第4話 ミセス華子になるはずだったレディ

 薄暗いカフェの黄色いライトを頬に受けながら、美しい女は、整った眉を寄せた。

「ねぇ、マスター。あの人、香織に会いに行ったのよ?信じられますか?」

マスターと、呼ばれた初老の紳士は、目の前の美しい女に呆れた目を向けた。

「男の方が、不安になる気持ちもわからんでもないがね、華子くん」

「星野さんが、私じゃなくて香織のこと好きになればよかったのよ」

華子は、ふっと、吐き捨てるように言った。彼女は、数日前に、星野くんにプロポーズされたばかりである。

 「普通なら、人の友達に相談なんてしませんよ。これは、私たちの問題なのに」

 華子は、香織からの電話を思い出しながら、深く息をはいた。  

 香織から、連絡がかかってきたのは週末の夕方だった。ちょうど、華子が、夕食用にネギを刻んでいるところで、携帯電話がぴろぴろと間抜けな音で着信を伝えた。

「はい、もしもし。なに、香織?」

華子は、水で手を軽く流してから電話をとった。

「そうよ。登録してくれてないの?」

「めんどくさくて。登録してほしいの?」

「いいけど。今日は、その事じゃなくて、この間、スーツの彼と会ったわ。え、とーー誰だったかなーー星野くん」

「どうして?」

「華子さんは僕のことを嫌っていないかって聞きに」

「大変ね」

「なによそれ。他人事じゃない。彼、かわいそうよ」

怒ったように言った香織をなだめながら、華子は、カワイソウという単語を反芻していた。

 

 ふと、思い出した顔をして華子はもう一度マスターを見上げた。

「彼ね、革靴なの」

「は?」

「彼は、秋の服が好きなんです。エナメルのパンプスよりも、ブラウンの革のショートブーツを履いてる女の子が好みなの。私は、なぜか例外みたいですけど」

それは、マスターに、国語が好きだ、と言う十代の少女とおんなじくらいぼんやりとした印象を与えた。

 「ここだけの話、私はまだ、創太さんが好きなのかもしれません。私は、未だに創太さんのくれた靴が手放せないんです」

「雨の色の靴......」

「ご存知でしたか。ーーそうーーそれです」


 あの日は、小さな粒の雨が降っていて、公園の石畳を艶っぽく光らせていた。

 入園料150円の日本庭園で、創太と華子は、お茶と和菓子を味わっていた。雨のせいか人もいなくて、華子はその心地よい静けさに体を委ねていた。

「はなちゃん」

創太の声﹙華子をはなちゃん、と呼んだ﹚に、創太の方を見ると、創太は大きな鞄から、白い箱を取り出した。 

「これ、お店で見つけて、はなちゃんの色だなって思ったんだ」

華子がそっと蓋を開けると、中には一足のパンプスがあった。グレーのような、孔雀のようなその色は、華子にとっての創太の印象とぴったりと重なった。

「雨天兼用?みたいなやつだって」

ぼんやりと、創太が言った。

「履いてもいい?」

「もちろん、どうぞ」

 華子は、そのエナメル質のパンプスにうっとりと足をいれた。

ふわりと、立ち上がると、屋根から出て、ポツポツと降る小さな雨の粒を乗せる靴を見下ろした。

「雨の色 ......」

「え?なんて?」

華子の呟きに、創太は首をかしげた。

「雨の色だって思ったのよ!」

華子は、くるりと回って創太を振り返ると、笑いながら言った。


 「あのとき、雨の色だって思ったんです。艶っぽくて、儚くて、だけど、どこか印象深い」

私、あの人と結婚するんだってずっと思ってた、そう呟いて、華子は、マグカップを両手で持ち上げると、ふぅっと息を吹いた。

「でも、困ったことに、創太さんは、雨が止むようにいなくなってしまいました。私の中に大きな水溜まりを残したまんま」

華子は、自傷気味に笑うと、コーヒーご馳走さまでした。明日のバイトは休ませていただきます、私の代わりに山根さんが来ることになってますから、と言って席を立った。

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