイは、小さく肩を落としてから口を開く。

 状況が理解出来ずに、衣装と同じ様に目を白黒にしてからアウルは考え込み。

 そして新たな疑問を紡ぎます。

 「ここは何処なの?」

 「ここの名前は誰も知らない。

 だから、ここにやって来た人に僕は、何時も曖昧な返事を返しているんだ」

 そう言うとユメクイはアウルの目の前に置かれた皿を示し、続いてその左右に置かれたフォークとナイフを掴む様にせかす。

 「早くお食べ、これはなかなか上等な夢だ」

 せかされるまま、彼女はフォークを手に取るものの、皿の上に乗ったそれを見て眉をひそめてしまいます。

 「どうしたんだい? 早くしないと夢が冷めてしまうよ」

 「冷めてしまうとどうなるのですか? いいえ、その前に私はこの様な物を食べた事がありません」

 「大丈夫さ、ここに居ると言う事は、君だって誰かの夢を食べる資格があると言う事なんだ。

 だからさあ、遠慮せずにその夢を食べてしまうと良い、いいや、君はその夢を食べなきゃいけない、夢が悪夢に変わるよりもほんの少しだけ早くね」

 急かされるまま、彼女は目の前の夢にフォークを突き立てると、ナイフで丁寧に切り分けてから口に運ぶ。

 だけど、その直後に舌の上で踊る奇怪な味覚に驚き、咳き込んでしまいます。

 「何……こんな夢、食べられる訳無いでしょ。

 私には水で押し流すのが精一杯」

 横に置かれたグラスの水を飲み干す事で口の中で暴れていた夢の切れ端を飲み込み、悪態を吐く彼女を見て何処か楽しい物を感じたのか、それともユメクイには合点がいったのか、僅かな疑問の直後に大袈裟に笑ってみせてから、ナイフを手に取ります。

 「それはそうだ、夢なんて一部だけを見ても現実味が無いものさ。

 でもね、全体を良く見まわし、良く噛んで夢を味わえば、もっともっと素敵な何かが見えてくるかもしれないよ。

 第一、君はあまりにも大きな勘違いをしているんだ。

 君がさっき飲んだ物は、水では無くて『時間』さ。

 そう、アウルはさっき他人の夢を時間で押し流してしまったんだ、それはとても酷な事だよ本当に。

 でも、まぁしょうがない、大きな夢程慣れない人には時間が必要だ、叶えるにしても押し流すにしてもね」

 そう言うと、机の中心に置かれた水差しに手を伸ばし、アウルが飲み干したグラスに時間を注ぎにこやかに笑って見せる。

 そして、今度は彼女が食べかけていた夢を見つめ、何かに気が付くとその皿を掴んで覗き込んで更に注意深く確認をすると、中で鮮やかな色彩が詰まったガラス瓶を取る為、机の隅へと手を伸ばします。

 「おや、これは悪い事をしたね。

 君に与えた夢はもうとっくに冷めていたみたいだ、冷め切ってしまった夢ほど厄介な物は無い。

 こういう夢はさっき君がした様に、膨大な時間で押し流すのも手ではある。

 でも、無理矢理飲み込み押し流すなんて事を繰り返して、そんなに大きな夢を駄目にするのは流石に大変だ。

 だからね、こういう時はこの小瓶の中身を使うと良い」

 ユメクイが手に取り、ゆっくりと差し出した色鮮やかな小瓶を見つめ、アウルは小さく鼻を鳴らします。

 その息使いに反応してか、小瓶の中身は小さく揺れて部屋の中を照らす蝋燭の光を吸い込み、代わりに千に砕いたサファイアの輝きをアウルの瞳へ届けます。

 更に、そのあまりに美しい姿に漏れた溜息に答える様に。

 今度はクチナシの花を浸した水を思わせる、澄んだ赤の光を放ちます。

 「とても綺麗だろ、これは『妥協』って言うんだ。

 本当はお金が沢山あればこんなものに頼る必要なんて無いのだけど、現実はそう都合良くはいかない。

 だから僕は、こういう時には『妥協』を使う様にしてるんだ」

 ユメクイが急かすままに彼女は小瓶の蓋を引き抜くと、すっかり冷めてしまった夢に妥協を落とします。

 妥協から立ち上る香りはとても甘美で、何時までも嗅いでいたくなる匂いでした。

 妥協が滴る様は何処か神秘的で、何時までも眺めていたくなりました。

 ですが、目の前で流れる妥協に見とれていたアウルに対して、ユメクイは慌てた様子で声をかけると、小瓶を取り上げて栓をしてしまします。

 「ごめんよ、僕の説明不足だね。

 妥協はとても舌触りが良く美味だ、でもそれ故に使い方には注意が必要なんだ。

 ご覧、皿の中の夢を。

 妥協に埋もれて夢がすっかり見えなくなってしまった、いいや、古い夢だけでは無いよ。

 これからこの皿に乗る筈の新しい夢すら置く場所が無くなってしまったんだ、ごめんよ。

 本当にごめんよ、これは僕の責任だ。

 見失ってしまった夢を下手に追いかけてはいけない、夢を見失った場合は諦めるのが一番なんだ。

 だから妥協に埋もれ、とっくに冷め切った夢は僕が処理するよ、でも大丈夫。

 僕は悪夢の処理には慣れているからね」

 そう言い、彼女が口を付けようとしていた夢を取り上げると、器に口を付けて妥協ごと夢を丸飲みにしてしまいました。

 「ごめんよ、夢を取り上げる様な真似をしちゃって。

 でも、妥協で冷め切った夢を何時までも啄ばむ位なら、いっそ僕がその夢を取り上げて嫌われてしまった方が幸せなんだ。

 だって、さっきの夢はとっくに悪夢になっているからね」

 そんな様子を物欲しそうに見ていたアウルを見つめ、ユメクイは代わりに自分が食べていた夢を彼女の目の前に差し出します。

 「代わりと言っては不十分かもしれないけれど僕の夢を食べると良い、決して大きな夢ではないけれど、見知らぬ誰かが夢を追う様に憧れ、何処かの誰かが抱いた夢だ。

 まだ冷めては居ないし、そうそう覚める事も無い。

 これ位の夢ならお金も妥協も必要無い、きっと君でも食べきる事が出来るさ」

 「あなたは一体全体何をしているの? 私には皆目見当がつかないの」

 つらつらと言葉を並べるユメクイに対し、アウルは再度率直な疑問を投げかけると悲しそうな表情を浮かべ、遅れて湧いた強い後悔に目を伏せたユメクイは、少しだけ低い声色で説明を始めました。

 「見たらもう判るだろ? 僕は誰かの夢を食べているんだ。

 ずっとずっと、誰かの夢を食べて生きているんだ、とても綺麗で美味しい夢にかぶりつき、夢を僕の現実で飲み込んでいるんだ」

 「どうして? どうしてあなたは誰かの夢を食べているの?」

 すると、ユメクイは先ほどよりもずっと暗い表情を浮かべ、その後に胸の奥深く、ずっとずっと深い処から滲む欲求と共に、唯一つの単語を紡ぎます。

 「それはね、とっても綺麗な夢だからだよ」

 そんな彼の瞳に、一筋の涙が伝います。

 「どうして綺麗な夢だと食べてしまうの?」

 「だって、どんな夢だって冷めてしまう。

 夢を見ていたって目が覚めてしまう、それは誰もが変える事が出来ない事実なんだ。

 だからね、僕はせめてその夢が覚めるよりも少しだけ早く。

 綺麗な夢が醜い悪夢に変わるほんの少しだけ早く、その夢を食べるんだ」

 そう言うと、何かを思い出した様に食べかけの夢を見つめ、アウルの一言に向き直ります。

 「全ての夢が冷めてしまうとは限らないわ。

 夢は叶える物でもあるの、どんな夢だって叶える事が出来る筈でしょ?」

 すると、孤独な野良犬が吠える様に、不意に声を張り上げ喉の奥を締め付けてからユメクイは怒鳴ります。

 「それは悪夢も叶ってしまうと言う事じゃないか!

 全ての夢が現実の物になるのなら、全ての悪夢だって現実になるんだ!!

 だったらいっそ、僕は全部の夢を食べる、誰かの夢を取り上げる事の何が悪い事なんだ!!」

 勢いに任せ、ユメクイは机の上に敷かれたテーブルクロスを引っ張ります。

 その上に乗っていた数々の食器はバランスを崩し、あるいはテーブルから滑り落ち。

 涼やかを通り越した姦しい悲鳴を響かせて砕けていきます。

 「これは君のせいだ、全部全部君が悪いんだ!」

 それでも怒りが収まらないユメクイは、椅子に座ったまま動けないアウルに歩み寄ると、持っていたフォークを構えます。

 「折角、折角僕は君を夢見たのに。

 とってもとっても素敵な夢なのに、僕にとって君は悪夢になってしまったんだ。

 これは残念だ、非常に残念だ……だから僕は……」

 「ユメクイ、貴方は何を言ってるの?」

 ユメクイの心の奥が読めないアウルは疑問符を浮かべますが、それを上書きするかの様に、新たな言葉が割れたガラスの様に鋭い断面を見せて飛びかかります。

 「君と言う存在は僕の夢だったんだ! でも、君がそれほどまでに美しいから。

 美しすぎるから、僕は君を夢であると見抜いてしまったんだ!

 そして直ぐに、君が夢では無く悪夢になってしまったんだ! 妥協なんてもう無い、君が全部使ってしまったからね。

 だから妥協は使えない、いいや、こんな素敵な夢妥協するほか無いのだけれど、それでも妥協だけはしたくないんだ! だから僕は……」

 そう言うと、次の瞬間何が起きるか悟り息を詰まらせたアウルに対し、ユメクイはフォークを振り下ろしました。

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