3-4
「最初は10円玉だったんだ」
「10円玉?」
それを聞いた時の未映子の顔は「何処かで聞いたことが有るような・・・」という表情だった。心の何処かに10円玉が引っかかっているとでもいうような。だがその時の僕には、彼女のそんな様子に気を回せる程の冷静さは持ち合わせていなかった。今まで誰にも話さなかったことを、今となっては誰も知らないことを、未映子に話そうとしている。その結果、僕に待ち受けている未来とはどんなものなのか? それによって、僕にどんなことが起きるのか? 漠然とした恐怖が僕を飲み込んだ。でも、もう後戻りはできない。
*****
雑木林の中から二台の自転車が躍り出た。草むらに潜んでいた虫たちは、その二人に驚いて逃げ惑い、鳥たちも一斉に飛び立った。それらの自転車に跨る二人の少年は、道路に出ると全速力でペダルを漕ぎだした。
「待ってくれよー!」
渓一が叫ぶと、夏彦はペダルを蹴る足を緩めることも無く返す。
「もたもたするなよ! おいて行くぞっ!」
渓一は悔しそうに立ち漕ぎの態勢になると、ビュンと加速して夏彦を追い抜いた。二人は笑った。ゲラゲラと笑いながら疾走した。
夏休みに入って、渓一は毎日の様に夏彦と遊んでいた。今日は森に仕掛けたカブトムシを捕る罠の確認に行ったのだが、コガネムシが数匹捕らえられているだけで、肝心のカブトムシは捕まっていなかった。二人はがっかりしたが、もう少しその罠を仕掛けておくことで合意した。そして森を出た二人は、目的地も不明のまま、全速力で自転車を漕いでいた。この年頃の少年たちには、目的地など不要なのだ。
さすがに疲れ果てた二人は、近所を流れる小川の土手に自転車を放り投げると、今度は川に向かって降りて行った。どちらが言うともなく川に石を投げ始め、水切りが始まる。活発な夏彦はそういった遊びも上手で、渓一に投げ方や水切りに適した石の選択方法などをレクチャーした。その甲斐有ってか、渓一の投じる石が、何回か水面で跳ねる様になった頃、その川を渡る鉄道橋の上を、上り方面に向かって電車が通り過ぎて行った。夏彦が言った。
「あっちに行ってみよう!」
二人は、今度は線路にその遊び場を移した。そこで夏彦が考案した遊びは、草むらで捕まえたバッタなどを線路に置いて、電車に踏ませるというものだ。子供とは残酷な遊びを思い付くものである。とは言うものの、そんなに頻繁に電車が通るわけでもなく、バッタは命を落とすことも無くまんまと逃げおおせた。
そうなると、やはりつまらない。夏彦は、いまだ完遂出来ない遊びを発展させ、10円玉を線路上に置くことを思い付いた。夏彦は財布を持っていなかったので、渓一が軍資金を提供した。そして渓一もこの遊びに夢中になった。夏彦はいつだって面白い遊びを思い付いてくれる。渓一は電車が来るのが待ち遠しくて仕方が無かった。数分後、遠くから近づく下り方面行き電車の影を認めた二人は急いで草むらに隠れ、その時が来るのを待った。
轟音と共に電車が通り過ぎた。例の10円玉はパチンと跳ね飛ばされ、それを目で追い続けることは出来なかった。電車が去った後、二人は急いで線路に立ち入り、吹き飛ばされた10円玉を探した。
「有ったっ!」
軌道内に敷き詰められ、鉄錆で茶色く変色した砂利の隙間に挟まった10円玉を先に見つけたのは渓一だ。
「どれどれっ! 見せて!」
渓一が差し出した手には、ペチャンコにひしゃげてザラザラの表面となってしまった10円玉の哀れな姿が有った。それは車輪に踏まれたからであろう、湾曲さえしており、大きさも若干だが引き延ばされていた。二人は大笑いしたが、その10円玉は、この遊びを提案した夏彦の物になってしまった。渓一は納得がいかなかったが、そこでムキになって取り返すことは出来なかった。「まぁ、いいか」と渓一が引き下がった時、夏彦が言った。
「今度はコレにしよう!」
夏彦が手に持っていたのは、大人の拳ほどもある大きな石だ。しかし、渓一はそれを見て躊躇した。さすがにそんな大きな物を置いたら、電車の運転手さんに見つかって後から叱られるのではないか? 父や学校の先生などから厳しく叱責される自分の姿を想像し、渓一のウキウキはいっぺんに萎んでしまった。そんな渓一の様子に気付くことも無く、夏彦は益々興奮している様子だ。
「これが電車に轢かれたら、パァーンって飛び散るんじゃないか、パァーンって!」
それでも黙り込む渓一に気付いた夏彦が言う。
「何だ渓一、怖いのか?」
「いや、そうじゃないけど・・・」
「渓一は見たくないのか? これがパァーンてなるところ!」
「そりゃ見たいけど・・・ でもチョッとマズイんじゃないのかなぁ」
そんな渓一をよそに、夏彦は今まで見たことも無い光景が見られるという期待で、その計画を中止することなど考えられない様子であった。
「大丈夫だよ! きっと凄いことになるよ、絶対!」
それでも渓一は、そのアイデアに乗ることが出来なかった。嫌な予感とはそういうものであったろう。
「止めた方がいいって。止めときなよ」
「うるさいなぁ。じゃぁ渓一は見ちゃだめだからな、絶対。俺しか見ちゃいけないんだからな。後で『どんなだった?』って聞いても教えてやらないからな」
そう言うと夏彦は、今度は上り線の線路上にそれを置いた。
渓一はもう何も言うことが出来なかった。夏彦がすることを黙って見守るだけだ。夏彦は、更に続けた。
「あの石の次はコレだ!」
それは更に大きな石で、小学生では両手でなければ持ち上がらないような大きさであった。夏彦はそう言うと、渓一を見ながらニヤニヤ笑った。渓一は笑わなかった。するとその時、彼方の遮断機が閉まる音が聞こえてきた。二人はまた草むらに身を潜めた。といっても石が砕ける瞬間を見なければ意味が無い。二人は上体を伸び上がらせて石を見つめた。「止めろ」と言った手前、渓一がはしゃぐことは無かったが、それでも心の何処かで、この遊びが大成功して、とんでもなく面白い光景が見られるのではないかと期待していた。そして電車が石に乗り上げた。
*****
「僕はあの時、夏彦を止めることが出来なかった」
未映子は既に思い出していた。10円玉を。そう、あの元刑事である善治が言っていた言葉だ。
「そりゃぁ、二人とも子供だったさ。でもね、子供だからって罪の重さには変わりは無いよね」
夏彦がその手に握りしめていた、と善治が言っていたのは、この10円玉のことだったのだ。未映子にとって点と点でしかなかったものが、一本の線で繋がった。やはり夏彦は、この事故の責任という重圧を背負い続けて生きていたのだ。渓一は深く首を垂れて、呟くように懺悔した。
「君の両親を死なせたのは、僕たちだったんだ」
*****
その後に起こったことを、二人は呆然と見つめた。それは映画のワンシーンの様に現実味の薄い光景であった。渓一は足がすくんで動けなかった。夏彦もそうだったが、彼はその手に持つ石の重さで、現実の世界に引き戻された。その石を投げ捨てると、夏彦は急いで自転車に向かって駆け出し、サッとそれに跨って走り出した。それを見た渓一も急いで後を追い、その場から逃げ去った。
それから数日間、現場は大騒ぎであった。連日、警察やらマスコミが押し掛け、この静かな街が、いや日本中が蜂の巣をつついたような騒ぎに包まれた。
「あのことは誰にも言うなよ。どうせ誰にも見られてないんだ。黙ってれば絶対にバレないから」
「うん・・・ 判った」
世間の大騒ぎとは別に、二人の生活は直ぐに元に戻っていった。渓一の心には「罪悪感」の様な物が滓の様に沈んでいたが、夏彦は何事も無かったかのように元気いっぱいの子供に戻っていた。その様子を見るにつけ渓一は、どうして夏彦はあんなに普通にしていられるのか、不思議だったし羨ましくも感じていた。
そうして何事も無く小学校を卒業し、二人は同じ中学に進学した。ただ、その頃から夏彦は物静かな子供に変わっていった。その理由に関し渓一は、あの事故に関する罪悪感が、夏彦に中で少しずつ拡張してきたのであろうとボンヤリ考えていたが、渓一がそんなに呑気でいられたのは、『石を置いたのは自分ではない』という安心感から来るものに外ならなかった。逆に言えば、石を置いた当人である夏彦が、いったいどれ程の重圧に苛まれていたのか? 渓一は、それを感じ取れるほど気の回る性格ではなかったのだ。
いつしか夏彦は不登校となり、一方、優等生として持ち上げられていた渓一とは、立場が逆転していた。今度は、夏彦が渓一を羨ましく思うようになり、また時には、どうしてあの時もっと強い口調で止めてくれなかったのか、とも思ったりした。だがそれは、逆恨みに他ならないことは十分に理解していたし、自分を気遣って色々してくれる渓一に対し、申し訳ないと思う気持ちの方が大きかった。そう。確かに渓一は「止めろ」と言ってくれたのだ。それを無視して線路に石を置いたのは自分だ。自分以外は、誰も悪くなんかない。何もかもが自分だけのせいであり、決して誰かを非難できる立場にはないのであった。その当時は子供だったとはいえ、考えれば考えるほど自分の愚かさを突き付けられた。途方も無い数の、罪も無い人々の命が夏彦にのしかかり、その重みで彼の心は潰されていった。
*****
「そして高校に上がった時も・・・」
しゃくり上げそうになるのを必死で堪え、僕は何とかして喋り続けた。今ここで、未映子に全てを語って聞かせたところで、自分の罪がほんの少しでも軽くなるわけではないぞ、渓一。まさか、そんな都合のいいことを考えているわけじゃないよな? 自分自身を責める、もう一人の僕が心の中で僕を嘲笑った。
「僕は、自分に都合の悪いことを忘れようとしていただけなんだ。夏彦の心を見えない振りをしていただけなんだ。死んでいった人たちのことを考えない様にしていた僕は、卑劣で醜い卑怯者だ」
未映子は僕の顔に両手を添えると、僕の目を覗き込みながらこう言った。
「渓一は悪くなんかないよ。十分、苦しんだでしょ? もう自分を許してあげて」
未映子の言葉が、僕の全てを突き崩した。僕はその場に崩れ落ち、地面をかきむしった。泣くまいとする僕の努力もむなしく、涙は止めど無く溢れ出た。決して泣き崩れまいと思っていたのに。泣いて何になる? 泣けば許して貰えるのか? そんな弱い自分が嫌だった。自分が背負う十字架の重さに、今更ながらおののいている自分が許せなかった。そんなこと、判り切っていたことじゃないか。
「ごめんよ、未映子。ごめんよ・・・」
やっと落ち着いた僕は、まだ墓地横のベンチに腰かけていることに気付いた。隣に座る未映子は心配そうに僕の手を握りながらも、その瞳は薄暮の空に輝き始めた宵の明星に心を奪われている様であった。紺色の闇と茜色の地平線がせめぎ合い、その一瞬にしか見ることの出来ない荘厳なグラデーションが、二人を覆う天空を染めていた。
「有難う」と僕は言った。
僕が自失状態から戻って来たことに気付いた未映子は空を見つめるのをやめ、僕の肩に頭を預けながらこう言った。
「知ってたよ」
「えっ?」
僕は未映子が何を言い出したのか判らなかった。
「私、窓の外を眺めてたの。そして事故の直前に見たのよ」
「な・・・ 何を?」
「あなたと夏彦君を」
僕の肺は酸素を求めて喘いだが、そこから十分な酸素を摂取できずに、ただやみくもに浅い呼吸を繰り返すだけであった。
「夏彦君は手に大きな石を持っていたよね? 渓一は黒いTシャツを着てた。胸にバットマンのマークがプリントされたやつ」
僕の心臓は一気に握り潰された。それは声にならない悲鳴を上げていた。まるで小さな二十日鼠が、慈悲の無い暴力的な手にひねり潰される瞬間であるかのように。未映子の言葉は僕の心で木霊し、追い打ちをかける様に、何度も何度も僕の心臓を貫いた。
辺りを沈黙が満たした。
「し、知ってたの?」
この質問に未映子は答えなかった。その代わり、こう言った。
「でも、夏彦君・・・ 本当は自殺したんじゃないの」
「何だって!? じゃぁなんで奴は死んだんだ?」
「私が殺したの」
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