【第四章】梨本十蔵

4-1

 僕がそれを発見したのは、実家から花名を引き取り、家に戻った時のことだった。未映子からLINEが入り、仕事が伸びそうだから代わりに花名を迎えに行ってくれと頼まれたのだ。昨日の彼女の告白の後、僕は倒れる様に寝込んでしまった。未映子は冗談を言っているのか? もしそうだったら、とんでもなく趣味の悪い冗談だ。いや、僕は気付いている。あれは冗談などではない。未映子がそんな嘘をつくはずは無い。僕のちっぽけな脳みそは、その容量を遥かに超える未処理案件で溢れかえり、殆どその機能を停止させていた。それなのに今朝の未映子は何事も無かったかのように普通で、ひょっとしてあの告白は質の悪い夢だったのではと本気で疑ったりした。でもそんな筈は無いことも判っていた。完全停止して発熱の鎮静を図った筈の僕の脳は、再び処理不能な課題を与えられ、終わりの無い迷走を始めていた。そんな未映子の態度が気になり今日一日仕事が手に付かなかった僕だが、未映子の優しく、それでいて毅然とした態度に何らかの結末が待っていることを漠然と感じていたのだった。


 家の中は明かりが消され薄暗かったが、全ての物が整頓されて清掃も行き届いている感じが、ひんやりとした空気を通して感じられた。僕と未映子と花名の三人でコの字を描いて囲む小さなダイニングテーブルの上に、それは置かれていた。座る人の居ない椅子がもの悲しい空間を演出していたが、真ん中の花名の椅子にだけ幼児用の拡張チェアが備え付けてあり、三人が揃った時の賑やかな団欒を思い出させた。僕は花名をベビーベッドに寝かすと、直ぐにダイニングキッチンへと戻り、いつもの自分の席に座ってテーブルに残されていた手紙を手に取った。何故だろう。僕の心は自分でもびっくりするくらい平穏で落ち着いていた。この手紙の中には、あの告白に対する未映子なりのけじめが書き記されていることを確信した。




 / 渓一様

 / 

 / 昨夜の私の告白に、さぞ驚いたことでし

 / ょう。ごめんなさい。驚かすつもりは無

 / かったのですが、いずれは打ち明けねば

 / ならないことだったのです。もし貴方を

 / 驚かすことなく、この話をすることが出

 / 来たならどんなに良かったことでしょう。

 / 

 / 最初、私は祖母に相談したのです。貴方

 / と夏彦君が事故当時の線路脇で、石を持

 / って立っていたことを。しかし祖母の反

 / 応は意外なものでした。祖母は「その話

 / は誰にもしちゃいけないよ」と言ったの

 / です。まだ子供だった私には、その真意

 / を汲取ることが出来ませんでした。でも

 / 祖母は納得できない私に、辛抱強くその

 / 意味を説明して聞かせたのです。つまり

 / こうです。子供の悪戯によってあの事故

 / が引き起こされたことが判明したらJR

 / は賠償金を払わないでしょう。かと言っ

 / て、貴方や夏彦君の家庭に、膨大な数の

 / 被害者に対する賠償金を支払わせるなど

 / 不可能です。だから、JRに責任を負わ

 / せるためにも貴方と夏彦君のことは秘密

 / にしておかねばならなかったのです。両

 / 親を失い生活の基盤も無くした私達が生

 / きて行くためには、どうしてもそれが必

 / 要だったのです。

 / 

 / この時以来、祖母は人が変わったように、

 / 何かに憑りつかれたのでした。




 残り少ない人生を、孫の成長に捧げた優しい祖母。これまで孫の身を案じ続けて生きて来たセツは、未映子が結婚、出産を経て幸せな家庭を築いてくれたことに安心したかの様に静かに人生の幕を閉じた。それが世間の持つセツへのイメージだった。しかし未映子が子供の頃のセツは、そういった言葉で語られるような人間ではなかった。いや正確には、あの脱線事故以降、セツは変わったのであった。

 脱線事故により娘と娘婿を失ったセツは、JRから金を搾り取ることだけに腐心した。その為には、唯一生き残った未映子が、都合の良い「武器」だったのだ。無論、生きて行くための収入源である娘夫婦を突如失った老人が、孫娘を抱えて生きてゆくためには、綺麗事だけでは済まされない。その点は同情の余地が有るとは言えたが、セツの関心は未映子の成長や将来には無く、金のことだけだったのである。その為には年老いた自分と両親を失った孫という、誰の目からも明らかな被害者であらねばならず、未映子が事故の後遺症から精神的に復調して行くことは避ける必要が有った。そこでセツはそれが不要となった後も、いつまでもカウンセリングを受け続けることを未映子に課し、世間を味方に付けるという愚かな手段で裁判を有利に進めようとしていたのだ。そんなことで裁判の行く末が左右されることなど無かったが、学の無いセツには、それが何よりも大切なことに思えたのだった。かつての無邪気さを失い、あまり笑うことが無くなった未映子を見るとセツは喜んだ。学校で体調を崩し保健室に担ぎ込まれたりすれば急いで学校に駆け付け、担任教師を捕まえては脱線事故による精神的ダメージを高らかに吹聴した。そして未映子が落ち込めば落ち込むほど、セツは機嫌が良くなるのであった。


 それでも未映子はセツを恨んではいなかった。育ててくれた恩も有るし、唯一の肉親でもある。未映子にとってセツだけが、彼女の存在を「血」で証明してくれる存在だったのだ。セツだけが未映子のルーツなのだから。




 / ここまで書けば、もうお判りでしょう。

 / 私達が高校生になるまで、何故、私が夏

 / 彦君を殺さなかったのかを。そうです。

 / 私自身の身を守るためだったのです。少

 / なくとも自殺に見せかける必要が有りま

 / したが、事故直後では警察が脱線事故と

 / の関連を疑う可能性が有ります。もしそ

 / こから事が明るみに出れば、賠償請求裁

 / 判への影響は必至だったでしょう。です

 / から、事故の記憶が曖昧に色褪せ、人々

 / の心から消え去るのを待って、私は復讐

 / を実行に移したのでした。

 / 

 / 私は夏彦君を呼び出しました。そう、私

 / 達の母校、光仙中学の屋上にです。最初

 / 彼は断る素振りを見せましたが、脱線事

 / 故の件だと告げると、素直に呼び出しに

 / 応じたのでした。




――――――――――――――――――――――


送信:shibu-mie@nbs.modoco.co.jp

日時:1992年 8月12日(水)

時刻:午後 8時52分

表題:お久し振りです


突然のメール、ごめんなさい。

友達に深田君のメルアド教えて貰いました。


3年3組にいた渋川です。

お久しぶりです。お元気ですか?

覚えてくれていますでしょうか?


実は深田君に大切なお話が有ります。

今度、会って頂けないでしょうか?


よろしくお願いいたします。


――――――――――――――――――――――


From: fuka_hikonatsu_da@bw.co.jp

Sent: Thursday, August 13, 1992 03:21 AM

To: shibu-mie@nbs.modoco.co.jp

Subject: Re: お久し振りです


お久しぶりです 覚えています

でも、あまり出歩きたくないので

メールで済ませて貰えると助かります


――――――――――――――――――――――


送信:shibu-mie@nbs.modoco.co.jp

日時:1992年 8月13日(木)

時刻:午後 7時16分

表題:RE: お久し振りです


とても大切なお話なので、

是非とも直接会ってお話がしたいです。


私たちが小学生だった頃、

近くで脱線事故がありましたよね?

覚えてますよね?

その件に関するお話です。


お願いします。


――――――――――――――――――――――


From: fuka_hikonatsu_da@bw.co.jp

Sent: Friday, August 14, 1992 02:04 AM

To: shibu-mie@nbs.modoco.co.jp

Subject: Re: お久し振りです


判りました

どこに行けばいいですか?


――――――――――――――――――――――


送信:shibu-mie@nbs.modoco.co.jp

日時:1992年 8月14日(金)

時刻:午後 8時43分

表題:RE: お久し振りです


有難うございます。

来て頂けると信じていました。


明後日の日曜、夜6時。

光仙中学の屋上にお越しください。


東校舎の奥にある非常口を開けておきます。

判りますよね?

松山先生が転んで骨折した所です。


お待ち申し上げております。


――――――――――――――――――――――


From: fuka_hikonatsu_da@bw.co.jp

Sent: Friday, August 14, 1992 20:49 PM

To: shibu-mie@nbs.modoco.co.jp

Subject: Re: お久し振りです


了解です


――――――――――――――――――――――




 そこは何の変哲も無い学校の屋上であった。よく青春ドラマなどに出てくるような、平らで何も無く、そのスペースを縁取るようなフェンスが備えられた、ただの屋上だ。昼休みにそこで昼食を採る生徒がいるのだろうか、コーヒー牛乳の紙パックが潰されて転がっていた。フェンスの足元に掘られた雨水溝には、ガラの悪い連中が吸ったと思われるタバコの吸い殻も引っ掛かっている。夏休みの夕暮れ時とあって、部活動の為に登校してきた生徒たちも既に下校した後だ。ましてや日曜日とあって、遅くまで残っている者は ――教員も生徒も含め―― 一人も居なかった。フェンスに手を掛け校庭を見回しても、そこには誰も居ない。日中の賑やかな記憶が対比となって、この静けさが不気味な雰囲気を醸し出し始めていた。

 未映子はフェンスに背を向けて寄りかかると、そっと空を見上げた。薄暮になりつつある夕焼けの空模様をバックに、森へと帰るカラスたちのシルエットがどこか遠い所へ旅立つ渡り鳥のように見えた。でも彼らは何処にも行かない。ずっとこの辺りで生きてゆくのだ。彼らにはそれしか選択肢が無いのだ。ずっと死ぬまで・・・。そう思ったら、思わず拳を握りしめていた。

 「私はあんな風にはならない。ここから出て行くんだ・・・ でも、その前に・・・」

 未映子はその手から力を抜いた。そしてスカートのポケットにソッと手を突っ込み、隠し持ったカッターナイフの冷たさを確認する。そこまで考えたところで、屋上から下階へ続く降り口のドアがゆっくりと開いた。

 「ぎぃぃぃ・・・」

 躊躇いがちに開いたドアの陰から顔を覗かせたのは夏彦だ。彼は直ぐに、フェンスによりかかる未映子の姿を認めた。ドアの陰から姿を見せた夏彦はグレーのスウェットの上下という、家に引き籠っている時と同じであろうと思われるいで立ちである。その顔の青白さは、光量の不足するこの時間帯でもはっきりと見て取ることが出来た。子供の頃の、日に焼けて溌溂とした様子は全て削ぎ落され、それ以外の部分、例えば苦悩だとか後悔だとか、そういった物だけが残された搾りかすだ。


 夏彦はゆっくりと未映子に近づいた。でもその時に彼は未映子の顔を見ないように、少し俯き加減で横を向いたまま歩を進めた。そして未映子の3メートルほど手前で立ち止まったが、その口からは何の言葉も発せられることは無かった。顔はまだ背けたままだ。

 未映子は静かに話し始めた。

 「私、見てたの」

 「・・・・・・」

 「貴方だよね、脱線させたの?」

 「・・・・・・」

 それでも口を閉ざす夏彦に、未映子の怒りが爆発した。

 「何とか言いなさいよっ! 私見てたんだからね! あんたが石持って立ってるところっ! あんたが石置いたんでしょっ!?」

 今まで封印し続けてきた感情が一気に沸騰し、未映子の口を突いて溢れ出した。未映子は夏彦に掴みかかり、その襟首を揺すりながら叫んだ。

 「あんたのせいで、お父さんもお母さんも死んだんだよっ! なんであんただけ生きてるわけっ? あんたのせいで私がどんな思いをしてきたか判ってんのっ!?」

 未映子は握り拳で夏彦の顔を打った。何度も打ち付けて、夏彦の鼻から血が滲み出たが、それでも夏彦は顔を背けることもせず、その殴打を甘んじて受け続けた。

 「あんたのせいだからねっ! あんたのせいなんだからね。あんたのせいなんだから・・・」

 未映子の拳は徐々に力無いものに変わってゆき、最後には力尽きて動きを止めた。その代わり未映子の口からは嗚咽が漏れ始め、逆に夏彦にすがる様な形になった。やっと夏彦が口を開いた。

 「そうか、知ってたのか・・・」

 その言葉に反応した未映子が、キッとその顔を睨んだが、手も言葉も出てはこなかった。

 「ごめん本当にすまないことをしたと思ってる」

 怒りに満ちた眼差しで未映子は言った。

 「ごめんで済むわけないでしょ・・・」

 未映子の言葉は、その憤怒に対して不釣り合いなくらいに消え入りそうであった。もし自分が男で、その腕力が有れば夏彦をもっと酷く痛めつけてやれるのに。その怒りの大きさを、その憎悪の深さを相手に知らしめるには、女である自分はただ相手を睨みつけるしか無いのか? 未映子は自分が非力な女であることを恨めしく思った。

 「俺を殺すのか? そのために呼び出したんだよね?」

 夏彦が静かに聞くと、未映子は静かに頷いた。

 「分かった・・・」

 予期していた未映子の反応に対し、夏彦は抑揚の無い声で言った。しかし未映子は、夏彦があまりにもすんなりと自分の死を受け入れたのに驚き、目を見開いた。

 「俺を殺すのは、君に与えられた当然に権利だ。俺はそれを受け入れるよ。それで俺が犯した罪を贖えるとは思ってないけどね。ただ・・・」

 「ただ?」

 「ただってわけじゃないけど、俺はもう疲れたんだ。あの罪を背負って生きてゆくのが嫌になった。もし君が、俺の命を絶ってくれるのなら、俺は君に感謝するよ」

 「・・・・・・」

 未映子は今まで、自分のことしか考えていなかったことに、この時初めて気が付いた。思い返してみれば、夏彦がどんな思いでいるかなど考えた事も無かったのだ。

 「いや、それじゃ君の気が済まないか・・・ 相手が怯えて取り乱し、みっともなく地べたを這いずり回って命乞いして、それでも許されず後悔の念に打ち据えられながら死んでゆく・・・ みたいな感じじゃなきゃ殺し甲斐が無いかな?」

 夏彦は少し冗談ぽく言ったが、未映子は笑わなかった。笑えなかった。

 「でも、ごめん。やっぱりさっきのが俺の偽らざる本心なんだ。これでやっと自由になれる。これまで背負ってきた重荷を降ろすことが出来る」

 「そんなの、どうでもいい!」

 未映子はあやふやになってしまいそうな自分の決意を鼓舞するように声を荒げた。

 「私はバランスを取りたいだけなの! 両親が死んだのに、貴方は生きてる。それが受け入れられないだけの!」

 未映子はポケットに手を入れ、カッターナイフの存在を確認した。そして刃が手前に向かないように握り直した。早くこれを終わりにしたかった。

 その時、夏彦が未映子の横を通り過ぎてフェンスに手を掛けた。驚く未映子を無視し、夏彦は黙ってそれを乗り越える。屋上の縁に立つ夏彦の身体は、ユラユラと風に揺れているようだ。夏彦は下を見ながら言った。

 「最後に一つだけ、聞かせてくれないか?」

 「な、何を?」

 「君が電車の窓から見た時、俺の他に誰か居たかい?」

 未映子は黙って頷いた。

 「渓一も見たんだね?」

 再び未映子は頷いた。その時、夏彦は地上から目を離し、振り向くように未映子の顔を見ていた。

 「俺がお願いできる立場じゃないんだが・・・ 渓一のことは殺さないでやってくれないかな?」

 「何故? どうして彼だけ殺しちゃいけないの?」

 「アイツは俺を止めようとしてたんだ。何度も止めるように言ってくれた。それなのに・・・ それなのに俺はアイツの忠告を聞かず・・・ だから渓一には何の責任も無いんだよ」

 未映子は夏彦の意外な申し出にどう答えてよいか判らなかった。

 「か、考えておくわ」

 それを聞いて夏彦は安心したかのように、また地上を見下ろした。そして「ふぅ」と息を吐いた。暫く時間が過ぎ、夏彦はまた口を開いた。

 「あっ、そうだ」

 そう言いながらも夏彦の様子には、特に何かに思い当たったような心の起伏は感じられなかった。

 「君とやり取りしたメールは全て削除しておいたから。君のも削除しておくといいよ。と言っても、サーバーだかどこかに通信履歴が残っているらしいけどね・・・ でも俺が自殺したのであれば、そんな履歴が調べられることも無いだろうし」

 未映子は自分の思慮の浅さを思い知らされていた。そして躊躇いがちに言った。

 「あ、ありがとう・・・ 深田君・・・」

 今から殺そうと思っている男に感謝するなんて。未映子は自分が行おうとしていることの意味が判らなくなりそうだった。夏彦は自分が殺されることを知った上で、この屋上にやって来たのだ。自分の過去を清算するつもりで。私が殺したくて殺すのか? それとも夏彦が殺されたくて殺されるのか? 未映子は顔を背けた。

 屋上の縁に向かって、更に一歩進んで下を見た夏彦は、また暫く動かなかった。

 「ごめん、やっぱ俺には飛び降りる勇気は無いみたいだ。こんなんだから今までズルズルと生きて来られたんだろうなぁ・・・ 下らない人生だったなぁ・・・」

 一瞬の沈黙の後、夏彦は言った。

 「背中を押してくれないか?」


 未映子は夏彦の背中にそっと腕を伸ばした。その瞬間、夏彦は「ありがとう」と言った。そして未映子がその背中を軽く押すと、夏彦は音も無く落ちて行った。スローモーションのようだった。

 「パァーン・・・」という衝撃音が校舎の壁に幾度も反射し、木霊のように重なった。未映子の立つ所からは下が見渡せない。直ぐに、コの字になった校舎の屋上を走り、横から夏彦の落ちた地点を確認する。

 夏彦の脚は背の低い植木に引っ掛かっているようだったが、上半身は校舎の基礎部分にあたるコンクリート部に打ち付けられていた。腕は妙な角度で身体から伸び、それがマネキンか何かであるかの様な印象を与える。頭部の周りには血液と言うよりもむしろ、脳髄と思しき体積のある肉片が四方に発散しているように見え、艶やかなピンク色をしているそれらは、あたかも大輪の花を咲かせているかのようだ。その花を飲み込むように、徐々に血液の赤い円が広がっている。未映子は確信した。夏彦が死亡したことを。




 / その時の手の感触は、今でも鮮明に残っ

 / ています。花名を抱き上げる度に、この

 / 悍ましく罪深い手で、この子を汚しては

 / いないかと心配になったものです。

 / 

 / 夏彦君を自殺に見せかけて殺害した後、

 / もう私には、貴方を殺す気持ちは残って

 / いませんでした。だって、貴方は彼を止

 / めようとしてくれていたのですから。そ

 / こで私は、全てを忘れるつもりで、祖母

 / に頼んで東京の親戚宅に居候させて貰う

 / ことにしたのです。この地を離れれば、

 / ゼロからやり直せると思ったからです。

 / 結局、私が東京へと移ったのは、その年

 / の秋のことでした。どうして直ぐ行かな

 / かったのか? その件に関しては、もう

 / 少し後に書き記したいと思います。

 / 

 / そうして月日は流れました。私は東京の

 / 女子大を卒業し、暫く東京でOLをして

 / いましたが、祖母が体調を崩したのを機

 / にそこを退職し、宇都宮の小さな会社の

 / 事務員として戻って来たのです。




 何もかも忘れ、東京で自由な高校・大学生活を送るうちに、未映子は徐々にかつての朗らかさを取り戻していった。下宿先の親戚夫婦が、必要以上に気を使わず、普通に接してくれたことも大きかった。ただし夏彦を殺害したという思いが、その心から消えることは無かったが。

 一方、地元の残ったセツは相変わらず、近所の人を捕まえては「未映子の心の傷が・・・」と触れ回り続け、近隣住民からは疎まれていたが、そんなセツに変化が訪れたのは、未映子が大学を卒業し、東京でOLをやっていた頃の話だ。セツは、それまでの歪んだ精神構造から抜け出たかのように、平穏な人間へと変貌してしまったのであった。

 それは丁度、JRからの和解金 ――JRは最後まで、あくまでも和解金であり、賠償金ではないとの姿勢を崩さなかった―― を手にした頃と一致する。それによりセツが手にした金は億を超えたと言われている。これまで、その為だけに生きて来たと言っていい金を遂に手にしたのにもかかわらず、それを手にした途端、糸が切れた操り人形の様に彼女の活力は消え失せ、抜け殻の様な残骸になってしまった。生きる目標を失ってしまったのであろうか。そうして徐々にアルツハイマー症の症状を呈するようになり、腑抜けた様子でボーッと一日を過ごすようになったのだ。手に入れた金を使うことも無しに。最後には脱線事故で亡くなった未映子の母の名を呼ぶようになり、周りは急いで未映子に連絡を取ることになる。そんなセツを一人にしておけず、未映子は東京の会社を辞めて、故郷に帰って来たのだ。




 / そして、新米外交員として忙しい毎日を

 / 送っていた頃、偶然にも公園に佇む貴方

 / の姿を見てしまったのです。私がここを

 / 離れ、都会でそれを思い出すことも無い

 / 日々を送っている間、貴方はここを離れ

 / ることも出来ず、辛い日々を送り続けて

 / いたことを知ったのです。

 / 私は青春を謳歌していました。冬はスキ

 / ー、夏はサーフィン、普段はテニスサー

 / クルで忙しい毎日を送りました。コンパ

 / で羽目を外し朝帰りしたことも有ります。

 / 海外旅行にも行きました。何人かの男性

 / と恋もしました。OL時代には、恋人と

 / 同棲をしていた時期も有ります。私がそ

 / んな奔放な生活を愉しんでいた、正にそ

 / の時、貴方は夏彦君のことに責任を感じ、

 / 心を病み、社会から取り残され、誰の手

 / も届かない寂しい一人きりの世界に閉じ

 / こもっていたのですね。

 / 

 / のうのうと生きていたのは私でした。

 / 

 / ごめんなさい。何度でも謝ります。本当

 / にごめんなさい。でも許して下さいとは

 / 言いません。あなたの人生を無茶苦茶に

 / したのは私です。あなたが苦しみ続けた

 / 歳月は決して取り返すことなど出来ない

 / のですから。

 / 

 / でも貴方は強い人です。過去の全てを私

 / に打ち明けてくれた時、私は確信しまし

 / た。貴方が遂に、それを乗越えてくれた

 / ことを。その確信によって、私はやっと

 / 自分が背負う十字架を降ろすことが出来

 / たのです。自分の罪を償う準備が整った

 / のです。勝手な思い込みかもしれません

 / が、そんな貴方の姿を見て、私はほんの

 / 一寸だけ罪滅ぼしが出来たようで嬉しか

 / ったのです。

 / 

 / 花名をよろしく願いします。最初、妊娠

 / が判った時、正直、産もうかどうしよう

 / か迷いました。でも、私が居なくなった

 / 時、この子の存在がきっと貴方を強くし

 / てくれると思い、産むことを決断したの

 / です。

 / 私は自分勝手で罪深い女ですが、花名は

 / 違います。貴方なら花名を立派に育て上

 / げてくれると信じています。




 そこまで読んで、僕は一旦それを机に伏せた。花名がぐずり出した声が聞こえたからだ。僕は台所に向かうと、天然水のペットボトルからやかんに水を移し、それを火にかけた。それが煮沸するまでの間、未映子が使っていた粉ミルクと哺乳瓶を戸棚から取り出し、容器の側面の注意書きをザッと斜め読みする。哺乳瓶は既に煮沸消毒が済んでいる様だ。慣れない手つきでミルクをこしらえ、人肌まで冷ましてから花名に与えた。

 「はーぃ、ミルクでちゅよー。元気いっぱい飲んでくだちゃいねー」

 左腕で花名を抱きながら哺乳瓶を与えた。花名は両手で哺乳瓶を奪い取ると、一心不乱に飲み始めた。その姿に、無垢な赤子の逞しい生命力を感じた。空いた右手で再び手紙を開く。

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