第14話 マスター

 星野は、もう一度、愛しい女神に会うために、彼女の勤めるカフェに来てきた。

 緊張を落ち着かせるように扉の前で人呼吸し、ドアノブに手を乗せた。

 カランカランと、間抜けな音が響き、店のなかにいた初老の男、﹙華子さんは彼をマスターと呼んでいたと思う﹚と目が合った。

「いらっしゃい。今日は華子さんいないよ」

優しい目をしたその男は気さくに言った。

「いいんです。オススメはありますか」

星野は、がっかりしつつも、どこか安心している自分に戸惑いながら、奥の席に座った。

男は、ふよふよと湯気を浮かべるマグカップを星野の前におくと、尋ねた。

「さしずめ、彼女の仕事場見学というところかね」

少年のような目をして男は言った。この男は、華子との関係をどこまで知っているんだろうか。

「じいさん、あんたは華子さんから慕われているようだから大方知ってるんだろう?同情はよしてくださいよ」

星野は、少しイライラして応えた。

「そうカッカしなさんな」

男は、ニコニコと人の良さそうな顔を崩さずに言った。

「俺は、フラれたんだから」

「あの子は、他に愛してる人がいるんだよ」

星野は男のことをぼおっと見つめた。オールバックに整えた白髪混じりの髪が印象的で、渋い水色のシャツの上に茶色いループタイを身に着けていた。

「なんだそれ」

星野は、笑った。笑いながら泣きたくなることがあることを初めて知る。

「華子くんはもっと幸せになっていいと思うんだが、違うかね?」

男は、星野の顔を覗き込んだ。

「俺も、そう思います。......だけど、俺じゃないみたいなんです」

星野は、愛しの女神の怒った顔を思いだし苦笑いした。

「そうかね。私も、そう思ったことがあったが、その人は結婚相手の暴力のせいで今は、精神病棟にいるよ」

男は干からびたように口を引き上げた。死んだ魚のような目は、宙をただよった。

「まぁ、今は、いい妻君をもらって、息子も一人いるがね」

パッと、もとの少年の顔に戻った男は星野に笑いかけ直した。

「そうですか」

星野は、華子とでなくてもこの男のようにしあわせな暮らしを手に入れられるような気がした。しかし、星野は考えた。果たして、それでいいのだろうか。自分は今、心惹かれる華子さんに全力でぶつからなくてもいいものか。

「......ありがとうございました」

星野は、まだ熱さの残るコーヒーを飲み干すと、財布を掴み立ち上がった。

 後悔はしたくなかった。

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