4-2
/ そしてもう一つ。貴方に話さねばならな
/ いことが有ります。これは貴方と花名を
/ 守るために黙っていたことです。でもそ
/ の罪は決して消えることは無いでしょう。
/ この件が貴方の、そして花名の重荷にな
/ らないことを心から祈ります。
会社に善治が乗り込んで来たあの日、未映子はこっそりと彼の後を追った。しかし、未映子の追及に失敗した善治の目には、強固な意志で反撃を繰り出した時の未映子の表情が残像となって映り込み、車のルームミラーに映る赤い軽自動車を認識することは出来なかった。自分が尾行されているど、夢にも思っていなかったのだ。
善治の年代物のカローラが滑り込んだのは、安い建売の一軒家であった。ただし、小さな庭や玄関先などは既に手入れが行き届かなくなって久しいのか、少し荒れた感じを抱かせた。洗濯物はヨレヨレの男物のみで、女物も若者用の物も見当たらない。その干し方も、家事に不慣れな人間の仕事の様に思えた。
既に日も落ちて辺りは薄暗くなっていた。未映子は一旦、その家の前を通り過ぎ、人目に付き難い場所に駐車してから善治の自宅に取って返した。そして思い切ってその庭に侵入し、カーテンの隙間から垣間見れる部屋の内部を観察する。玄関先でウロウロして、近隣住民の目に留まることも避けたかったからだ。
外から観察する未映子の目には、まず仏壇に手を合わせる善治の姿が映った。家の荒れた様子といい、どうやら彼は一人暮らしの様だ。おそらく仏壇の主は、彼の妻なのであろうと当たりを付ける。善治は背広を脱ぎ壁のハンガーに掛けた。だいぶ皺が寄っていたが、それは気にならないらしい。白い半そで肌着とステテコの様なラフな格好になると卓袱台の前で胡坐をかき、コンビニの袋から缶ビールを取り出した。次いで、そのプルトップを引いてグイと一口飲むと、弁当の包装を解き、一人っきりの寂しい夕食が始まった。
弁当をつつきながらテレビの野球中継にチャンネルを合わせた善治は一言も喋ることなく、ただ黙って弁当を平らげた。たいして野球にも興味が無いようだ。最後に缶に残った少しばかりのビールを飲み干すと、続いてゲップをする。もう一本飲もうか迷っていたようだったが、結局、残りの一本は冷蔵庫に仕舞い、そのまま奥へと姿を消した。
暫くすると、ガチャガチャという鍵を開ける音と共に裏の勝手口が開き、善治が姿を現した。空になった弁当ガラを包んだコンビニ袋を屋外のゴミ箱に押し込むと、そのまま家の中へと戻って行く。勝手口のドアに鍵をかける音はしなかった。
そのまま更に暫くすると、屋外の給湯器が動き始めた。善治が風呂に入ったようだ。未映子は物音を立てない様に勝手口に回る。そして勝手口のドアをそっと押して、スルリと中に忍び込んだ。
暗闇に目が慣れるまで、未映子はそこで暫くじっとしていた。ダイニングキッチンに据えられたテーブルや家電類が薄ぼんやりと浮かび上がってはいたが、足元が見えるようになるまでは、もう少し時間が必要だ。これから自分がやろうとしていることに対する、言い様の無い怖れが次の行動に出ることを躊躇わせているのかもしれなかった。台所の隅に置かれた冷蔵庫が、低いうなり声を上げていた。
すると、二階へと続く階段の踊り場から黒い影が現れた。未映子は思わず自分の口を抑え、不用意な声が漏れるのを抑えねばならなかった。予め自宅に忍び込み、善治の帰宅を待っていたに違いない何者かの影である。息をのむようにその光景を見つめていると、影は足音も無く移動し、浴室に併設された脱衣所に吸い込まれて行った。その時、浴室から漏れる薄明りに、男の横顔が照らし出された。それは未映子の知らない男であった。しかし未映子は、その顔を何処かで見たような気がしたのだった。優しげな目元など、何だか懐かしい様な気さえした。
浴室からはバシャバシャと水音がした。時折「うぅん」という唸り声も聞こえた。脱衣所に忍び込んだ男は浴室ドアの半透明の樹脂製プレート越しに善治の姿を捉える。浴室は明るく、脱衣所は薄暗い。極端にドアに近づかなければ、こちらの存在が見えることは無い。そして聞こえてくる音から、中の様子を窺っている様子だ。善治は湯船に浸かっているようで、またしても「うぅ~ん」という唸り声が聞こえた。そして男はそっとドアを開け、隙間から中を覗き込む。善治は湯船の中で目をつぶったまま、何やらモゴモゴと独り言を言っているらしい。そして次に両手でお湯をすくうと、それを自分の顔に持ってきてゴシゴシと顔を洗い始めた。それを見た男は、直ぐに次の行動に移行した。
男は勢いよく、それでいて音を立てないようにドアを開いて浴室内に侵入し、善治の頭を抑えて思いっ切り湯船の中に沈めた。その際「ゴン」という音がしたが、男が腕の力を緩めることは無い。善治はバタバタと暴れたが、全体重を頭部に乗せられた状態では、両腕が無意味に宙を掻くだけだ。善治の腕が運良くバスタブの縁を掴んでも、男は容赦無くその手を払い、善治が体を起こすことを許さなかった。バシャバシャと飛沫が上がり、男の全身はびしょ濡れになったが、そんなことに構う素振りは見せない。
徐々に善治の抵抗が下火になり、そして遂に動かなくなっても更に10分ほど、男は善治の頭を抑え続けた。その後、腕の力を緩めた男は善治の首筋に手を添え、頸動脈で心拍を確認すると安心した様に腰を上げた。そして未映子が侵入してきた勝手口から素早く外に出ると、闇の中に消えて行った。
ふと気が付くと、呼吸を荒げたまま震えながら微かな声を漏らしている自分が居た。何が起こったのか判らなかったが、未映子は恐る恐る浴室に近付き、中を覗き込んだ。そして脱衣所にペタンと尻餅をつき、爆発しそうな心臓が落ち着くのを待った。それは5分だったのか、それとも1時間だったのか。未映子は全く覚えていない。夏彦を学校の屋上から突き落とした時、未映子の感情には何の起伏も現れなかったのに、今回はとてつもなく大きな動揺が彼女を襲っていた。何者かが善治を殺害する現場を目撃してしまったのだ。
最後にその殺害現場を去る際、湯船に浮かぶ善治を見下ろした。未映子はこれで全ての障害が取り除かれたことを感じた。既に善治は、夏彦の一件から手を引く決意を固めていたのだが、未映子にはそれを知る由も無かった。
*****
その二週間後のことである。遺体発見の一報を署に入れる前に、康介は念入りに室内を見分していた。善治が思っていたほど、康介は間の抜けた刑事ではなかった。現場の様子に不審な点は見当たらない。自分がこじ開けた玄関ドア以外に、無理やり侵入した形跡は無いし、室内を荒らされた痕跡も無い。おそらく事故死として処理されるであろう。身寄りの無い善治の葬儀は、息子代わりである自分が喪主となって執り行う方向で話を進めよう。そうすれば遺品の整理なども自分が主体となって当たることが出来る。最近、善治が探っていた案件に関する資料は、几帳面な彼らしくテーブルの上に積み重ねてあるが ――善治のそういった癖は、共に働いていた頃から承知している―― 万が一、回収し切れなかった捜査資料などが出てきたとしても対処可能だ。康介はその書類の束を自分のバッグに仕舞い込むと、再度、室内を見渡し、それから自分が勤める宇都宮中央署に電話をかけた。
現場にて捜査官の到着を待つ旨を告げると、康介は電話を切った。そして最後にハンカチを取り出し、康介は自分の指紋が残らない様に、勝手口の鍵を内側からそっと掛けた。これで完全な密室が完成した。
康介は浴室に向かい、善治の亡骸を前に黙って両手を合わせた。そして心の中で呟いた。
「善さん、もう何もかも忘れて、ゆっくり休んで下さい」
ほどなくして近所の交番の巡査が駆け付け、そして宇都宮署の署員が現れた。検視官も同行している。康介は顔見知りの署員に、遺体発見時の状況を詳しく語って聞かせた。連絡が途絶えたことを不審に思った康介が善治宅を訪問し、鍵のかかった玄関ドアをこじ開けたこと。その後、うつ伏せで湯船に沈み、既に息絶えた善治の姿を発見したことなど。これらは、事故発覚への成り行きとして報告書にそのまま記載された。
「善さんがこんなことになるなんてなぁ・・・」
善治と歳も近い、年配の刑事が呟いた。康介は同意した。
「全くです・・・ こんな事故が有るんですねぇ・・・」
「まぁ、気を落とすな。ところで、定年後は善さん、何をやってたんだ? お前、親しかったから何か聞いてるんじゃないのか?」
「いえ。ここ一か月くらいは全く連絡を取り合ってなかったんですよ・・・ 盆栽でもイジってたんですかね?」
康介は不用意な発言をしないよう、質問に質問を返しておいた。その時、風呂場の方から検視官が戻ってきた。
「どんな具合だい?」
年嵩の刑事が問うと、検視官は言った。検視官と言っても特別な資格が有るわけではなく、警察関係者、主に刑事の誰かがその役割を引き受けるというものだ。つまり同僚の刑事である。
「んん~ん・・・ 死因は水死だね。風呂で足を滑らせたのかなぁ、おでこにぶつけた痕が有るけど」
「ぶつけた痕?」康介が聞いた。
「あぁ、丁度この辺に」
そう言って検視官は、自分の側頭部の辺りを指差した。
「転んだ拍子に頭を打って、それで軽い脳震盪を起こした・・・ ざっとこんな感じだと思うね、俺は」
「あの冷徹な刑事だった善さんが、風呂で溺れるなんてなぁ・・・」年配の刑事の声に康介は同調した。
「全くです・・・」
「まっ、正確なところは解剖してみないと判らないけどね」
そう言い残して検視官は退室して行った。康介は年配の刑事に言った。
「善さん、身寄りも無いし。葬式は俺が出そうと思います。親父も世話になったし、善さんの最後の相棒は俺でしたし」
「そうだな。その方が善さんも十蔵さんも喜ぶだろう」
後日、警察から発表された公式見解は以下の通り。
『体に外傷は無く、死因は溺死。胃の内容物からは、未消化の弁当と共にアルコールが検出されたが、死亡要因との因果関係は不明。前頭部に若干の打撲痕が認められるものの、それは足を滑らせて転倒した際にぶつけたものと推察される。事件性は無く、事故と断定する』
善治は不幸な事故で亡くなった。
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