【第三章】深田夏彦
3-1
そうして僕たちは、近所の小さな教会で結婚式を挙げた。それは坂の途中にあるカソリック系の教会で、周りの一般住宅と同化するようにひっそりと佇む、いわゆる「街の教会」であった。二人でドライブしている最中に偶然に見つけたもので、未映子はその飾らない雰囲気をいたく気に入ったのだ。通常なら結婚式などは執り行わない類の教会であったが、行動力のある未映子がその扉を叩いて神父と直談判した結果、無理を推して式を挙げて貰えることになった。神父としても、若い二人の門出を祝福することにやぶさかではなく、話がまとまった後はむしろ積極的に準備を進めてくれた。やれ、オルガン奏者は誰にするだの、祭壇横にはこんな花が必要だのとアドバイスをくれ、それを聞く未映子も楽しそうであった。
ただし、教会で式を挙げる為には、その前に何度かの説教を聞く必要が有り、僕と未映子は日曜の度に、その教会を訪れるという生活を2ヶ月ほど過ごすことになった。神父が話す内容は、夫婦のことであったり家族のことであったり、あるいはこれから授かるであろう、子供のことであったりした。
僕の印象に残っているのは、人は全て「原罪」を背負って生まれてきて、それと共に生きて行かねばならぬ、というものだった。そもそも「原罪」とは、アダムとイブが楽園でリンゴを食べたことを指し、それによって人間が背負わされた、冒さざるを得ない不可避な罪をそう呼ぶようになったらしい。こういった考え方は、キリスト教だけでなく仏教にもみられ、神仏を問わず普遍的な思想であるが、仏教ではそれを「業」と表現し、キリスト教の考え方とは相いれない部分も有るという。例えば、牛にせよ豚にせよ、生き物を殺して食べるという行為は「業」の一つであるという仏教に対し、それが家畜であれば、殺して食らうことは「原罪」には当たらないというのがキリスト教だ。何故なら食べ物は神から与えられた賜物だからである。従い、キリスト教徒は食事の前にお祈りを捧げ、仏教徒は「いただきます(命を頂きます)」と言う。
あいにく僕は ――神父には申し訳ないが―― 信仰心を有しているタイプではないが、感覚的に仏教の「業」の方が腑に落ちるのは、僕が日本人だからだろうか? 僕は心に浮かんだ疑問を神父にぶつけてみることにした。
「冒さざるを得ない、というのはつまり『そうする必要が有った』ということですよね? では、それが本当に必要であるのかどうかっていうのは、どういう視点というか、どういう基準で判断すれば良いのですか?」
神父はほんのチョッと考えると、こう答えた。
「それに明確な判断基準が有るわけではないと思います。ただ、その罪によって幸せになれる人がどれ位いるのか、によって判断すれば良いのかもしれませんね。ただしそれは多ければ良いというものではないでしょう。幸せの『質』が問われる問題ですね」
判ったような、判らないような気が僕にはした。何だか煙にまかれているような気もした。例えばこういうのはどうだろう。正義のヒーローが家族を守るために悪者をやっつけるのは「冒さざるを得ない罪」だとしよう。じゃぁ、その悪者が自分の家族を養うために悪事を働いていたとしたらどうなのだ? そこに光の当たらない社会って、慈悲が無さすぎるのではないか? しかし、ここで神父を困らせても仕方がないことは知っている。僕は何となく、判ったような顔をするにとどめておいた。ただし、善と悪は表裏一体であることは漠然と理解できた。つまり、絶対的な「表」が有るわけではなく、視点を変えるだけでそれは「裏」にも成り得るということだ。だから、どんな善行にせよ、いかなる理由があるにせよ、得た「幸せ」と同じだけの「不幸」が存在し、ゆえに人は自らの行いと同じ重さの十字架を背負って生きねばならないのかもしれない。それがコインの裏表の様に単純明快な関係であれば、人はどんなに救われることだろう。人の感情や行いは、丸くて平らなコインになぞらえて語れるほど単純ではないのだ。僕らの生きている世界は、もっともっと歪んでいる。そしてそのコインも歪んでいる。
この頃から例の高田とかいう男も、いつの間にか姿を見せなくなっていた。結局、何だったのかよく判らなかったが、あの男も僕の後を付け回すのに飽きたのかもしれない。僕は普段の忙しさにかまけ、いつの間にか高田のことなど思い出すことすら無くなっていた。
結婚式はお互いの家族と、ごく親しい者のみで行われた。家族と言っても、僕の方からは父と母、未映子の方からは義祖母だけである。友人としては、僕の勤める農園のご主人夫妻と、夏彦のご両親。未映子はちょっと前まで東京に住んでいたことも有り、友人の列席は無しという、こじんまりとした式となった。その教会のだん家 ――キリスト教では、「だん家」ではなく「信者」だろうか?―― の人たちも、僕らを祝福するために集まってくれた。彼らにしても、自分が通う教会で結婚式が執り行われるなど、生まれて初めての経験である。そういった物珍しさも手伝って、彼らが会場の設営や細々したことを率先してやってくれたお陰で、僕たちは殆ど何もせずに当日を迎えることが出来た。入場の際に流れるオルガンなども、そのだん家の中から、腕に覚えのあるご婦人が引き受けてくれた。決して上手とは言えなかったが、それらがかえって想い出深い式にしてくれていた。
普段は見ることも無い父のタキシード姿や、黒留袖姿の母などは、僕に特別の感慨を与えてくれた。二人をこんな晴れの舞台に呼ぶことが出来るなんて、数年前の僕なら想像すら出来なかったはずだ。ここ数年で劇的に変化した自分の人生を俯瞰することで、むしろ不思議な感動すら覚えるのであった。
夏彦の両親は、未映子のウェディングドレス姿を見て涙ぐんだ。息子を失った後、永い永い時間をかけて立ち直った二人は、かつての夏彦の様に殻に閉じこもってしまった僕を他人とは思えず、心を痛めてくれていたのだ。二人にとって僕は、夏彦の代わりなのだろう。そんな二人にも、未映子という美しい花嫁を見せることが出来て、僕は満足していた。夏彦の母は未映子の手を取ると「渓一さんをよろしくね」と言って、更に涙を流した。それを受けた未映子は、ただ涙ながらに頷くだけであった。僕が未映子の涙を見たのは、それが初めてであったろうか。その時の未映子の胸中に去来していた感情がどの様な物であったのか、僕には判らなかったが、きっとこれまでの色々な物がこみあげて来たのであろうと思った。
僕たちは未映子の生家で、セツお祖母ちゃんと同居することにした。体調が思わしくない義祖母を一人にすることを、僕自身が良しとしなかったからだが、未映子も僕のその提案を喜んで受け入れてくれた。だが、新生活に必要な物を買い揃えるという一大イベントが、僕たちに訪れることは無かった。既に未映子が生活している環境なので、最低限、必要な物は揃っているというのも有るが、それは結婚式と同様で、必要以上にお金を使う気になれなかったからだ。結婚と共に真っ新な物たちに囲まれた生活を始めたいという欲求があるのは、女性にしてみれば当たり前のことであろう。しかし未映子は、そんな上っ面の環境を整えることには何の執着も見せなかった。彼女があえて望まない以上、僕の方から「アレを買おう」とか「コレを新調しよう」などと言い出すのは、なんだか筋違いの様な気もしたし、せっかく慎ましやかな式を挙げたのに、家電などに多額の金を支出するのは、どう考えてもバランスが悪かった。
こうしてスタートした僕たちの新生活は、非常にゆっくりとしたペースで、独特のリズムを刻み始めた。僕は朝早く農場に出てしまうので、朝食は殆ど採らない。昨夜の残り物などを詰め込んだ弁当箱を携えた僕が出勤してしまうと、未映子は義祖母と二人きりの朝食を済ませ、いつもの赤い軽自動車で出勤した。その際、未映子はセツを近所のデイケアセンターに落としてから出社するのが日課となっていた。収入が決して多くはない二人にとって養護サービスの出費は痛かったが、未映子が専業主婦になれるほど僕の収入が多いはずもなく、かと言って認知症を発症する祖母を一人残しておいて行くわけにもいかず、必要経費ということで我慢するしかなかったのだ。
そんな義祖母は僕のことを「旦那さん」と呼んだ。その呼び名は何とも照れ臭かったが、どうしても僕の名前を覚えることが出来なかったようだ。軽いアルツハイマー症を発症していた義祖母は、それでかえって幸せな余生を過ごしているようにも見えた。義祖母のご亭主、つまり、未映子の祖父であり僕の義祖父は太平洋戦争で戦死したと聞いている。その後、女手一つで未映子の母、洋子を育て上げた彼女がどのような人生を歩んで来たのか、本人から直接聞くことは叶わないだろうが、戦前・戦中・戦後と生き抜いてきた苦労は並大抵のものではなかったはずだ。その娘夫婦も失い、孫娘を引き取った彼女の胸に去来したものは何だったのであろうか? そんな苦労すらも忘れることが出来るならば、それはきっと幸せなのだろうと僕は感じた。
逆に夜は僕の方が早く帰宅し、彼女の方が遅くなることが多い。たまの農繁期には僕の帰りが遅れるが、基本的に彼女が先に帰って来ることは無い。従って、晩御飯の準備は僕の役割だった。最初、未映子は晩御飯も自分が作ると主張したものであったが、僕をドブネズミの様な生活から救い上げてくれたのは、他でもない未映子である。僕は彼女の為に、何かをしてあげたいという思いで、晩御飯の担当をかって出たのだ。彼女にばかり負担を掛けるわけにはいかない。今では彼女も、僕の料理の腕に「ある一定の」信頼を置いているようで、僕の作るトマトソースのパスタは、彼女のお気に入りの一品となっていた。
結婚してから始めた料理に、僕は今まで知らなかった楽しみを感じていた。台所に立つという喜びを、これまで世の男性は女性に無条件で明け渡していたというのか? なんとも勿体ない話だと僕は感じた。女性が料理する際の精神状態と、男性のそれとは随分と違うように僕には思われる。もちろん、食事を提供する相手に喜んで貰いたいという願望はあるのだが、僕にとって料理とは一種の化学実験のような意味合いだったのだ。調味料やスパイスはさながら化学薬品や試薬の様な物であり、それらを混錬したり粉砕したり、あるいは加熱したりというのが、まったく以って実験のようではないか。その話を未映子にしたところ、「美味しくなくなるからやめて」と釘を刺された。
義祖母が眠ってしまった後に、やっと僕たち夫婦の時間が訪れる。そんな時は、ダイニングテーブルに向かい合って座り、僕が作ったちょっとした料理を肴に缶ビールを開けるという贅沢をした。そして僕たちは、いろいろな話をした。家のことや仕事のこと。義祖母のことや世の中のこと。ありとあらゆる話をしたが、唯一、二人の過去については話をしなかった。お互いにお互いの過去を聞こうとはせず、また話そうともしなかった。二人の間に横たわる、そのタブーの存在にはお互いに気付いていたが、今はまだ、それを犯す時ではないと共に感じているようだ。もう少し経てば、それを話すことが出来るだろうか? 彼女がそれを話してくれる時が来るのだろうか?
*****
その翌年、僕たちは新たな命を授かった。名前は「花名」と書いて「かな」と読む。体重3900グラムの元気な女の子だった。
未映子のお腹が目立ち始めた頃から僕は、彼女の身体が心配で仕方がなかった。つわりはそれほど酷くはなかったが、それでも意外な物に拒絶反応を示すようになり、その度に僕はアタフタと対処したものだ。一時など「ご飯が炊きあがる前の湯気の匂いが気持ち悪い」などと言われた時は、炊飯器だけを玄関先まで引っ張り出して晩御飯を作ったものだ。
身の回りの物にはお金を掛けない生活をしていた僕たちではあったが、さすがに赤ちゃん関係の物は買い揃えねばなかった。街のベビー用品店に行って、「あーでもない、こーでもない」と言いながら、二人で産まれてくる子供のための物を買い揃えるのは、新婚当初に味わえなかった、新生活のための準備の様な幸福感を二人に与えてくれた。それまで、心のどこかで感じていた引け目の様なものを、若干ながら解消できたような気がして、そういった意味でも僕は嬉しかったのだ。
そして臨月の日。僕は農場に断りを入れて、就職後初めての平日休みを取得した。もちろん農場の皆は快く僕を送り出してくれて、僕は一日病院で、その時を待ったのだ。
しかしながら、陣痛に苦しむ未映子の手を握り、僕は自分の無力さに打ちひしがれていた。きっと自分は、未映子の何の力添えにもなっていないのだろう。そんな気がして、彼女に対して申し訳ない気持ちが沸き上がる。
「まだイキんじゃダメよ。はい、ヒッヒッフゥ~」
「ヒッヒッフゥ、ヒッヒッフゥ」
「頑張って。赤ちゃんにも酸素を送ってあげましょうね。はい、ヒッヒッフゥ~」
「ヒッヒッフゥ、ヒッヒッフゥ」
「ほら、ご主人も奥さんの手を握ってあげて!」
「は、はいっ!」
それでも未映子は、苦しみながら僕の手を握り返してくれた。何もできない僕の手をだ。僕は、未映子がこの手を握ってくれる限り、僕も彼女の手を握り続けようと決意した。これからもずっとだ。僕にできるのは、それくらいしか無いのだから。
「はいイキんでOK! 頑張って! 一気にはいっ!」
「んんんん・・・ がぁぁぁ・・・」
一回目のイキミでは、未映子はそこまでこぎ付けることがことが出来なかった。看護師が落ち着いた声で指示を出す。
「頑張ったわね! はい、じゃぁリラックスして。ゆっくり呼吸して」
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ・・・」
「じゃぁ、もう一回頑張って! はい、イキんで!」
「ぐぅぅぅぐぐぐぁぁぁぁ・・・」
僕の手を握る未映子の手に力がこもり、ガクガクと震えた。彼女の爪が僕の手に食い込んだ。それでも僕は、彼女に負けないくらいの力を込めて握り返す。
「頑張ってママ、もう頭が見えてますよ!」
「がぁぁぁぁああああ!・・・」
「んぎゃぁぁぁ、んぎゃぁぁぁ、んぎゃぁぁ・・・」
僕の目からは、訳も判らず涙が溢れ出た。未映子も涙ぐんでいた。
「はーい、ママ頑張りましたね~。元気な女の子ですよ~」
赤ん坊は泣きながら、未映子の腕に抱かれた。僕たちはその子を挟み込むようにして額を合わせ、そしてまた泣いた。こんな僕に、こんな奇麗な赤ちゃんを産んでくれた未映子に、僕は感謝しても感謝しきれなかった。僕がこんなにも素敵な贈り物を貰っていいのだろうか? 僕にその資格が有るのだろうか? そんな風に、不安にすらなる僕に未映子が言った。
「ありがとう、渓一」
僕は未映子の頭に手を回し、そっと抱き寄せてその額に口づけた。
「ありがとう、未映子」
赤ん坊がまた一段と大きな声で泣いた。
退院した未映子と花名を連れて、タクシーで家に帰ると、義祖母が嬉しそうに出迎えてくれた。待ちきれなかった様子だ。未映子に花名を手渡された義祖母は「めんこいなぁ」と繰り返したが、久しぶりに抱く乳幼児の扱いに自信が無いのか、「おっかないよぉ」と言って、直ぐに未映子の腕に花名を返した。今にして思えば、義祖母が曾孫を抱いたのは、それ一度きりだったような気がする。それでもベビーベッドに眠る花名の顔を覗き込んでは、「めんこいなぁ」と言い続け、そんな義祖母に未映子は「かわいいね」と話しかけた。そんな風に未映子と花名の退院の日は過ぎていった。
だが、その翌日に義祖母の容態は急変した。
「お祖母ちゃん、未映子よ。判る?」
セツの手を握りながら未映子が話しかけると、その声に反応して、セツがうわ言のような言葉を返した。
「済まなかったねぇ・・・」
「ううん、いいのよ。お祖母ちゃん」
何を済まないと思っていたのか、僕には判らなかった。自分が体調を崩したせいで、東京の会社を辞めることになってしまったことか? あるいは僕の知らない何かが、二人の間に有ったのか? いずれにせよ、人生の最後の最後に誰かに許しを請わねばならない一生を送るって、いったいどんな気持ちなんだろう? 僕は漠然とそんなことを考えながら、自宅の布団で静かに息を引き取りつつある義祖母の姿を、未映子の肩越しに見つめていた。花名は僕の腕の中で、スヤスヤを眠っていた。
そこに掛かり付けの医師が、看護師を一人連れて駆け付けた。医師は最初に聴診し、次いで脈拍や瞳孔検査などを行ったが、当の本人は何をされているのかすらも分からないようだ。一通りの検査を終えた後、医者は僕を部屋の隅に連れて行き、こう告げた。
「意識が有るうちに、大切なお話は済ませて下さい」
「もう・・・ ってことですか?」
医者は黙って俯き、退室した。その間際にこう言った。
「もう暫く、隣の部屋で控えております。何かあったら声を掛けて下さい」
僕が医師をお辞儀で送り出している間も、セツはしきりに未映子に謝り続けた。
「他にどうしようも無かったんだよ。それしか無かったんだよ」
未映子は両手でセツの左手を包み込み、それを顔の前に持って行った。そして顔を覗き込むようにして答えた。
「うん・・・ うん・・・」
「何でみんな、泣いてるのかねぇ・・・ 戦争は終わったのにねぇ・・・」
「お祖母ちゃん?」
既に意識が混沌としているようだ。セツの心は、遠い過去を彷徨っているに違いない。もう、未映子の声も聞こえてはいない。
「女が勉強なんて・・・ 洋子は・・・」
そして「すぅーっ」っと息を吸ったかと思うと、ピタリと動きを止めた。虚ろに開く白濁した両目は、長年住み慣れた我が家の天井に染み付いた、雨漏りの跡を見詰めていた。握り返す力を失ったセツの手を、さらに強く握りしめて未映子は言った。
「大丈夫だよ、お祖母ちゃん。私、大丈夫だから」
僕に抱かれて眠る花名が、一つ大きな欠伸をした。
花名の誕生を見届けてセツは亡くなった。苦しみの無い大往生であった。ただ、息を引き取った祖母を前に未映子が涙を見せなかったことは、僕には意外であった。それは気丈に振舞っているのとは、少し違うような気がした。悲しさのあまり涙も出ないのとも違う。何だか肩の荷が下りて、安堵しているという様子だろうか。その時、僕は間際のセツが残した言葉を反芻していた。
「他にどうしようも無かったんだよ。それしか無かったんだよ」
ここでも僕は、未映子の隠された一面を垣間見た気がした。
何が? 何を? 僕には何一つ分からなかった。セツと未映子が歩んできた道のりに、その答えが有ることは言うまでも無いが、僕はそれを知るべきなのだろうか? あるいは、知らないでおくべきなのだろうか? 未映子が自ら、その答えを語ってくれる時が来るのだろうか?
*****
葬儀の間、僕たちは慌ただしく働いた。葬儀社が殆どの手はずを整えてくれるが、花輪を並べる順番は? 訃報のデザインは? 香典返しの選定は? 告別式の式次第は? 僧侶に払うお布施の額は? 葬儀社の担当者と調整すべきことは枚挙にいとまがない。やることはいくらでも有ったが、それらの多くは父の光一が僕たちに代わって取り仕切ってくれたので、幾分なりとも負担を軽くしてもらえた。遺産相続に関しては、問題は起こらなかった。安っぽいテレビドラマなどでは、普段は音信不通ですらあった親戚筋が突如現れて遺産の分け前に与かろうとするものであったが、両親を失っている未映子の身の上を案じてか、あるいは今まで放ったらかしにしていた罪悪感からか、その手の輩が近付いてくることは無かった。ただ、告別式の会場で、僕のよく知らない親戚 ――本人はセツお祖母ちゃんの妹だと名乗っていたが ――が僕をつかまえて、JRから貰った慰謝料は幾らだったのかと聞いて来た。僕は正直に「よく知らないんです」と答えたが、その人はいかにも、知らないはずは無いだろうという目で僕を見て、「あら、そうなの? ごめんなさいね、変なこと聞いて」と言い残して、僕の前から姿を消した。ひょっとしたら彼女は、僕がその金目当てに未映子と結婚したと思っているのかもしれなかった。多分、そうなのだろう。後で未映子にその話をしたら、「私も知らないの」と言った。それが、「その叔母さんのことは知らない」という意味なのか、それとも「慰謝料のことは知らない」という意味なのか解らなかったが、僕はその件に関して、それ以上話を続けることはしなかった。
喪服姿の未映子は美しかった。和服姿の彼女を見たのは初めてだったが、その凛とした姿は実年齢以上の深みを湛えていた。その反面、それはとてつもなく脆いガラス細工の様でもあった。何の根拠も無く、僕たちの幸せは積み木でこしらえた城の様に、いともたやすく崩れ落ちる儚い夢の様なものかも知れないという想いがよぎった。
薄暗い会場に流れる読経が、静かな湖を渡る霧を連想させ、僕は未映子と二人で訪れた田沢湖を思い出していた。
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